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ピサロ/砂の記憶 印象派の内なる闇

2022-10-24 16:44:42 | フランス物語

ピサロ/砂の記憶
印象派の内なる闇
有木宏二 著
人文書館 発行
2005年11月30日 初版第1刷発行

ピサロは印象派の中でも、シスレーやベルト・モリゾなどとともに好きな画家の1人です。
パリ在住時にはポントワーズまで彼の絵画のモチーフとなった場所を訪ね歩きしましたし、日本に帰ってからも彼の展覧会に行ったりしました。
この本はかなり厚手の本ですが、頑張って読んでみました。氏のユダヤ由来が強調されています。

 

プロローグ 「猶太教の隠忍な潜力」 高村光太郎の批評から
カミーユ・ピサロが、かつてデンマークの植民地であったヴァージン諸島(小アンティル諸島)の一島嶼セント・トーマス島(現在、アメリカ合衆国特別自治領)で、生まれたということ。
ピサロを理解するにあたり、このことは、ぜったいに見逃してはならない重要な事実であり、また出発点である。
すなわち、セント・トーマス島とはユダヤ人の離散の地であり、ピサロの生涯の三分の一は、カリブ海の離散の地に根ざしていたのである。
いいかえれば彼はその土地で、かつてイベリア半島で異端審問の追及と火炙りに苦しんだ「マラーノ」、つまり迫害の記憶を携える隠れユダヤ教徒の末裔として生まれ、それゆえ、ときにその記憶に激しく苛まれつつ生きなければならなかったのである。p8

 

第0章 ある隠れユダヤ教徒の生涯
16世紀、メキシコでわずか30歳で火炙りの処刑により、その短い生涯を閉じた隠れユダヤ教徒、ルイス・デ・カルヴァハルについて
マラーノ
異端審問を逃れるため、表向きにキリスト教徒の外皮を着た隠れユダヤ教徒のこと

第1章 ピサロ一族とその他の異端者たち
モンテーニュの母方のユダヤの血について
ユダヤ人が「商人」と呼ばれて差別されてきたという事実であり、しかも、そもそも「商人」という言葉自体が「ユダヤ人」と同義語だった。p40

 

第2章 セント・トーマス島から

第3章 第二帝政期のパリ、そしてサロン

第4章 内部の声を聞く者たち
ザカリー・アストリュックこそ、後に述べるエミール・ゾラが批評を書くより前に、はじめてカミーユ・ピサロの絵に注目し、重要な言葉を捧げた人物。マネの大親友でもあった。p104

ピサロの「反イエズスの道」
カトリック(そしてブルジョワ階級)に対する敵意
また、神の存在を信じる半ばユダヤ教徒としてのピサロから発し、おそらくほぼ同時に、ユダヤ教に対する敵意とはいわないまでも、ユダヤ教からの完璧な離脱へと転移しはじめていることはひじょうに重要である。p121

パースペクティブの消失点ではなく、その彼方に消失するかのような、どこまでも続く道の表現に取り組む。
ピサロにとっての「道」とは、最初期から最晩年に至るまで、さまざまに描き継がれることになる不変のテーマであり、ピサロの芸術の本質を何よりもよく象徴するものと言われる。p123

 

第5章 印象派、すなわち、画家、彫刻家、版画家など
印象派という場において彼らは、平等の権利によって同質化するのではなく、むしろ同じ条件の下で差異(ユダヤ人、女性、プロテスタント(バジール))を分かち合い、そこにおいてこそ緊密に結ばれていた。
普仏戦争とパリ・コミューンによって劇的に引き起こされた第二帝政の権威的な価値観の崩壊を間接的に翻訳するものであるのかもしれない。
第三共和政では、いうまでもなくそれまでとは異なる世界が出現した。p173

 

第6章 ある友情のかけら ピサロとルノワール
アルジェリアは、ルノワールにとって、間違いなく転機の場となった。
アルジェリアにおける光の洗礼は、かつてない明澄な絵をルノワールに描かせた。p196

 

第7章 父として、画家として、ユダヤ人として
ピサロから息子リュシアンに対して繰り返し感覚(サンサシオン)を説く多くの手紙

カミーユ・ピサロが本来の名を「誤り」として書き改めようとした理由
家族にとって「重大な結末」つまりユダヤ人(ユダヤ教徒)に対して繰り返されてきた無情な迫害、あるいは凄惨な虐殺に、何かしら関係するものであると考えざるを得ない。p239

19世紀において、フランスほどに反ユダヤ主義的言説が大量に印刷された国はない。p243

 

第8章 蜜蜂の飛ぶカンヴァス  
自然主義的傾向の強いバスティアン=ルパージュの1878年のサロン出品作にして代表作《干し草》
男女二人の農民が写実的に描かかれつつ、女性の方は、醜悪な表情で表現されている。p277
当時の批評家たちの目には、手前に位置する放心状態の女性はいうまでもなく、女性の背後の、帽子で顔を覆い、仰向けにぐったりと横たわる男性もまた、いずれも故意に人間性を剥奪されているように見えていたのである。
そしてピサロも鋭利な批判の矛先を磨きこそすれ、まったく鈍らせることはなかった。p278
(自分はこの絵は、そんなに嫌いではない。いい作品だと思います)

第9章 反ユダヤ主義的アナーキスト?

 

第10章 ドレフュス事件
最後まで印象派を支え続けてきたドガが、もっとも激しく反ユダヤ主義を表明するようになったことは、ピサロの悲しみを倍増させたことは間違いない。p358
ドガの作品《株式取引所》《コンコルド広場》に現れている反ユダヤ主義

微妙な光の戯れを表現したモネの《カピュシーヌ大通り》とは一線を画すピサロの表現にあらわれている個々の対象への謙虚な態度はさらに、「大通り」よりも小さな「通り」、すなわち「街路」へと視線を向け変えながら継続されていく。p377
1898年1月5日からピサロは、今度はリヴォリ通り172番地の「グラン・オテル・デュ・ルーヴル」の最上階の一室(現在この部屋は「ピサロ・スウィート」として提供されている)に逗留し、部屋の窓から俯瞰できるオペラ座通りの光景を、朝夕、そして霧、雨、雪といった変化にしたがって、いくつものカンヴァスに描写しはじめる。p378

 

エピローグ 砂の記憶 
セント・トーマス島を訪問する著者
上下動の繰り返しによって、まったく違う風景を出現させる緩急さまざまの起伏の連続
たとえばポントワーズ時代のピサロの風景表現に強く打ち出されていたのは、もしかするとセント・トーマス島に特有のこの激しい起伏の感覚だったのではないか。
画材を抱えた少年のピサロが、美しい海の見える風景を探して起伏のある道を絶えず歩き続けていたことは間違いない。とすれば、足裏から全身、そして目に伝わる起伏の感覚は、少年のころに培われたものであるだけに、生涯彼の身体から忘れられることはなかったのではないか…。p198-199

 



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