北千島・サハリン・オホーツク
相原秀起 著
北海道大学出版会 発行
2017年1月25日 第2刷発行
2013年頃、北千島の最果て、占守(シュムシュ)島やサハリンの北緯50度線の旧国境、そしてオホーツクなどの東シベリアなど、まさに秘境を訪ね歩いています。
サハリン(樺太)は、このブログでも古くはチェーホフや林芙美子、そして柳田国男、最近では村上春樹や梯久美子など多くの作家に書かれているのを紹介していますが、北千島に触れた文章は初めて見ました。
現代ではウクライナ侵攻のせいで、ロシア秘境の訪問も更に難しくなっているのでしょうね。
第一章 遥かなる北千島
一 最果ての島・占守島へ
北千島はカムチャッカ半島南端のロパトカ岬と向かい合う占守島、千島列島2番目の大きさの幌筵(パラムシル)島、同列島最高峰のアライド山がそびえる阿頼度島、志林規(シリンキ)島の4つの島からなる。p4
占守海峡は1875年(明治8年)の樺太千島交換条約を受けて、日本とロシア(ソ連)の間に国境線が引かれて、1945年8月までの終戦までの70年間、両国の国境となっていた。
サハリンからハバロフスクに飛び、そこからカムチャッカ半島のペトロパブロフスクカムチャッキーから幌筵島セベロクリリスクまでフェリーで行く。ロシアではヘリは危ない。幌筵島から占守島までの渡し船は無く、幌筵島でつてを探すというようなやり方がロシアでは日常茶飯事。結局ボートや四輪駆動車を持っている人に連れていってもらい占守島をめぐる。
占守島は現在二か所ある灯台の職員の他は住民はおらず、ロシア軍も駐在していない。p15
占守島と幌筵島は1952年11月に大津波に襲われた。p15
終戦から二日後の1945年8月17日深夜から18日未明にかけてソ連軍が占守島に突如上陸し、日ソ両軍の激戦が始まった。p17
今も占守島島内では日本軍の隠した日本酒や缶詰がたまにみつかるという。p20
戦前の地理の教科書では、日本領土の東端として占守島が紹介されている。当時の日本領の北端は阿頼度島。だがカムチャッカ半島のロパトカ岬とわずか12㎞の距離で向かい合う。この国端崎の岬こそがまさに国の端、「国境の岬」だった。p27
二 70年前の激戦地
三 変わりゆく幌筵島
あるロシア人との雑談の中で、北千島も返還要求してくれないかと言われる。それなら南クリールのようにロシア国内でも注目してもらえる。p56
「ツナミ」は世界共通語で、ロシアでも津波は「ツナミ」と呼ばれる。p57
幌筵島のセベロで暮らす成人の半数以上は北海道を訪れたことがある。p62
もともと、ロシア人が千島列島に来たのも、ラッコが目当てだった。ラッコは最高級の毛皮を持つ動物である。p66
第二章 知られざるサハリン
一 「国境の町」安別へ
2013年7月、稚内からサハリンへフェリーで渡り、北千島への入域許可が出るまでの間を利用して安別を取材する筆者
安別で4号の標石の土台を確認する。
樺太の日露国境線には1906年(明治39年)から翌年にかけて天体観測で北緯50度線を定めて、国境標石と呼ばれた4基の大標石の他、中間標石と呼ばれる小型の標石17基と10本の評木が設置されていた。p84
北原白秋は樺太の旅行記「フレップ・トリップ」に安別の様子を書いている。「フレップ」とは「赤い実」のことで、樺太の低木に実り、樺太出身者にとっては古里の味。「トリップ」は「黒い実」という。
白秋が安別を訪ねたのは1925年(大正14年)8月13日。p87
二 流転の標石たち
4号の標石は南サハリンのある町である人が隠し持っていた。隠しているのは知られると強盗に狙われるから。
筆者の説得のかいあって2号標石は日本に帰還
3号標石はサハリンの郷土博物館内に展示されているが、どうやらそれは模型らしい
三 資源開発のはざまで
ロシア極東の中でも州都ユジノサハリンスクとウラジオストク、ハバロフスクの変貌ぶりには目を見張るものがある。
その一方、その三都市以外の地方都市の衰退は著しい。p137
第三章 シベリアの荒野へ
一 オホーツク
ロシアは海を越えてカムチャッカ半島やアリューシャン列島、千島列島に進出したが、その玄関口になった町がオホーツク海の奥にあるオホーツクだった。
帝政ロシアによってオホーツクの町が造られたのは1647年。p149
現在のオホーツクは燃料などの物資輸送は春から秋まで船が頼りで、流氷が海を埋める真冬の交通は1400キロ離れたハバロフスクだけの空路となる。陸路は遠すぎるためだ。p156
二 北極圏の旅
地球温暖化によって、厚く閉ざされた北極海の氷が減少し、夏場はコンテナ船などが北極海を航行できるようになった。注目される北極海航路である。
ヨーロッパから北極海を抜けてベーリング海峡を抜けて太平洋に出て、カムチャッカ半島、千島列島沿いに南下して、北海道から東アジアへと向かう。
北極海航路なら従来の3分の2の日数で到着することができる。p168
マンモスハンターと聞けば、マンモスにやりで立ち向かう姿を連想するが、木村博士は実際にマンモスをやりだけで倒すのは簡単でなく、沼地に追い込んで動きを止めて射止めたか、マンモスよりもシベリアの平原に生息していたオオツノジカや野牛などを主に狩っていたのではないかと推測する。p171
(マンモスの狩りといえば、どうしても「はじめ人間ギャートルズ」の影響が強いです・笑)
シベリアでは日本のようにきれいな水はないと考えるべきで、川水など生水を飲むことは自殺行為に等しい。少なくとも腹痛を起こすのは間違いない。p183
三 マンモスと光太夫を追って
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