愛媛県宇和島市からの良いたより♪

私のブログでは次の内容を紹介致します。
1.「神の王国の良いたより」、聖書教育
2.花々、風景写真
3.俳句、他

ツワブキの花と晩秋のオレンジ色のバラの蕾

2015-11-23 20:08:12 | 四季折々の花々

 いつも車で通る道端に今年もツワブキの花が咲いています。

 ツワブキの葉には光沢があり、大形の葉をしていますので、

 一度見ると忘れることない花です。

 葉の艶を楽しまれる方もいらっしゃるようです。

 花期は11月~12月です。

 用途は鉢植え、庭植へです。

 花言葉は「内に秘めた想い」と紹介されています。

 今日はツワブキの花と晩秋のオレンジ色のバラの蕾を紹介致します。

                    道端に咲いている「ツワブキの花」

                       近くの庭植の「バラの蕾」

 

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あなたは、賢く歩むためには神エホバからの知恵を適用することが必要条件であることをご存知でしたか?

2015-11-23 18:35:12 | 神の言葉・聖書

 多くの方は、人間がこの地上に他の生物と全く異なった能力を備えて存在していることをご存知でいらっしゃいます。そのように人間が特別な能力を備えてこの地上に存在するのは何故だろうか、とお考えになられた方も多いに違いありません。その答えは、聖書に記されています。度々お伝えしていますが、聖書には私たち人間は男性も女性も「神の像(かたち)」に創造されたことが記されています(創世記1:26,27)。「神の像」に創造されているとは、偉大な創造者エホバ神の比類のない属性の愛、公正(義)、知恵、力を学び、丁度映像を映し出すように、それらの特質を調和よく適用を出来る者とし創造されていることを意味しています。愛の神エホバに依って、そのような特別の能力を備えてくださったのは、神エホバのご意志を学び、人間が地上に「エデンの園・楽園」を広げ、地球環境を管理し、動物たちや他の生き物を世話し、人間が増え、互いを愛し、永続する幸福の道を歩むためでした(ヨハネ第一4:8.詩編1:1~3.ヨハネ13:34,35.創世記1:28;2:15)。また、神エホバが人間を「神の像」に創造し、私たちに期待されている事柄の一つに、私たちが賢く「思慮深い人」として歩むことを期待されています(マタイ7:24,25)。人はだれでも賢く歩みたいと願っていますが、賢い歩みをするために神エホバの知恵を学び、適用することが必要条件であることを教えておられます。

 では、賢く歩むためには神エホバからの知恵を適用することが必要条件なのは何故でしょうか。それは、神エホバが真の知恵の源の方だからです。「知恵」とは何でしょうか。皆様方もご承知の通り、知恵とは、正確な知識、理解力、識別力を有機的に結び合わせて用いる能力のことです。偉大な創造者エホバ神が真の知恵の源であることは、地球上や地球外の各種物理的法則を調べるなら、人間が地上で生きることができるように絶妙な力の制御がなされたことからも分かります。不変の重力や電磁力や強い核力や弱い核力の物理的法則をお調べになるなら、神エホバの知恵がどのように働き私たちがその物理的法則によって生かされていることが分かります。水や大気や土壌の性質や水の循環のシステムについても思いを巡らすことができるでしょうか。太陽を備え、正確に四季の変化が訪れるように地軸を23.5度傾け、その地軸の傾きを安定させるために月を適正な大きさで適正な位置に配置された深い知恵に感謝をされるに違いありません(創世記1:14~16)。地球は太陽から適正な温度に保たれる位置に配置され、適正なスピードで太陽の周りをほぼ円軌道で周回していますが、楕円軌道なら私たちの生命は存在しません。また地上の多種多様な植物や食物や動物を観察するなら、容易に神エホバの深い知恵の働きの創造の業を理解することもできます(創世記1章)。さらに私たちの人体を医学的・科学的にに調べるなら、神エホバの深い愛と知恵による、畏怖の念を抱くまでにくすしく創造されていることに気付きます(詩編139:14~16)。こうした神エホバの驚嘆すべき創造の業に見ることができる証拠からすると、神エホバが人の住むためにこの宇宙と地球を創造したと、教えられている真実性が分かります(イザヤ45:18)。こうした多くの証拠に基づき、聖書が神エホバの知恵を最高のものといして教えているのは当然ではないでしょうか。上に述べた人間が生きるために備えられている地上の諸条件・諸要素は人間の能力によって備えたものではなく、神エホバの備えによって私たちの命は存在しているのです(啓示4:11)。家から家を伝道していますと、時々「神など関係ない!自分の力で生きて行く!」と豪語される方がいらっしゃいますが、残念ですが、その方は自分の命が何故存在し、命を長らえているかの理由を理解しておられないようです。

