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十二世紀のルネサンス ヨーロッパの目覚め

2024-06-09 21:27:00 | ヨーロッパあれこれ

十二世紀のルネサンス

ヨーロッパの目覚め

チャールズ・ℍ・ハスキンズ 著

別宮貞徳・朝倉文市 訳

講談社学術文庫

2017年8月9日 第1刷発行

 

元の著作は1927年に発行されました。

この本では十二世紀ルネサンスの例として、ラテン語古典の復活、法学の復活、ギリシャ語とアラビア語からの翻訳、科学の復興、哲学の復興、大学の起源などについて書かれています。

 

第一章 歴史的背景

十二世紀ルネサンスの文化の歴史

ロマネスク美術の完成とゴシック美術の興隆、抒情詩と叙事詩における各国語の隆盛、ラテン語の新しい学問、新しい文学

司教座聖堂付属学校の隆盛に始まり、最初の大学の確立をもって終わる

 

ダンテは「片足を中世に入れて立ち、片足でルネサンスの星の出に挨拶を送る」

 

一般的にカロリング・ルネサンスと呼ばれている九世紀の学問・文芸の復興はシャルルマーニュとその直後の後継者の宮廷を原点かつ中心としている。

 

第二章 知的中心地

 

第三章 書物と書庫

十二世紀に記録が発達し、訴訟が増え、文筆の才が進んだことから、また別の問題が生じてきた。大量の偽造である。

 

第四章 ラテン語古典の復活

シャルトルの学校は、十二世紀はじめの司教座聖堂学校の中ではずば抜けた存在だったが、それはまず第一に文学の学校としての優秀さだった。

ブルターニュ人のベルナルドゥス(ベルナール)は第一級の文法学者ながら自由闊達、ウェルギリウスとルカーヌスの作品をこよなく愛して、古典作家をあらゆる面から注解し、研究と思索の静かな生活を讃える詩をつくっている。彼の見るところ、当代の人たちは偉大な過去の巨人の肩に乗る小人だった。

 

アレクサンデル(アレキサンダー)・ネッカムは

ローマはこの世の冠、ほまれ、宝石にして飾り

と書いている。

中世人の見るところ、ローマは帝国であって共和国ではなかった。

 

第五章 ラテン語

十二世紀の西ヨーロッパの共通語はラテン語だった。

文学の目的にかなうような各国語は、さまざまな地方のラテン語方言から、ようやく形成途上にあったに過ぎない。

 

辞書のもう一つのタイプは、記述的な単語集で、無味乾燥なそれまでの語義解説単語表を廃し、文章の中に単語を組み込んで、その意味が説明されるような形をとっている。この系統のはじまりは、この時代でいえば、十二世紀初頭のパリの修士プティ・ポンのアダム、それに続く人は十二世紀終わりごろのパリの教師アレキサンデル・ネッカムである。彼らの著述は、家庭用品、宮廷生活、勉強道具を取り上げている。

 

ネッカム(1157-1217)は、単なる辞書編集者におさまらないところがあった。

パリの学生、ダンスタブルの教師、サイレンセスターの参事会員で修道院長だった。

自身の語るところでは「学芸をまじめに学びかつ教えた後、聖書の研究に転じ、教会法やヒポクラテス、ガレノスの講義も聞けば、市民法もまんざら嫌いではなかった」そうである。

 

第六章 ラテン語の詩

十二世紀のラテン語詩は、古代の様式や題材の単なる復活ではなく、はるかにそれ以上のものであって、そこには宗教の時代であると同時にロマンスの時代であるこの時代の、力強い多面的な生活が種々様々な形で表れていた。

しかし、この多様性がラテン語の迫りくる衰退の兆しである。数多くの国語が文学のより自然な媒体となる。

十二世紀は国際的な詩を持つ最後の偉大な時代なのである。

この一群のラテン語の詩から受ける印象は、混沌と言っていいほどの豊かさである。

 

