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IMジェイエスピー社員が綴る日替わりブログ

アンドリュー・カーネギーからの学び

2013-04-26 08:16:14 | 日記
今回はアメリカで「鉄鋼王」として知られている、アンドリュー・カーネギーについて、お伝えしたいと思います。

アンドリュー・カーネギーはスコットランドのダンファームリンという町で生まれた。生まれた頃、父はこの町の腕の立つ手織り職人の親方で織機4台を持って、何人かの職工を雇って働いていた。これは蒸気機関を動力とした工場でリンネルを製造する時代の前のことだった。有力な問屋が注文を取り、布を織るために父のような手織り職人を雇い、彼らに原料糸を支給して仕事をさせていたのである。
しかし、蒸気機関を動力にした機械式工場システムの発達により、手織り織機による布織りは衰退していったのである。父も、こうした変化によって苦汁をなめた一人であった。
ある日、父は、出来上がった布を問屋に持っていった後、私たちの小さな家にガックリと肩を落として戻ってきた。もうそれ以上する仕事が無かったのである。これはちょうど10歳ごろのことだった。
このとき、自分の人生における最初の、そしてもっとも重大な教訓を学んだのであった。そしてこの教訓は、心の中にしっかりと焼き付けられたのであった。そのとき、もしできるなら貧困という狼を、いつか家から追い出してやる、と決意したのであった。
古い織機を売り払い、アメリカに移住するという問題が、家族の話し合いの中でもちあがった。
行き詰まった生活を打開するために両親は新大陸に移住することをついに決意し、ペンシルヴァニア州のピッツパーグに住んでいる親戚を訪ねていくことになった。両親が移住を決心したのは、自分たちのためではなく、ただひたすら、自分と幼い弟の二人の将来のためということだったのである。
両親のこの考え方を知ったのは何年もあとだったが、子どもの将来のために、自分の将来を犠牲にすることのできる父や母の深い愛情を知ったときに、そのような両親を持っていることを、心から誇りに思ったのだった。

カーネギー少年は、12歳で初めて就職して、18歳になるまでに4回の転職を行っている。その転職のときも、カーネギー少年が最初に考えたのは賃金のことではなく、「勉強の時間を取る」ことだった。最初の就職の半年後に転職した紡績工場では、厳しい労働時間のあと、日曜日の時間をつぶして簿記の勉強を始めている。

4度目にペンシルヴァニア鉄道に転職をした。18歳になって、ピッツバーグの市民としては一人前以上の収入を得る地位につくことができた。ペンシルヴァニア鉄道に入って6年後、ピッツバーグ地区の総責任者に転じ、懐かしい旧地に再び戻ってきた。当時、大小の川にかかる鉄道の橋の多くは木製であった。必ず将来、鋼鉄橋の時代が来るものと予想し、ピッツバーグに鉄橋の製造会社を設立した。
このようにして設立されたキーストン橋梁製作所は大成功であった。オハイオ川の大鉄橋を初めて手がけたのもこの会社であり、その他いくつもの重要な鉄橋を架設し続けたのである。
数年後、30歳になったときに、それまで13年間勤務したペンシルヴァニア鉄道を辞職した。12歳から働き始めて18年間、給料をもらって人のために働き続けてきたのだったが、会社を辞職した翌日から、自分自身のために働く自由な事業家になったのである。

自分自身の主人であることを目指した理由の一つは、たとえそれがどのように困難な道であっても、自分が正しいと信ずる道を事業経営の中に生かしていきたかったためだった。
ではどうして鉄鋼業を選択したかというと、ピッツバーグに住んでいたからである。同市は当時、鉄鋼都市として、アメリカ中で第一の地位を占めていたのである。鉄鋼会社設立に必要な株主になってくれた人々のうち、もっともうれしく思うのは、少年時代の友人たちが多くいたことである。このような人たちと相談しながらアメリカ全体の需要に応えるため、事業を拡大していくことになったのである。
鉄鋼業界では、拡張発展と技術の進歩から目をそらせることは、自殺行為だと言ってもよい。その激しい競争の結果、ピッツバーグでは鋼鉄3ポンドの価格がわずか2セントという、世界一安い価格になったのだった。そして、それがアメリカを世界一の鉄鋼産業を持つ国にしたのである。

アンドリュー・カーネギーは1891年、ニューヨーク市にカーネギーホールを寄贈したのをはじめ、教育振興財団、国際平和基金、カーネギー工業大学などを設立し社会に貢献した。

アンドリュー・カーネギーは援助する際、以下の心がけを持って行っていた。
富豪の援助が社会にもっとも役に立つ分野は、奨学金制度のように、人々が高いところに登る足場を作ることである。そして、その足場の利用を認めるのは、自ら高いところに登る努力をしている人に対してだけである。また、無理で利用できる公共施設、たとえば図書館、公会堂、公園、美術館などを提供するのは、富豪の責任としている。また、富を持って死ぬ者は、不名誉であるととらえている。

アンドリュー・カーネギーは幼い頃は決して裕福な環境ではなかったが、努力して、大富豪まで登りつめた。そして、無条件に資金を与えるのではなく、同じように努力をしてきている人たちに対して、援助を行っている。私も、アンドリュー・カーネギーのように、社会貢献できる力を身につけていきたいと思いました。(横)


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株式会社ジェイエスピー
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