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IMジェイエスピー社員が綴る日替わりブログ

マリー・アントワネット展

2017-03-10 08:38:19 | 日記
先日、六本木ヒルズにて「マリー・アントワネット」を観に行きました。二時間待ちで大変混み合っていました。マリー・アントワネットを取り巻く方々の絵画や華やかな家具・ドレス等、展示物多数でした。足場がほとんどないくらい、非常に混み合っていましたが、美しい多くの展示物を拝見できて本当に良かったです。さらに、演劇方式の音声ガイドが素晴らしかったです。
マリー・アントワネットの生涯について紹介させて頂きたいと思います。

マリー・アントワネットは、1755年、オーストリアの女帝マリア・テレジアの末娘として生まれました。鉄の女として知られるマリア・テレジアも、末娘には特に甘く、マリー・アントワネットは自由奔放に育ちました。

1770年5月。マリー・アントワネットと王太子ルイはコンピエーヌ城で対面します。王太子は、容貌も決して良くなく、それ以上に気弱で内向的で、趣味は錠前作りという、話をするのも難しい人物だったとされます。その二日後に、結婚式が晴れやかに行われました。

1774年5月にルイ15世が崩御し、王太子ルイはルイ16世に、マリーは正式に王妃となりました。

1778年にマリーは母親になります。それから男女2人ずつ4人の子供を生みます。母親になったマリーは、王妃としてそれに相応しい振る舞いをしなければと考え、結果的に国庫を散財に使うようになります。王妃としていつも華やかでならなければならないときらびやかな衣装をまとい、派手な髪型には宝石がちりばめられました。

しかし、この頃の国民の生活は大変困窮していました。マリーは名指しで「赤字王妃」と呼ばれ、民衆からの怒りの矛先になっていました。

1789年7月のパスティーユ牢獄襲撃をきっかけに立ち上った革命の炎はあっという間に地方に飛び火します。

革命はさらに激しさを増し、王政廃止を訴える強硬派が実権を握りつつありました。1792年の2月に一家はタンプル塔に幽閉されました。1792年9月に王政は廃止され、12月に始まった裁判で一市民となったルイ16世には死刑が宣告されました。翌年1月21日。ルイ16世は処刑されます。

そして8月にコンシェルジュリーの監獄に移されたマリーは、そこで形ばかりの裁判を行われ10月に処刑されました。享年38歳。

マリー・アントワネットは池田理代子著の「ベルサイユのばら」のおかげで日本で大変人気があるようです。贅沢をしすぎてしまい、多くの人から反感を買いましたが、マリー・アントワネットの容姿、衣装、家具、庭園の美しさに心惹かれる方多数だと思います。贅沢をしつつも、悪意がなく、純粋で自由奔放な性格を持っていることも人気の要因かもしれません。無知だったがゆえにフランス革命が起きたと考えています。
マリー・アントワネットは反面教師となるところもありますが、あの華やかで美しいセンスは私も身に付けたいです。(横)

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