村田沙耶香さんの「コンビニ人間」を読みました。
第155回芥川賞受賞作です。
主人公の古倉恵子は、36歳、未婚。
小さな頃から「自分はちょっとおかしい」と自覚があった彼女は、「他人の迷惑にならないように」「家族に迷惑がかからないように」と他者と関わることを避けながら成長していきます。
大学卒業後は就職せずに、コンビニのオープニングスタッフとして働き始め、以来18年、コンビニでアルバイトを続けてきました。
コンビニでは全ての仕事がマニュアル化されているので、このマニュアルの存在によって、正常で普通の「店員」になれると実感する恵子。
マニュアルのない部分ではどうすれば普通であるのか分からず、不都合が起きないようにと、職場の人達の行動を所々でコピーして過ごしているのでした。
恵子に限らず、人は、自分が生活している社会や周りの人達から影響を受け、その中で「普通」と言われるものを身に付けていくものだと思います。
大多数の人は、ほぼ無意識に、もしくは少し注意して自分流にコピーすることが出来るのですが、恵子のように意識的に努力を重ねてコピーするしかない人もいます。
完璧なマニュアルにそって、一生懸命みんなと同じ普通を演じているつもりでも、どこか不自然で、「変わった人」と思われてしまう・・・
なんだか息子のことを考えてしまいました。
先日の参観の始めと終わりの挨拶の時、
「よろしくお願いします!」
「ありがとうございます!」
を、大きな声で叫んでいた息子。
すでに声変りを済ませた息子の声は、一人だけ低い怒鳴り声のように聞こえてきました。
家に帰ってから、
「あいさつは普通の大きさの声でいいんちゃう?」と、私が言っても、
「『あいさつは元気に大きな声で!』って、先生言ってた!」と、譲りません。
「大きすぎてもびっくりするよ。女の子は怖がってるかも・・・。」
と言いましたが、たまに参観する私には違和感があっても、クラスの中では、息子のあいさつはもう「ちょっと変わった『息子の普通』」になっているのかもしれません。
家族や友人、同僚など、恵子が「あちら側」と区別する「普通」の世界の人間は、恵子が恋愛も結婚もせず、就職もしないことを心配し、「普通でない」ままでいる理由を探ろうとします。
恵子自身はそのことに全く悩みを感じていないのに、彼らが奇異な目で見ることに悩みを感じて、「普通」であろうとするのです。
恋愛しているという「普通」を演じるために、恵子は、コンビニのアルバイトをすぐに首になった男・白羽と「同棲」し、「就職をする」ためにコンビニをやめてしまいます。
しかし、同棲自体が同棲とは呼べるものではなかったし、コンビニで働くために意識的に行っていた食事や睡眠・身だしなみを整えるようなことまで、何のために行うのか意味を見いだせずに疎かになり、彼女は自分で自分をコントロール出来なくなってしまいます。
仕事の面接に行く途中にふと入ったコンビニで、まるで本社から来た社員のように店員に指示を出しながらテキパキと店の仕事をやり始めた恵子。
彼女は、コンビニ店員として何をなすべきか、意識や体が勝手に動き出そうとする自分に、面接を断り、「コンビニ人間」として働くことを決意します。
小説はここで終わります。
「普通」って何?
私の中には、いつも葛藤があります。
息子が「普通」に困らずに過ごせるようにと、ソーシャルスキルを教え、「こういうときにはこうするんだよ」と教えているけれど、「普通」を強要すれば、息子を「普通でない」と追いつめることになって、強迫性障害を起こさせているのだろうか、と、悩んだりすることもあります。
コンビニのバイトであろうと、マニュアル通りスキルを磨き、人の役に立つ仕事をする恵子は立派な社会人だと思います。
衣食住、睡眠、生活の全てが「コンビニで働くため」ということが奇妙でも、仕事や生きがいのために生活の全てを捧げる人はいます。
アスリートなど、道を究める人はそうだと思います。
一方、同棲(?)相手の白羽も、恵子と同じ生き辛さを抱えて生きているのですが、「普通」を気にし過ぎて、周りを恨み、歪な感情を膨らませて、「社会から隠してほしい」と恵子にすがる、病んだ人間として書かれています。
彼に引っ張られるように、見せかけの同棲をし、コンビニをやめて就職しようとした恵子でしたが、無理して見せかけの「普通」を繕ったとしても壊れていくだけなのです。
ラストの「コンビニ人間」として生きることを決意した恵子は、とても幸せそうでした。
傍からどんなに奇妙に思われても、振り回される必要はないと思います。
「コンビニ」という自分を生かせる場所があるのですから、堂々と、彼女らしく生きていけばいいのです。