権現山という名の山はきっと日本の至るところにあるのではないか。というのは権現という言葉は山岳信仰と密接に結びつき、古くから比較的近くにある山を「権現山」と称し、地元民は信仰の対象としていたと考えられるからである。ちなみに「権現」というのは、日本の神の神号の一つで、仏・菩薩が衆生を救済するため、仮の姿をとって現れるということである。そこには神仏習合(混淆)と言われる神道と仏教の合体が見られる。仏教が大陸から伝わる以前の日本には、山や海や巨木や奇岩など特定の自然物をカミの依り代とする信仰が広がっていた。そこに仏教が伝わり、古くからあったカミ信仰と混淆したのである。この状態は明治維新を迎えるまで続き、維新政府の神仏分離令(これにより廃仏毀釈が起こった)によって、現在あるように神と仏は分離されたのである。しかし、現在においてもその時代を偲ぶものが多くある。おじさんが毎日登る城台山の中腹に一心寺があるが、その境内の左に小さな神社が存在している。
前置きが長くなって恐縮だが、もう少し我慢いただきたい。最近畑中章宏著「廃仏毀釈ー寺院・仏像破壊の真実」(ちくま新書)を読んだのだが、「権現」というのが神仏習合の一つの大きな形であることがわかる。日本の独特の山岳信仰として「修験道」というのがある。最も有名なのが、蔵王権現で奈良吉野山の金峯山(きんぷせん)、そして出羽三山の羽黒権現、戸隠権現、立山権現、白山権現、金比羅権現などがある。これらは修験道の中心となってきたのだが、明治5年の「修験道廃止令」により甚大な被害をこうむることになった。すなわち神と仏が一体となっていたものを(ある意味無理矢理)分離せよという命令が下ったのである。金峯山は仏教に、羽黒、戸隠は神社になる道を選んだ。
ここからやっと今日登った権現山(524.6m)の話となる。「こんなに楽しい岐阜の山旅美濃「下」」に掲載されている「権現」と名の付く山は3つある。我が揖斐川町の小津権現山(1157.8m)、各務原市の権現山(316.5m)、そして関市(旧武芸川町)の権現山(516m)である。Eさんから関市の権現山に誘われた時、この旧武芸川町の権現山だと思った。ところが、この山は既に登ったということで、同じ関市にある権現山(美濃加茂市と接する)がいまだ登っていないということだった。早速、スマホにこの権現山をキャッシュし、地形図を印刷した。EさんはOSKの登山データを用意していた。
揖斐を7時前に出発、山県インターから東海環状道路を利用し、関・富加インターで高速を降り、コブシ街道に入り、中之保轡地区を目指した。すぐに道は細くなり、散歩で歩いていた人に権現山と聞くとすぐに少し進んで、分かれ道から左に行くように言われた。車ではこれ以上進めないところに3~4台駐車できるところがあったのでここに駐車。林道をしばらく進むと登山口の標示板があり、小さな沢を渡り急な道を登っていく。ところどころには少し古びた標示板があり、道も明瞭だった。登山口から40分で尾根上に達した。最後に一端下り、急な道を登ると9時30分山頂に達した。ここには社跡というのがあったようで、やはり権現信仰の対象であったことを伺わせる。
駐車地
登山口 8:18
権現山山頂を望む 8:35
尾根上に出る 8:57
最後の急登 9:22
社跡 9:29
山頂 9:30
山頂から御嶽山
