最も偉大な教え手でもあった、イエス・キリストは、隣人とはどのような人かについてどのように教えられるでしょうか。エルサレムから3キロほどの所で半殺しに遭った旅人を、祭司もレビ人も助けの手を差し伸べませんでした。通りかかった異国のサマリア人は、半殺しに遭った人を見て哀れに思いました。さて、どうなるでしょうか。
多くの祭司や、エルサレムの神殿で祭司を補佐するレビ人たちは、エリコに住んでいます。そこまでの道のりは23キロあります。彼らが奉仕するエルサレムの神殿から標高が900メートルも下がる徒歩に困難な道です。祭司とレビ人は、半殺しに遭い、苦しんでいる仲間のユダヤ人を助けてもよさそうですが、そうしょうとはしませんでした。むしろ、異国のサマリア人が助けの手を差し伸べました。当時ユダヤ人は、サマリア人を憎んでいました。そのため、ユダヤ人たちは少し前に、イエスのことを「サマリア人」と呼び、非常に激しい言葉でイエスを侮辱しました。
サマリア人は、半殺しに遭い苦しんでいるユダヤ人を助けるために何を行うでしょうか。イエスは次のように話されました。「彼はその人に近づき、その傷に油とぶどう酒を注いで、包帯をしてやりました。それから彼を自分の畜獣に乗せ、宿屋に連れて行って世話をしたのです。そして次の日、約2日分の賃金に相当するデナリ二つを取り出し、それを宿屋の主人に渡して、こう言いました。「この人を世話してください。そして、何でもこれ以外にかかるものがあれば、私がここに戻ってきた時に返しますから」」。
イエスはこの親切なサマリア人の話しをされた後、「これら三人の内だれが、強盗に襲われた人に対して隣人になったと思いますか」と、ユダヤ人の律法学者にお尋ねになりました。
サマリア人にいかなる誉れを帰すことを、快く思わないそのユダヤ人の律法学者は、ただ、「その人に対して憐れみ深く行動した者です」と、正しく答えました。その答えに、イエスは、「行ってあなたも同じようにしてゆきなさい」と、話しを結ばれました。
もしイエスが、そのユダヤ人の律法学者に、非ユダヤ人も隣人である、とじかに告げておられたなら、その律法学者はそれを認めないばかりか、恐らく、ほとんどの聴衆が、イエスとの論議において、ユダヤ人の律法学者の肩を持ったことでしょう。しかし、実際の出来事に基づいたイエスの話しから、私たちの隣人には、自分と同じ民族や国籍以外の人々も含まれることが、疑問の余地のない仕方で明らかにされました。イエスの教え方が優れていることが分かるのではないでしょうか。イエスの教えは現在の社会の中でも適用できる優れた模範の手本となっています(ルカ10:25~37.使徒10:28.ヨハネ4:9;8:48)。
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草の芽の 目立つ道辺の 散歩かな 今日の一句
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庭に咲いている「椿」