イタリア中世の都市社会
清水廣一郎 著
岩波書店 発行
1990年12月10日 第一刷発行
中世イタリアの人たちの日々の営みの記録が、登記簿や会計簿、そして覚書などのかたちで"フリーズドライ”されていたのを、著者のような優秀な研究者の地味な努力で、現代日本において”解凍”して頂き、生々しい記録を読むことができるのは、幸せなことです。
Ⅰ イタリアの中世都市
1 古代の遺産
イタリア中世都市は、そのほとんどがローマ都市に起源を持っている。
中世以降に建設された有名な都市
商業都市アマルフィとヴェネチア(いずれも6世紀ごろ)
フェラーラ(8世紀に資料初出)
都市が経済的中心地としての機能を持ち続けていたことは、ローマ帝国崩壊後の支配者たちにとっても無視できなかった。
5世紀に建国した東ゴート王国が北イタリアの中心都市ラヴェンナを都とし、その後に続くランゴバルト族も、またフランク族も都市を行政の中心と考えていた。
2 コムーネの成立
コムーネ(自治都市)の発展にとって見逃せないのは、司教権力の背後で都市住民の発言力が次第に増加しつつあったということである。
「コムーネ」や「コンスル」(市民の代表)のごとき用語が史料に現れるのは11世紀末から12世紀初頭のことであるが、それ以前から事実上の市民団体が存在したことはほぼ確実である。p8
3 領域国家としてのコムーネ
コムーネの成立は、たんに都市集落内部の問題にとどまるものではなかった。それは、周辺の農村地帯を支配する領域支配権力として成立した。
4 都市の権力構造
5 富の分布
1427年、フィレンツェの新しい税制。それまでは関税や消費税などの間接税と、それを担保とした強制公債に依存していた。
戸主全員に資産状況の申告を求め、それの基づいて課税するという新たな税制「カタスト」が導入された。
6 都市の理想と市民権
Ⅱ 都市の理想と「真の市民」
14世紀フィレンツェにおける市民権
フィレンツェの歴史は、カエサルによる建設からトティラによる破壊まで、そのすぐ後の再建からフィエーゾレの征服までというそれぞれ500年にわたる二つの時代に区別される。
フィレンツェにおけるフィエーゾレ征服は1125年の事件
フィレンツェがはじめて周辺領域(いわゆる「コンタードの征服」)にのりだしたことを意味するものであって、その後のフィレンツェ史の歴史記述においても、画期としてつねに用いられることになる重要な事件
Ⅲ 中世イタリア都市における公証人
民衆の法意識との関連で
1 公証人文書
12、3世紀以降の公証人は「自由職業者」であるところに大きな特徴がある。
彼らは公的な秩序を担うものとして認められ、それ故に認証業務や私権にかかわる公正証書の作成がまかされる。
それにもかかわらず、その活動は自由な職業活動としての性格を持つ。
公証人文書のカテゴリー
・公証人がまず作成するメモ
・公証人登記簿
・公正証書
2 公証人の成立
3 公証人の業務
4 公証人の数
Ⅳ 中世後期イタリアにおける都市国家の膨張と市民
ヤコポ・デル・ペーネの会計簿
本稿は、14世紀中葉、ピストイアのカピターノやプラートのポデスタを歴任したフィレンツェの有力市民ヤコポ・デル・ペーネの行政官としての活動と経済生活の側面について
1 ヤコポ・ディ・フランチェスコ・デル・ペーネ
従属都市の行政官として赴任したときの会計簿を残す
2 ピストイア、1355-56年
3 プラート、1359年
4 ポデスタの部下について
Ⅴ 十四世紀ピサの商業地区 サンタ・クリスティーナ教区について
公証人文書による分析
14世紀ピサの政治史を特徴付けるベルゴリーニ派(親フィレンツェ派)とラスパンティ派(反フィレンツェ派)の抗争p103
一人の公証人の登記簿を史料として、エンポリウムとしてのピサ、フィレンツェへ連なる内陸交通と、ジェノヴァから北アフリカに及ぶ海上交通の結節点としてのピサについて
1 史料
14世紀ピサの公証人セル・アンドレアの登記簿のうち、14世紀前半に関わるもの
2 フィレンツェ人
ピサはアルノ川の河口から約10キロさかのぼった地点にあり、トスカーナの「自然の出口」であったため、フィレンツェの有力商人たちはここに支店を構えていた。
ピサとトスカーナ内陸部とは、運送業者の活動によって緊密に結び付けられていた。
3 ジェノヴァ人
ピサのサンタ・クリスティーナ教区には、多数のジェノヴァ人が、短期であれ長期であれ、滞在していた。
