イエスは、弟子のヤコブとヨハネが、「主よ、天から下って彼ら(イエスに何もしょうとしない人々)を滅ぼし尽くすよう私たちが火に命ずることをお望みですか」と、提案したした時、イエスは二人を叱責されました。イエスは何であれ、無慈悲な考えを容認されることはありませんでした。
イエスと弟子たちが進んでいると、ある書士がイエスに、「師よ、私は、あなたが行こうとしておられる所なら、どこえでも付いてまいります」と、言いました。イエスは、「きつねには穴があり、天の鳥にはねぐらがあります。しかし人の子(イエス)には頭を横たえる所がありません」と、答え、もしその書士がイエスの追随者になれば、苦難を経験することになるということを説明なさいました。そのイエスの言葉には、当時の書士は謙遜さがなく、あまりにも誇り高いので、イエスのような簡素な生活様式を受け入れることはできない、という意味が含まれていたようです。
イエスは別の人に、「私の追随者になりなさい」と、招かれました。するとその人は、「まず出かけて行って、私の父を葬ることをお許しください」と、答えました。それに対してイエスは、「死人に自分たちの死人を葬らせ、あなたは行って神の王国を広く宣明しなさい」と、おっしゃいました。その人の父親はまだ死んでいなかったようです。というのは、もし父親が死んでいたなら、その息子がそこにいてイエスの話しを聴いていることなどありそうにもないからです。どうやらその息子は父親が死ぬまで追随者になるのを待って欲しいと言っていたようです。自分の気持ちの中で、神の王国を第一にしょうという気構えがなかったようです。
イエスと弟子たちの一行がエルサレムへの道を進んで行くと、もう一人の人がイエスに、「主よ、私はみ跡に従います。ですが、まず私の家の者に別れを告げることをお許しください」と、言いました。イエスはそれに答えて、「手をすきにかけてから後ろのものを見る人は神の王国に十分ふさわしい者ではありません」と、教えられました。イエスの追随者・弟子になろうとする人は、神の王国に思いの焦点を合わせていなければなりません。鋤で畑を耕す人が真っすぐ前を見ていないなら、大抵うねは曲がってしまいますが、ちょうどそれと同じように、後ろを向いて、この古い事物の体制を見る、つまり思いうが残るなら、神の王国の祝福の永遠の命に至る道から外れてしまうでしょう。(ヨハネ7:2~10.ルカ9:51~62.マタイ8:19~22)。
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ベランダに 蒲団干す家 多かりし 今日の一句
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庭に咲いている「ミニバラ」
- 1円玉ほどの大きさです -