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光の先へ


 ブログを2年以上続けてきて、よかったと思うことの一つに、1年前、2年前の自分が何を考えていたかを知るための記録が残っていることである。今日は私の誕生日、もうここまで来ると大した感慨もわかない。でも、一応日記のようなものなのだから、今年も誕生日に関したことを何か書いておこうと思ったが、はかばかしいことが思いつかない。ならば、1年前、2年間の記事を読んでみれば何か閃くかもしれないと思って、読んでみた。読んだら笑ってしまった、何にも変わっていないのだ。今更何かが変わるなんてことを期待するのもおかしいけど、少しは成長したかなと淡い期待をもって読んだが、見事に的外れに終わってしまった。ただただ毎日の仕事に汲々としながら、グダグダと下らぬことを堂々巡りしているだけだ。アホみたいだが、もう自分はこんなものだと分かっているから、悲しくはない。
 2年前と比べれば、確実にこれから生きられる時間は2年分減ったことになる。だが、それはどんなことをしてでも働かねばならない時間が2年分減ったというのと同義である。生来の怠け者である私は、労働に喜びを見出すなどという考えにはどうしても馴染めない。言うまでもなく毎日一生懸命働いているし、自分では最大限の努力をしているつもりだ。自分のやっていることにここ数年は少しばかり誇りさえ感じるようにはなってきた。それでも、家族という私にとっては最大かつ最良のモチベーションがなかったなら、すぐにでも働くのを止めてしまうような気がする。妻もその辺りをよく分かっていて、
「あなたは子どもがいなかったらこんなに一生懸命働かなかったでしょうね」
とことあるごとに言う。あまりにも正鵠を射すぎていて、なにもそれには反論できない。子どもがいたからこそ、今日まで必死に働いてこれたのだし、子どもがいなかったら糊口を凌ぎさえすれば満足していただろうと思う。「子どもを一人前に育て社会に送り出す」という親の務めを果たすことが、ここ20年近くずっと私の最重要課題であり、子どもがいたからこそ自分なりに懸命の努力をすることができたのだと思う。
 それが、今春息子が大学に入学して、随分見通しがよくなった。娘は大学院に進学するつもりでいるが、それを足しても、あと3年ほど思い切り頑張れば何とか親の務めは果たせそうだ。まあ、その間に必要なお金の合計をはじき出すと気の遠くなるような数字になるので、果たしてやり遂げることができるかどうか、心配にはなるが、今は余り考えないようにしている。「金は天下のまわり物、頑張れば何とかなるさ」と、気楽に思えるようになったのも、ゴールがくっきりと見えるようになったからだと思う。生来深く物を考える質ではないのがいいのかもしれないが・・。
 先の見えないトンネルほど不安なものはない。出口が見えだし、その明るさが徐々に大きくなって、光が私に届き始めているのが現下の状況のように思う。そこに行き着くには、まだまだ油断はできないし気を抜くつもりも全くない。今まで以上に必死で働いて行かなければトンネルを抜けることはできないかもしれない。ただ、たとえほのかであっても、明るい光の中に心ときめく時間が見え隠れするようになったのは、今までとは違った意味で生きることへのモチベーションを高めてくれる。
 「子ども達が手を離れたら何をしよう?」
そんなちょっとした期待感が私の心の中に芽生え始めた。
 
 年をとることはつまらないことかもしれない。苦労ばかり、いやなことばかりが増えてくるのも事実だ。しかし、その先に何か一つでも明るい展望を持つことができたなら、それに向かって年をとっていくのもそんなに悪くはないのかもしれない。
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