イエス・キリストは、弟子たちに「天におられるあなた方の父(エホバ)に栄光を帰すようにしなさい」と、ご自分にではなく、絶えずみ父エホバに栄光と賛美を帰すように教えられました(マタイ5:16)。私たちが何かを行う時、その心の動機はこのイエスの教えの原則から離れないようにする必要があります。
さらに、イエスはパリサイ人たちについて、「彼らは、神(エホバ)の栄光よりも人の栄光を求めたのである」と指摘し、注意を喚起しました。続いてイエスは「わたしを見た者は、わたしを遣わした方(神エホバ)おも見る」と教えられました。なぜそのように言うことができるのでしょうか。ヨハネの福音書に次のように記されています。
「しかしながら、イエスは叫んで言われた、「わたしに信仰を持つ者は、わたしだけではなく、わたしを遣わした方(エホバ)にも信仰を持つのです。また、わたし(イエス)を見る者は、わたしを遣わした方(エホバ)おも見るのです。わたし(イエス)は光として世に来ました。それは、わたしに信仰を持つ者が、だれも闇の中にとどまることがないためです。しかし、わたしのことばを聞いてそれを守り行なわない人がいても、わたしはその人を裁きません。わたしが来たのは、世(一般の人々)を裁くためではなく、世を救うためだからです。わたしを無視し、わたしのことばを受け入れない人には、その人を裁く者がいます。わたしの話した言葉が、終わりの日にその人を裁くのです。わたし(イエス)は自分の衝動で話したのではなく、わたしを遣わした父(エホバ)ご自身が、何を告げ何を話すべきかについて、わたしにおきてをお与えになったからです。またわたし(イエス)は、父(エホバ)のおきてが永遠の命を意味していることを知っています。それゆえ、わたしの話すこと、それは、父(エホバ)がわたし(イエス)にお告げになったとおり話している事柄なのです」(ヨハネ12:44~50)。
上の聖句に記されている通り、イエスに信仰を持つ者は、イエスを遣わされた神エホバにも信仰を持つ、と教えられました。しかし、キリスト教世界では、イエスを神にしたり、マリアを崇拝したりし、イエスの教えの神エホバにも信仰をもつことをしないのは、どうしてなのでしょうか。さらに、イエスは「わたしを見る者は、わたしを遣わした方(エホバ)おも見る」と教えられました。どういう意味でしょうか。私たちは現在、直接イエスを見ることは出来ません。しかし、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書に記されたイエスの足跡を調べる時、生き生きとイエスの人物像を想い描くことができます。イエスを十分に知覚することができるのです。それは、イエスの説明通り、神エホバを見る、つまり知覚することができることを意味しています。さらに、イエスの教えはイエスの独自の教えではなく、イエスは、「父(エホバ)が、イエスにお告げになったとおりに話された」ので、エホバの教えを聴いたことになります。イエスの教えはすべて神エホバの教えの言葉ですから、神エホバがどのような方かを知ることになる、つまり神エホバを見ることができるのです。神エホバは深い愛と知恵によって、ご自分の最愛のみ子イエスを地上に遣わされ、イエスを通して、ご自分がどのような神であるかを分かり易く証しされたのです。このことに深く感謝し、神エホバに近づかれる方々は幸いです(ヤコブ4:8)。
極早生の みかん山盛り 道の駅 今日の一句
展示されていた「パンフラワーの作品」