古代ローマへの道
ヘルマン・シュライバー 著
関楠生 訳
河出書房新社 発行
1989年2月22日 初版発行
原題は「ローマ人道路を通ってヨーロッパを駆け巡る」という意味だそうです。
その通り、ヨーロッパ中の古代ローマ道路を詳しく説明しています。
塩野七生さんのローマ人の物語で興味を持ち、アッピア街道を見に行ったものです。
1 ローマ以外のどこへ?
イタリアの古代ローマ道路
ローマの環状高速道路を走り回っていると、古代ローマの名前とキリスト教の名前が並べているのが目に入る。
ポルタ・サン・セバスティアーノとポルタ・アッピアなど
道路はみな、ローマへ入っていくというよりかローマから出ていった。
ローマ人自身が征服欲に目覚めて、征服しようと思うところ、すでに征服したところ、さらに遠くへ遠征する準備をしようと思うところに向けて、道路を建設する気を起こした。
エトルリア特有の道路は、人工の谷を造って丘や小さな山を切りとおす隘路で、その側壁の高さは25メートルもあるのに、底面の幅は3メートルしかない。
先ローマ時代のイタリアは遠距離道路の無い国だった。その主な前提となる政治的統一と強力な中央権力が欠けていた。
昔の道路のうちで最も重要なのは、明らかに、個々の種族が経済的な理由から争いをやめざるを得なくて結んだ協定に基づいてできたものである。
ローマ人が道路を造ったのは「ほとんど世界をまっすぐに旅行できるようにするためと、住民の失業を防ぐため」といわれるが
仕事の無い民衆よりか、仕事の無い兵士の方がはるかに危険だった。彼らは潜在的な暴徒として恐れられた。
ローマの道路のためのお金は公金だけではとうてい足りなかった。寄付行為、あるいは財産の遺贈によった。その功績は高く評価された。
ローマ人は山中の旅をひどく嫌って、そのため、できることならむしろ遠回りをして山を迂回した。
ギリシャ人はできるだけ自然の傾斜と風景に合わせて道を造ろうとしたのに対して、ローマ人は直線の原則ゆえに絶えず自然と戦った。
アッピア街道の立木は今よりも昔の方がはるかに豊富であった。ローマ人は陰を恵んでくれる街道の木々に、自分の家の庭に植えた木に対するような愛情を注いだ。
アッピア街道とトラヤナ街道に、対ギリシャ、対オリエントの貿易が加わって、ブルンディシウムはイタリアで最も大きく、最も富裕な町の一つになった。
ローマ最大の詩人ウェルギリウスが前19年にこの町で亡くなっている。
道路と道路網に、文句なくプラスに評価できる機能は、ローマの郵便制度クルスル・プブリスクである。
権力の確立を求めるローマにとって、まだ遠征の途中でも、占領した地域によい道路をすぐに造ることが極めて重要だった。
軍団はその道路を急いで通って、ほどなく別の土地で配置につくことができたからである。
2 ガリアを照らすローマの太陽
フランスにおける古代ローマ道路
墓と墓地は、里程標と並んで、ローマ道路の走り方を知るための最も確かなしるしである。
カヴァーヨン(カベルリオ)は古代に興味を持つ訪問者ならだれにとっても、訪問しがいのある土地である。
そして最も印象的にプロヴァンスの古代が私たちに迫ってくるのは、廃墟の原、グラヌムにおいてである。
オランジュ、ニーム、アルル、エクス、カルパントラに囲まれる活気ある地域の中心なのである。
ローマ人は道路建設に際していつも谷底を避ける原理を守ったことである。それで融雪期の洪水の害を受けずにすんだのだ。
3 ノルマン人のための準備作業
イギリスの古代ローマ道路
今日、ヨーロッパの共同体とさまざまの悶着を起こしているとっつきにくいイギリスは、今は忘れられているポイントだが、今日のヨーロッパ都市ストラスブールを進発したローマ兵に征服された。
総督で将軍だったアグリコラはしばしば船を先にやって海岸を略奪させ、島の北方を完全に回り切ることを命令した。
おそらく、四百年前にマッシリアの商人で学者であるギリシャ人ピュアテスの行った大胆な探検航海以来、最初の企てである。
ブリテン本島に道路を建設するにあたって、もっぱら軍事的な目標設定をしたことで、短い道路が相対的に多く、行き止まりの道が何本もあることが説明できる。行き止まりとは、集落と集落を結ぶのではなく、どこがで尽きる、つまり危険地帯へ入っていく道のことである。
ローマ人は確かにすぐれた兵士ではあったが、いつの時代でもいつの時代でも、どちらかといえば情けない船乗りだった。
ローマ人がいくら美しい道路や市門や市壁を築いて維持しようと、イギリスの運命は常に海であった。
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