中世イタリアの大学生活
グイド・ザッカニーニ 著
児玉善仁 訳
平凡社 発行
1990年7月13日 初版第1刷発行
原題の直訳は、『十三、十四世紀におけるボローニャ大学の教師と学生の生活』となっています。1924年頃に書かれました。
ボローニャ大学の黄金時代を史料に忠実に描き出しています。
はじめに 世界最初の大学 ボローニャ大学の成立
世界最初の大学制度としての中世大学は、まずボローニャに生まれ、そして同じ頃パリにも生まれた。
パリ大学の方は教師中心の組織だった。
これに対して、少なくとも初期のボローニャ大学は学生の組織だった。
当時は外国人学生の方が多く、それが同郷ごとに国民団を結成し、それがいくつか集まって、自らの規約をつくり、団代の長である学頭以下の組織をおいて、組合組織として法的形態を整備した。
その際、イタリア人以外の学生の国民団が集まってアルプス以北組大学団を、イタリア出身学生の国民団が集まってアルプス以南大学団を形成。
つまり、最も初期のボローニャ大学は、法学を学ぶ学生たちが形成した国民団の複合体である二つの大学団によって構成されていた。
教師は学生に対して「栄誉ある従属」だった。その威厳は学生の評価と認定で保たれてきた。p15
中世都市にとっては、大学を持つことで文化的威信がもたらされるだけでなく、多数の外国人学生がその町に流入することによって、直接には都市経済そのものが活発になり、間接にはアルプス以北との交易を確立するチャンスが増大するというメリットがあった。
しかしそれと同時に、外国人学生によって町の秩序と治安が脅かされるというデメリットも生じた。p19
ボローニャ大学はきわめて国際的な組織だった。その性格を持つことが出来たのは、共通言語としてのラテン語の存在があったためと、教皇権や皇帝権という地域国家を超えた普遍的権力による後ろ盾があったためである。
その普遍的権力を後ろ盾として、大学は地方権力であるボローニャの町と抗争を繰り返した。
そして抗争の結果「人」としての中世大学はボローニャの町を飛び出して他の町に移動し、そこで新たに大学をつくった。
序章
第一章 大学の学頭たち
第二章 大学教師たち
第三章 学生たち
ボローニャの学生はたいてい年長になった者で、しばしば教会参事会員であったり、すでに教師であったり、勉学生活をするために役立った聖職禄をすでに享受している聖職者たちであった。p86
ボローニャの党派抗争に大学の教師と学生もしばしば巻き込まれていた。p90
今日見られるような大学の建物は、イタリアでは15、16世紀から始まったにすぎない。
それまでは学校は町全体のあちらこちらに少しずつ散在していた。p123
第四章 文法教師たち
文法の学習はすでに12世紀からボローニャで深められていた。
文法は、法律のより高度な学習のための初歩的基盤であり、必要欠くべからざる準備でなければならなかった。p146
中世の文法というのは、今日のような狭いものではなく、ラテン語の読み書きから著作家の読解に至るまで幅広い意味を持っていた。言葉に関わることに等しかったとさえいえるだろう。p234(訳注)
第五章 私的教師たち
教養と法律の歴史にとって、中世における私的教育の研究はかなり重要である。
学校というものが、教会によって常にかつ全面的に従属されておらず、統制もされていなかったこと、またコムーネ当局からある種の独立を享受していた。p174
私的な学校と並んで、今日会計学と言われる内容の自由な学校もそこにはあったに違いない。
北イタリアと中部イタリアの間の、商業活動の中心であったボローニャのような豊かな町は、商人や銀行家になるための実務教育をも用意しなけらばならなかった。p190
第六章 大学の職員たち
第七章 ボローニャ大学の衰退
大学が衰退した原因の一つは、コムーネ当局がもはや大学に教師を引き留める力を持っていなかったという事実にもあった。p217
疫病の恐怖から外国人学生が大学を見捨てた。p219
訳者あとがき
中世ボローニャの若き学生たちのエネルギーは、確実に勉学への情熱となってほとばしり出ており、彼らの知識への渇望こそが大学を支配していた。p222
修道院が古い知識の象徴であったとすれば、イタリアの中世大学は新しい知識の象徴だった。p223
12世紀頃のヨーロッパで興った知的渇望を充足した新しい知識が、基本的にはローマ法や古代医学の再生であった。p225
『神曲』で有名なダンテは、1285年から2年間ボローニャ大学で学んだ。P240 訳注
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