フリードリヒ2世
シチリア王にして神聖ローマ皇帝
藤澤房俊 著
平凡社
2022年3月9日 初版第1刷発行
本書は、ドイツのシュタウフェン家とシチリアのノルマン朝の血を引き、教皇と戦い続けたシチリア王にして神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の破天荒な生涯を語っています。
プロローグ フリードリヒ二世とは
フリードリヒ二世に対する歴史研究者の評価
・ブルクハルトはフリードリヒ二世を、あらゆる権力を手中におさめようと、中世の封建的社会秩序を脅かした、イタリア・ルネサンスの僭主に先んじた人物と理解する。
・最近の研究では、フリードリヒ二世は、ルネサンスの先駆者ではなく、中世の頂点と凋落を具現する皇帝とみなす。
・カントーロヴィッチの『皇帝フリードリヒ二世』は出版当時から研究者の厳しい批判を受けた。古典中の古典ではあるが。
・今日の研究では、フリードリヒ二世が、母方のノルマン朝の法律、統治体制を継承し、父方の祖父フリードリヒ一世(バルバロッサ、赤髭王)の帝国理念を追求した中世の皇帝であることに異議を唱える人はいない。
・EUの誕生に伴って、多文化的特徴と宗教的寛容、西洋と東洋の対話の主導者、「コスモポリタン的精神」が強調されるようになった。
Ⅰ シュタウフェン家とノルマン朝の結合
赤髭王の政治目的はイタリアにおける神聖ローマ帝国の強化と拡大にあった。
赤髭王のイタリア政策における三つの明確な目標
・北イタリアの都市が行使している裁判権・徴税権・貨幣鋳造権などの皇帝の特権、レガリアを取り戻す
・帝国に属するシチリア王国を服従させる
・皇帝権の教皇権に対する優位を確立する
Ⅱ 「子ども王」の時代
神聖ローマ帝国へのシチリア王国の統合
シチリア王国を神聖ローマ帝国に吸収・合併するということではなく、シチリア王国は残しながら、帝国との連携を強化して、イタリア半島を統一的に支配すること。
シチリア王国が無政府状態にあった10年間に、祖父ルッジーロ二世が建てたパレルモの王宮のなかで、フリードリヒ二世が騎士としての鍛錬を重ね、ラテン語などの言語を学び、帝王学を学んでいた。
フリードリヒ二世の股肱の臣ベラルド・ディ・カスターニャ
Ⅲ ドイツの八年間
二番目の股肱の臣ヘルマン・フォン・ザルツァ
教皇と皇帝の対立を緩和することに全生涯を捧げている。
Ⅳ シチリア王国の再建
教皇ホノリウス三世がフリードリヒ二世を神聖ローマ帝国皇帝として戴冠するという決断の理由
・エジプトで窮地に立たされていた第五回十字軍を成功させるため
・ローマ教会の財政的・司法的な特権を含む「教会の自由」を保証できる強力な皇帝権を必要としていた。
・異端に対する戦いで皇帝の関与を必要としていた
フリードリヒ二世は
四歳でシチリア王
十七歳でドイツ王
二十六歳で神聖ローマ帝国の皇帝の座についた
三番目の股肱の臣ピエール・デッラ・ヴィーニャ
文書作成術の才能を認められる
Ⅴ 一回目の破門と十字軍遠征
1229年、フリードリヒ二世イェルサレム入城
血を流すことなく、奇跡のようにイェルサレム解放を実現する。
戦いを交えることなく、平和的な方法で、これまでいかなる十字軍も成し遂げられなかった成果を上げた。
Ⅵ 教皇との虚虚実実の駆け引き
「メルフィ法典」は中世ヨーロッパにおける最初の広範な法律の集大成
フリードリヒ二世が建て建物の中で最大の傑作が、今は世界遺産となっているプーリアにあるカステル・デル・モンテ
すべてが八角形な建物。城塞か、鷹狩りのための住居か、神殿か、天体観測所か、その用途については今も結論には至っていない
Ⅶ ロンバルディーア都市同盟との戦い
ロンバルディーア都市同盟は都市ミラノの旗を掲げたカッロッチョと呼ばれる旗車の周りに集まり防戦したが、カッロッチョはフリードリヒ二世側に奪われた。
Ⅷ 教皇との戦い
教皇グレゴリウス九世がフリードリヒ二世に破門を宣告した日、ドイツ騎士団団長のヘルマン・フォン・ザルツァが亡くなった。
グレゴリウス九世の後はインノケンティウス四世が教皇となった。
インノケンティウス四世は引き続きフリードリヒ二世に敵対した。
ピエール・デッラ・ヴィーニャに裏切られるフリードリヒ二世
Ⅸ 「世界を輝かさせていた太陽が沈んだ」
占星術師に「花の下で」死ぬと予言されていたフリードリヒ二世はフィレンツェを避けていたが、ルチェーラのフィオレンティーノ城で亡くなった。
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