ほぼ1125年から1230年にかけての十二世紀は、ゴリアルディ(遊歴書生)の詩の最盛期である。

ラテン語の世俗抒情詩を一般にそう呼ぶ。

 

第七章 法学の復活

三度ローマは世界を征服した。

軍隊によって、教会によって、そして法律によって。

さらに一言するなら、法律によるこの最終の征服は、帝国が崩壊し軍隊が瓦解した後の、精神的な征服だった。

ローマの法ほどローマ人の才を示すものは無く、また、根強くいきわたったものはない。

 

第八章 歴史の著述

十二世紀の知的復興が最もよくあらわれているものの一つを、歴史の著述にみることができる。

 

第四回十字軍(1201-04)は結局コンスタンティノープルの征服と短命なラテン帝国設立という結果に終わった。

この遠征の記述として定評があるのは、シャンパーニュの騎士のジョフロワ・ド・ヴィラルドゥアンの筆になるもので、生き生きとして力強い自国語によるその叙述はきわめて魅力に富み、フランス文学史に著者の名を髙らしてめている。

しかし、その文学的魅力故に、長い間文不相応な歴史的重要性を与えられたきらいがある。

コンスタンティノープルへの方向転換を、所定の計画ではなく、単なる偶然の積み重ねのように書いている。

それは他の史料によって訂正されなければならない。

 

第九章 ギリシャ語・アラビア語からの翻訳

十二世紀のルネサンスは哲学、科学にかかわるものが多く、

コンスタンティノープルならずスペイン、シチリア、シリア、アフリカからも入ってきている。

 

第十章 科学の復興

1125年に始まる一世紀は、エウクレイデスとプトレマイオス、アラビア人の数学と天文学、ガレノス、ヒポクラテス、アヴィセンナの医学そしてアリストテレスの百科事典的に豊かな学識をもたらした。

 

旅行記の中では、1188年とその数年の間に『アイルランド地誌』『ウェールズさまざま』『ウェールズの旅』をギラルドゥス・カンブレンシスが書いた。

彼の地理学は非常に人間的である。

 

『サレルノ式健康法』の一節

「朝食のあとには1マイルの散歩、夕食の後にはひと時の休み」など今でも通用することわざがある。

 

第十一章 哲学の復興

 

第十二章 大学の起源

十二世紀は三学芸と四学芸を新論理学、新数学、新天文学で充実させるとともに、法学、医学、そして神学という専門の学部を生み出した。

それまで大学は存在しなかった。存在してもおかしくないだけの学門が西ヨーロッパにはなかったからである。

この時代の知識の膨張とともに、自然に大学も生まれることになった。

知的な革新と制度上の革新が相携えて進行した。

 

シャルトルが大学にならなかったのは明らかで、事実、パリの優位が確かなものとなった十二世紀の中葉にはシャルトルの最盛期はすでに終わりを告げている。

 

パリがいつ司教座聖堂付属学校ではなくなって大学になったのか、正確にはいえないし、大学創立の日を特定することもできない。
すべて最古の大学の例にもれず、パリ大学も作られたのではなく、育ったのである。

その成長もある程度物理的なもので、最初は聖堂構内に建てられた学校だったのが、教師と学者が住むプティ・ポンへ、プティ・ポンの哲学者たちは自分たちだけのグループを作っていた、さらには左岸まで広がって、以来そこがパリのカルチェ・ラタンになっている。

 

十三世紀にはパリは諸学の母であるだけでなく、諸大学の母となった。

パリを筆頭として生まれた子供たちは、北ヨーロッパの、さらに広い地域を含む。

 

ボローニャ大学はローマ法の復活の直接の結果として出てきたものだが、最古の法律学校ではなかった。しかし他の学校は大学まで発展しなかった。

ボローニャが最古の大学になったのは、地の利ではないか。

北イタリアの交通の要衝で、フィレンツエから北に向かう街道がアペニン山脈の北側を走るエミリア街道と交差している。

 

1200年頃には、おそらくアレクサンデル・ネッカムから出たものと思われるが、いくつかの科目で使われた作品の系統的な記録がある。

 



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