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旅行で行った所(1)

 東尋坊と松井ミュージアムの記事は載せたが、その他にも幾つか訪れた。折角だから、そこで撮った写真を載せて、旅行の思い出としておきたい。

 先ずは安宅の関。
 『源平壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした源義経は、生来の猜疑心からこれを退けようとする兄頼朝に追われ、奥州」平泉の藤原氏の元へ落ちのびようとしました。頼朝はこれを捕らえようと各地に関所を設けます。当、安宅の関守は冨樫左右衛門泰家。そして文治3年(1187年)3月頃、山伏姿に変装した義経弁慶以下主従が安宅の関にさしかかります。一行の山伏姿を関守冨樫に疑われると、東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧と称し、何もか書かれていない勧進帳(寄付帳)を読み上げ、難を逃れようとしました。しかし再び強力姿(荷人夫)の義経が疑いをかけられると、弁慶はすかさず金剛杖を持って主義経を打ち据えます。冨樫は弁慶の忠誠心に心をうたれ、義経一行だと気付きながらも関の通行を許したのでした』
という物語は、能「安宅」、歌舞伎「勧進帳」として長く演じられているそうだが、関の址を見ても、大して感慨は浮かばなかった・・。

 


 次は、丸岡城。
 『丸岡城は、現存天守閣では最古の建築様式を持つ平山城で、霞ケ城の別名のとおり春の満開の桜の中に浮かぶ姿は幻想的でひときわ美しいものとなっています。
 戦国時代の天正4年(1576年)一向一揆の備えとして織田信長の命により柴田勝家が甥の勝豊に築かせました。標高約17mの独立丘陵上に立地する平山城で、現存する天守閣としては最古級のものになります。
 天守閣は本丸の南西部に位置し、高さが約6.2mの野面積みされた石垣の天主台のうえに、そびえたちます。二重三階望楼型独立式という形式で、通し柱はなく、1階が2・3階を支える構造となっています。また、屋根瓦は全国的にも珍しい石製の瓦(笏谷石)が使用されています』
 小さなお城だったが、天守閣まで上る階段がやたら急で苦労した。体を鍛えるために、こんな急な階段を作ったんだろうか・・」と武士たちの苦労が偲ばれるほどだった。

 


 今日のところはこれだけにしておこう。
 続きはまた明日。
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