 神エホバの創造の業の証拠からお分かりの通り、一例を挙げると聖書は、神エホバについて「ただひとり知恵のある」方であると、教えています(ローマ16:27)。ただ偉大な創造者エホバだけが、絶対的な意味での知恵をお持ちなのです。人間も知恵を用いることができますが、人間はアダムからの罪を受け継ぎ、不完全であり、多くの間違いを犯します(ローマ5:12)。例えば原子力の利用は、制御不能の場合に、どのように広範囲に致死的な被害を及ぼすかを知りながら、「安全」と主張するのは、知恵の欠如を表わしています。より安全な代替エネルギーの供給が可能なことが実証されているのですから、どちらを選ぶのが知恵の道かは明らかです。

 神エホバがすべての真の知恵の源であるゆえに、次の導きの言葉が与えられています。エホバご自身が知恵を与えてくださるからである。そのみ口からは知識と識別力が出る。そして、廉直な者たちのために実際的な知恵を蓄えてくださる。忠誠のうちに歩む者たちのために、神(エホバ)は裁きの道筋を見守ることによって盾となってくださる」(箴言2:6,7)。それゆえ、神エホバの子供として約束に従い地上に遣わされたイエスは、常に謙遜であり、み父エホバに従順であり、かつ、み父エホバの被造物の中で最も知恵のある者にも関わらず、自分自身の知恵に頼らず、み父エホバに指示された通りに教え、業を行なわれました(フィリピ2:5~8.ヨハネ12:48~50)。そのようにして、み子イエスは私たちに手本を残されたのです(ペテロ第一2:21)。更に神エホバは、将来はどのなるかについても正確に見通せる方です。ですから、み子イエスを通して、1914年から生じるこの事物の体制の終結の複合的なしるしも与えて下さっています(マタイ24:3~14)。その預言がすべて正確に成就しており、私たちはその目撃証人になっています。ですから、神エホバの知恵の言葉によって、私たちは今どのような時代に生きているかを、正確に理解することができるのです。

 私たちが賢く歩むために、どのような知恵の言葉が与えられているでしょうか。聖書には実にたくさんの知恵の言葉が与えられていますが、少しの事例をお伝え致します。

 例えば、聖書は、不完全な人間の考えから出る朽ちる「肉の業」を避けるように教え、神エホバから出る教えの実・の霊の実を培うように教えています。次のように記されています。「さて、肉の業は明らかです。それは、淫行、汚れ、みだらな行い、偶像礼拝、心霊術の行い、敵意、闘争、ねたみ、激発的な怒り、口論、分裂、分派、そねみ、酔酒、浮かれ騒ぎ、およびこれに類する事柄です」と述べ、これらを習わしにする者は神の王国を受け継がない、と警告しています(ガラテア5:19~21)。これは愛と知恵に溢れる言葉です。私たちは、神エホバから是認を受けない「肉の業」を避けることができるのです。神エホバから出る教えの実について、「一方、霊の実は、愛、喜び、平和、辛抱強さ、親切、善良、信仰(信仰とは証拠に基づき、抱く期待・希望が保証されていることです)、温和、自制です。このようなものを非とする律法はありません」と教えています(ガラテア5:22,23)。この神エホバの実際的な知恵の言葉を蓄えるなら、私たちは賢く歩める、つまり永続する幸福の道を歩めることが分かります。私たちは危険を避け、神エホバに是認される賢い歩みをすることができるのです。

 イエス・キリストは有名な山上の垂訓の中で、次の黄金律として知られる生き方を教えられました。「それゆえ、自分にして欲しいと思うことはみな、同じように人にもしなければなりません」(マタイ7:12)。イエスの教えはすべて神エホバから出た教えです(ヨハネ12:48~50)。この黄金律として知られる言葉を生活の中で適用する人は、賢い歩みをされている方であり、その人の歩みはすべて成功します(詩編1:2,3)。み言葉・聖書は真の知恵の宝庫なのです。

 上に述べた通り、神エホバに是認を受け、賢く歩むためには神エホバの知恵を適用することが必須の条件であることが分かります。なぜ神エホバの知恵を適用することが必須の条件かについて、み言葉・聖書は次の絶対の法則を教えているのです。「惑わされてはなりません。神(エホバ)は侮られるような方ではありません。何であれ人は自分のまいているものを、それをまた刈り取ることになるのです。自分の肉のためにまいている者は自分の肉から腐敗を刈り取り、霊のためにまいている者は霊から永遠の命を刈り取ることになるからです」(ガラテア6:7.8)。神エホバからの知恵の道は快い道、平安の道、命の道に至りますので、賢い歩みに欠かせないのです(箴言3:13~18.イザヤ48:17,18)。神エホバの知恵の適用の賢い歩みは命・永遠の命・真の命が関係していることをご理解される方々は幸いです。

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         信号に 皇帝ダリア 並び咲く 今日の一句

                    庭に次々と咲く「晩秋のランタナ」

 

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晩秋のミニトマトの花と淡いオレンジ色のバラ

2015-11-23 01:13:48 | 四季折々の花々

 11月下旬に入っても次々と庭のミニトマトの花が咲いて来ます。

 しかし、花は次々と咲きますが、この時期はやはり実を結びません。

 ミニトマトはこの時期に花を咲かせはしますが、

 今から実を結んでも熟すことは出来ないことを知っているのかも知れません。

 今日は晩秋のミニトマトの花と淡いオレンジ色のバラを紹介致します。

                   庭で次々と咲く「ミニトマトの花」

                        ご近所の庭植の「バラ」

 

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あなたは、祝祭日を祝うのは正しい、とお考えですか?

