ダンテ その生涯
アレッサンドロ・バルベーロ 著
鈴木昭裕 訳
亜紀書房 発行
2024年2月3日 第1版第1刷発行
ダンテの謎に満ちた人生を、様々な説を挙げながら、詳しく述べています。
このブログでも紹介している清水廣一郎先生の本を読んでいたおかげもあり、公証人文書の大切さが改めて理解できました。
1 聖バルナバの日
1289年6月11日、土曜日、聖バルナバの日、カセンティーノ地方を行軍し、アレッツォ領に入ったフィレンツェ軍
この中に騎士、もっと正確にいえば、最前列に並んだフェディトーリ(斬り込み隊)の中に、詩人ダンテの姿があった。
2 ダンテと高貴さ
ダンテが貴族が否か、という問いに答えるのは容易ではない。なにしろ貴族という概念自体に正確な定義がないからだ。
3 カッチャグイーダとその他の人々
1 アダーモの息子カッチャグイーダ
カッチャグイーダはダンテの高祖父
2 曾祖父 アラギエーリ
3 祖父ベッリンチョーネと息子たち
ダンテの父や祖父、叔父たちは高利貸だった。
4「アリギエーリ一族」
4 ダンテ一族
1 家紋
2 アリギエーロの家族
やたら男性の名前だけが出てくるのは、商取引や政治に関する資料から取られたから。
嫁資の設定の手続きの経済的契約のおかげで、父親の結婚や妻の名がわかった。
3 冒険人生 ベッロ弟脈の従兄弟たち
5 子供時代と隣人たち
1 誕生日と名前
誕生日は1265年の5月という計算になる
ダンテという名前はフィレンツェでは珍しい名前ではなかった
2 「ターナとフランチェスコ」
姉妹の名前
3 家とご近所
ダンテが倒れた家、そしておそらく彼の生家だった家は、現在、ダンテの家と呼ばれる博物館がある場所がほぼそれに該当する
6 愛と友人
ベアトリーチェについて
7 教育
ダンテの時代、学校の先生たちは子供たちにあまり好かれていなかった。
当時の言語において「文法」といえば、それはラテン語を意味した。
ダンテの時代においても、男色が道徳的な非難を受けることがあっても、市当局や教会によって激しく迫害されることはなかった。
ブルネット・ラティーニ先生に神曲の地獄篇で会っている時の、ダンテの驚きと親しみ。
ブルネットが地獄の責めを受ける理由を弟子であったときには知らなかった可能性が高い。
(最近のジャニーズの創始者とそこのタレントみたいな関係か?)
ダンテが受けた教育のあゆみ
・家族が雇った学童教師。読み書きを教え、ラテン語の初歩を教えた
・文法教師が中級ラテン語や、他の自由学芸の基本を教えた
・青年期にブルネットから手紙や演説原稿の知識を得て、キケロと出会う
・20歳前後でボローニャで自由学芸の学部で修辞学を学ぶ
しかしボローニャでダンテが神曲の中で思い起こしているのは、ガリセンダの塔が傾いている側に立って空を見上げると、雲が通り過ぎるたびに、塔がこちらに向かって倒れこんでくるように感じられるという、観光客的な体験
8 結婚をめぐる謎
ダンテの結婚の事実を知ることができるのは、ダンテの死後、未亡人に彼の財産の所有権が移ったが、その権利を証明するために嫁資証書を提出しなければならず、そのデータが公証人によって書き写された。
嫁資の額は少なかったが、これは女性が自分よりも社会的地位の低い男性と結婚する場合、夫は慎ましい嫁資で満足するのが常だった。夫が手に入れる名誉は、それを補って余りある。
9 ダンテと事業
ダンテの父親は実業家だったが、彼がまだ十代のときに亡くなっているため、長男であるダンテが事業の処理を行わなければならなかった。
ダンテはそれなりの財産を持っており、一族の中では初めて不労所得で生活でき、貴族的な活動に従事する余裕があった。
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