桔梗は秋の七草の一つですが、この時期にはあちこちのお庭に
桔梗の爽やかな花が咲いているのを見かけます。
桔梗の花は幼い時から夏の花として馴染み深いです。
花期は6月~9月です。
用途は切り花、鉢植え、花壇です。
花言葉は「品行方正」と紹介されています。
今日は淡いピンクの桔梗と風情を残す看板のあるお店を紹介致します。
鉢植えで売られていた「桔梗」
市内の「風情を残す看板のあるお店」
- お店の入口には戦後しばらくは使われていた手回しの農具が置かれています ー
桔梗は秋の七草の一つですが、この時期にはあちこちのお庭に
桔梗の爽やかな花が咲いているのを見かけます。
桔梗の花は幼い時から夏の花として馴染み深いです。
花期は6月~9月です。
用途は切り花、鉢植え、花壇です。
花言葉は「品行方正」と紹介されています。
今日は淡いピンクの桔梗と風情を残す看板のあるお店を紹介致します。
鉢植えで売られていた「桔梗」
市内の「風情を残す看板のあるお店」
- お店の入口には戦後しばらくは使われていた手回しの農具が置かれています ー
聖書は、家族制度、つまり結婚制度の創始者エホバ神の教えが記されていますので(創世記2:24)、当然ながら「真に賢い女」、「有能な妻」になるように教えています(箴言12:4;12:1;31:10~31)。だれでも「真に賢い女性」、そして立派に家庭を築き上げる「有能な妻」になりたいと願われるのではないでしょうか。しかし、残念なことに、それなりの理由があるのでしょうが、何事も小言を並べ立てる「争いを好む妻」もいらっしゃるようです。
聖書の箴言には、「争いを好む妻」について、次のように率直に記されています。
「争いを好む妻と共にいるよりは、屋根の隅に住むほうがよい。たとえそれが共同の家であっても」(箴言21:9)。
「争いを好む妻と共にいていら立つよりは、荒野の地に住むほうが良い」(箴言21:19)。
築き上げる安らぎや憩いの家庭となるべきところが、両親や夫や子供たちから、「争いを好む妻」のために、「屋根の隅に住む方が良い」、あるいは「荒野の地に住むほうが良い」と言われるなら、そのような妻は冷静さを取り戻し、「築き上げるのに良い言葉」を温和な霊で語るために何をすべきか、を熟考する必要があります(エフェソス4:29)。聖書は「愛は人を築き上げます」と教えていますから、愛について学び直す必要があるでしょう(コリント第一8:1)。愛は辛抱強く、また親切です。愛はみだりな振る舞いをせず、刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持ちません。愛は真実な事と共に歓びます。愛はすべての事を希望し、すべての事を忍耐します(コリント第一13:4~7)。さらに、愛は「結合の完全なきずな(絆)」なのです(コロサイ3:14)。愛をしっかり身に着けるなら、「真の賢い女は自分の家を築き上げた」と述べる箴言の言葉の真実性を裏付ける「有能な妻」となれるでしょう(箴言12:4;31:10~31)。
先にも紹介致しましたが、聖書は妻に、「夫に対して深い敬意を持つべき」と促しています(エフェソス5:23)。妻は「自分の夫に服し」、外面のものより「もの静かで温和な霊という朽ちない装いをした、心の中の秘められた人を飾りとしなさい。それは、神(エホバ)の目に大いに価値のあるものです」と教えています(ペテロ第一3:1~4)。そうすれば家庭内は争いではなく、愛を基盤に互いが喜び合い、平和を作りだし、互いに辛抱強く親切にし、善良に振る舞い、温和なコミュニケーションによって、自制心を働かすことができるでしょう(ガラテア5:22,23)。
人間は不完全ですから、意図せず「争いを好む妻」になってしまい、何事も夫の責任にするのではなく、み言葉・聖書が勧めている事柄を学び、適用してみるのは如何でしょうか。きっと「あなたは自分の道を成功させ、賢く行動できる」ようになり(ユシュア1:8)、結婚当初に思い描いた幸福で平安と義が満ちるご家庭に築き上げることができるでしょう(イザヤ48:17,18)。
姉からの スイカの重し 切り分ける 今日の一句
明るい鉢植えの「ルドベキア」
ホームセンターで赤のディプラデニアの花が売られていました。
緑の葉に赤の花弁が映える夏の花です。
花期は5月~9月です。
用途は鉢植えです。
花言葉は「飛耳長目」と紹介されています。
今日は赤のディプラデニアとルドベキアの花を紹介致します。
鉢植えの「ディプラデニア」
鉢植えの「ルドベキア」
皆様方の中にもご年配の方々がいらっしゃるかも知れません。そのご年配の方には、毎日鏡の前で身だしなみを整える時に、ふと「若かった時代のご自身の美しい姿」を思い起こされるかも知れません。それでも増えた白髪(しらが)を見ながら、「光輝」とみなす方は幸いな人です。若い方々は如何でしょうか。ご自身の姿を鏡に映し、「若々しく美しい姿」と「力に溢れている」ことに満足をし、身だしなみを整えられるのではないでしょうか。若い時には確かに疲れを知らぬ力が備えられています。若い方は、鏡の前で「ご自身が年老いた時にどのような姿になるか」、とは、お考えにならないと思います。私たちは、男性も女性も「神の像(かたち)」に創造されていて、しかも「畏怖の念を抱くまでに、くすしい造り」なのです(創世記1:26,27.詩編139:14)。
聖書の箴言には「若者」と「老いた者」の称賛の言葉を次のように記しています。
「若者の美しさはその力、老いた者の光輝はその白髪(しらが)である」(箴言20:29)。
「白髪」は生体の変化する結果として髪の中の色素顆粒が減少することにより、髪の毛の色が薄くなること、それに伴い比較的若いうちから白髪の出ることもありますが、大抵は老化に伴って出ます。聖書中には、老化に伴って生じる白髪になった人の、アブラハム、ギデオン、およびダビデ王は「良い齢(よわい)」になるまで生きた、という表現を用いています(創世記15:15;25:8.裁き人8:32.歴代第一29:28)。
エホバ神は若い時の美しさと力、老齢の光輝のいずれも認め、上の箴言の言葉を記しています。聖句の後半の「老いた者の光輝はその白髪である」という言葉は、そのように「老いた者」が唯一まことの神エホバを崇拝し、仕えているのを見るなら、特に真実であることを証ししています。同じく箴言は、「白髪は、義の道に見いだされるとき、美の冠である」と記しています(箴言16:31)。「義の道」とは、神の王国とエホバの義・公正をいつも第一に求め、エホバのご意志を守り行う生き方のことです(マタイ6:33)。さらに聖書の詩編には、「エホバの家に植えられた者たち、彼らは白髪のときにもなお栄えていることでしょう」と保証の言葉が記されています(詩編92:13,14)。白髪に至るまでも神エホバに仕える者は、ご自分の神エホバに捨てられることはありません(イザヤ46:4)。エホバ神の教えは次の通りです。「あなたは白髪の前(老いた者の前)では立ち上がるべきでる。また、老人の身を思いやらねばならない」(レビ記19:32)。若い方が「老いた者」に親切にし、エホバ神の教えを適用されているなら、まさしくエホバ神に喜ばれ、一層「若者の美しさは力」となるでしょう。
冷汁に 山椒の葉の 添え出さる 今日の一句
切り花で出荷されていた「ダリア」