2015-11-23 00:42:59 | 神の言葉・聖書

 今日週休2日制が行き渡り、多くの人々が恩恵を受けるようになりました。加えて国は多くの祝祭日を設けています。その祝祭日を祝うことは正しいのでしょうか。あなたは、どのようにお考えですか。

 今日、世界各地で一般に祝われている祝祭日は、宗教的なものもそうでないものも、聖書の教えには由来していません。ではそうした祝祭日の起源はどこにあるのでしょうか。図書館が利用できるので現在行われている祝祭日について、参考書を調べてみるのは如何でしょうか。きっと興味深いことが分かるでしょう。幾つかを取り上げてみましょう。

 復活祭(イースター): ブリタニカ百科事典は、「新約聖書の中に・・・イースターの祭りが祝われたことを示す箇所はない」と述べています。でわ復活祭(イースター)はどのように始まったのでしょうか。それは異教に根差しています。一般にこの祝祭は、イエスの復活を記念するものとされていますが、復活祭にちなむ様々な風習は、真のクリスチャンにふさわしいものではありません。例えば、良く知られた「復活祭のウサギ」につて、カトリック百科事典はこう述べています。「ウサギは異教における象徴の一つであり、常に多産の表象とされて来た」。ですから、復活祭は聖書の教えに基づくものではなく、イエスはそのような教えを弟子たちに教えたことはありません(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を参照)。

 新年の祝い:新年の祝いの日付けや、新年の祝いに関連した風習は土地によって異なります。日本の場合は大方の人は新年として1月1日~3日を新年の祝日とされています。西欧の新年祭の期限についてワールドブック百科事典はこう述べています。「ローマの支配者ユリウス・カエサルは、紀元前46年に、やヌアリウスという月の1日を年の初めと定めた。ローマ人はその日を、門や入口や物事の始めをつかさどる神ヤヌスをたたえる日としたのである。1月と意味の英語の名称「January]は、ヤヌス「Janus]の名にちなんで付けられたものである。ヤヌスには二つの顔があり、一つは前を見、もう一つは後ろを見た」。ですから、今日見られる新年の祝いは異教の伝統に基づいています。聖書には、新年を祝う記述は一切ありません。

 ハローイン:日本にもハローインを祝う人が増えているようです。アメリカーナ百科事典は、こう述べています。「ハローインと関係にある習慣の種々の要素はその起源を、キリスト教時代以前のドルイド(古代ケルト人の祭司団)の儀式にまでさかのぼることができる。ケルト人には二人の主神、つまり太陽神と死者の神・・・のための祭りであって、後者の祭りはケルト人の新年の始まりである11月1日に行われた。この死者の祭りは徐々にキリスト教の儀式の中に取り入れられた」。ですから、ハローインの祝いに関する記述は、聖書には、どこにも記されていなく、異教の伝統です。

 他の祝祭日:世界各地で行われている祝祭日の儀式すべてを取り上げることは出来ません。しかし、人間や人間の組織を高める祝祭日は神エホバに受け入れられません(エレミヤ17:5~7.使徒10:25,26)。宗教的な祝いが神エホバに喜ばれるか否かは、その祝いの起源とも関係があるということを忘れないようにしたいものです。聖書には次のように記されています。「ある人は、ある日は他の日に勝ると判断し、別の人は、どの日も別の日と同じであると判断します。おのおの自分の思いの中で得心していなさい」(ローマ14:5)。ご承知の通り、地球は太陽の周りをほぼ円軌道で1年で周回し、地球が1回自転すると1日が過ぎます。ですから、どの日も同じであり、偉大な創造者エホバ神が定めていない祝祭日は祝わないのが賢明なのです。

 イエスが記念式を定められたのはご自身の贖いの死の日のみで、「主の晩さん」と呼ばれているものです(コリント第一11:20.ルカ22:19)。聖書の教えの中には「クリスマス」の祝いもありません。

「参考資料」:ものみの塔聖書冊子協会発行、「聖書は実際に何を教えていますか」誌、222,223ページ

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        高く伸び 皇帝ダリア 陽を浴びる 今日の一句 

 

                  近くの道端に咲いている「皇帝ダリア」       

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