彼らの活動は、ジェノヴァ本国の海上活動に結び付いており、きわめて活発とともに、コルシカ、サルディーニャ、マヨルカ、北アフリカへ至る広範なものであった。
ガレー船が穀物の輸送に用いられていた。
多くの人力を必要とし、それだけに積載量も少なく、コストがかさむガレー船の場合、そのコストをカバーするような高価かつ軽量の商品を輸送する必要があった。
一方、コグをはじめとする帆船は機動性においてはるかに劣り、鈍重であったが、コストが低廉であったので、安価な商品を多量に輸送することが出来た。
しかし14世紀中葉には、ジェノヴァにおいてもガレー船を穀物のような重い商品を輸送するために用いていた。
4 ピサを中心とする海上活動
小型船「バルカ」の占める割合が高い。ガレー船は少ない。
ぶどう酒の輸送が頻繁に行われている。ピサの周辺農村はぶどう酒の生産に恵まれず、製品の質は高くなかった。エルバ島からぶどう酒が運ばれ、ナポリからギリシャ型の甘味ぶどう酒が輸入された。またコルシカ島もピサにとって重要なぶどう酒の供給地だった。
5 サンタ・クリスティーナ教区の特徴
西地中海の海上交通の流れと、フィレンツェを中心とするトスカーナの内陸交通の結節点としてのピサ。
そのピサの機能を典型的に示すものとして、キンツィカ地区、とりわけサンタ・クリスティーナ教区がアルノ川沿いの「港」として存在した。
Ⅵ 家と家を結ぶもの
中世末期イタリアにおける嫁資について
結婚は、家の内側と外側の両面において同時に新たな結合関係を生み出す。
このような結婚の二面的性格はあらゆる社会において共通のことであるに違いないが、中世末期のいたりあにおいては、嫁資がかかる二面的な結合を支える物質的基盤としてきわめて重要な意義を持っていた。
1 嫁資とは何か
ローマ法においては、一般に家長の権限が強大であった反面で、相続における平等主義が存在し、年齢や性別を問わず平等に相続権が認められており、女子も原則的に同等の権利を有していた。
一方、6世紀中にイタリアへ進出し、後代の法慣行に大きな影響を残したランゴバルト族の場合には、女子の相続法上の地位は著しく低かったことが知られている。嫡出の男子がある場合には女子は相続から排除されていた。
嫁資というのは婚姻関係の設定や保持に関する費用を負担するというのが本来の趣旨であり、原理的には中世においても同様な理解が行われていた。
そのため、夫の財産を増やすものであればなんでも嫁資とすることが出来た。
不動産、動産から何らかの用益権や債権などさまざまなものがあったが、一部は現金、一部は品物というのが普通であった。
2 覚書の中の嫁資
3 人生訓の中の嫁資
ジョヴァンニ・ディ・パゴロの『孤児の被る七つの損害とその救済法』
標題の範囲をこえた事実上の商人の人生訓
税金対策
「信用され、嘘吐きと思われない程度の、真実に近い嘘」がよい。p201
孤児の教育の問題
読み書き算盤を習うだけでなく、古典の知識をも身につける必要がある。
そうすれば、好きな時にヴェルギリウス、ボエティウス、ダンテ、キケロ、アリストテレスなどと語り合い、教えを受けることが出来る。
この部分は、100年後の1513年に『君主論』執筆中のマキャヴェッリがフランチェスコ・ヴェットーリにあてて書いた有名な書簡を想起させる。
4 嫁資金額の高騰と「嫁資基金」
Ⅶ ある冒険商人の記録
ブオナッコルソ・ピッティの『クロニカ』
市民特に商人たちが自分自身および自分の「家」にとって最も重要な事項を書き留めた「覚書」
この種の覚書は、イタリアのどこの都市でも発展したわけでなく、その大部分がフィレンツェおよびその周辺都市に限られている。
また14世紀にダンテやボッカッチョのような俗語による文学作品が続々と生み出された都市も他に見出すことは出来ない。
1 都市貴族ピッティ
ブオナッコルソ・ピッティは商人としてよりもむしを職業的な賭博師として稼いでいた。
そしてブオナッコルソは「達意の筆を持つばくち打ち」であった。
2 賭博師ブオナッコルソ
商人たちにとっては、当時の投機的な遠隔地商業は賭博とあまり違わないものだったのかもしれない。
3 外交官から政治家へ
結婚により当時の有力者と姻戚関係を結ぶことができ、その後フィレンツェの政治社会で活動するための強固な基盤を築くことが出来た。
当時の外交は金銭的な交渉を伴うことが多かったので、練達の国際的商人が腕を振るう機会がしばしば生じた。
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