下りは時計回りで降りていった。途中までは木の標示板があったのだが、「沢近道」とあった道は進まず、右側の道を進んでいった。ところが最初の明瞭な道は消え、荒れた道となり、たくさんあった赤布もなくなっていた。3人で話し合った結果、このまま道のないところを少しトラバース気味に進み、登ってきた道にでることを選んだ。地図上では近いと思われた距離だったが、歩くとなると時間はかかるばかり。道のないところを歩くのは経験の差がもろに出る。不用意に足を置いたりすると崩れたり、あるいは倒木が多いのにも閉口する。また伐採が最近行われたのか、登山道を示す赤布ではない作業用の赤布もあって紛らわしい。道が消えて約1時間が過ぎたところでやっと登ってきた道に出ることができた。時間は11時、少し気が緩みお腹も空いたので、ここでお昼となった。良く言われることだが、里山に登るのは意外と難しい。その理由は道が一杯あって、容易に違う道に迷い込んでしまうことだ。標高が低いからといって、手を抜くととんだしっぺ返しを受けることは覚えておく必要がある。また、かつて市町村の財政に余裕がある時期に整備された登山道が多くあるが、その後の財政窮迫などにより管理が行き届かなくなっている。こうしたことにも注意が必要だ。
やっと登った道まで戻ってきた 11:00
帰りに「道の駅平成」により、3人ともソフトクリームを食べる。私の舌がどうかなっているのか、いつものソフトクリームの柔らかさはなくて、少しもっちりした食感だった。
コースタイム 登山口8:18→山頂9:30→元の道11:00(昼食)→登山口11:30
時計回りに歩く どの辺で迷ったかはご想像にまかせる
前置きが長くなって恐縮だが、もう少し我慢いただきたい。最近畑中章宏著「廃仏毀釈ー寺院・仏像破壊の真実」(ちくま新書)を読んだのだが、「権現」というのが神仏習合の一つの大きな形であることがわかる。日本の独特の山岳信仰として「修験道」というのがある。最も有名なのが、蔵王権現で奈良吉野山の金峯山(きんぷせん)、そして出羽三山の羽黒権現、戸隠権現、立山権現、白山権現、金比羅権現などがある。これらは修験道の中心となってきたのだが、明治5年の「修験道廃止令」により甚大な被害をこうむることになった。すなわち神と仏が一体となっていたものを(ある意味無理矢理)分離せよという命令が下ったのである。金峯山は仏教に、羽黒、戸隠は神社になる道を選んだ。
ここからやっと今日登った権現山(524.6m)の話となる。「こんなに楽しい岐阜の山旅美濃「下」」に掲載されている「権現」と名の付く山は3つある。我が揖斐川町の小津権現山(1157.8m)、各務原市の権現山(316.5m)、そして関市(旧武芸川町)の権現山(516m)である。Eさんから関市の権現山に誘われた時、この旧武芸川町の権現山だと思った。ところが、この山は既に登ったということで、同じ関市にある権現山(美濃加茂市と接する)がいまだ登っていないということだった。早速、スマホにこの権現山をキャッシュし、地形図を印刷した。EさんはOSKの登山データを用意していた。
揖斐を7時前に出発、山県インターから東海環状道路を利用し、関・富加インターで高速を降り、コブシ街道に入り、中之保轡地区を目指した。すぐに道は細くなり、散歩で歩いていた人に権現山と聞くとすぐに少し進んで、分かれ道から左に行くように言われた。車ではこれ以上進めないところに3~4台駐車できるところがあったのでここに駐車。林道をしばらく進むと登山口の標示板があり、小さな沢を渡り急な道を登っていく。ところどころには少し古びた標示板があり、道も明瞭だった。登山口から40分で尾根上に達した。最後に一端下り、急な道を登ると9時30分山頂に達した。ここには社跡というのがあったようで、やはり権現信仰の対象であったことを伺わせる。
駐車地
登山口 8:18
権現山山頂を望む 8:35
尾根上に出る 8:57
最後の急登 9:22
社跡 9:29
山頂 9:30
山頂から御嶽山
下りは時計回りで降りていった。途中までは木の標示板があったのだが、「沢近道」とあった道は進まず、右側の道を進んでいった。ところが最初の明瞭な道は消え、荒れた道となり、たくさんあった赤布もなくなっていた。3人で話し合った結果、このまま道のないところを少しトラバース気味に進み、登ってきた道にでることを選んだ。地図上では近いと思われた距離だったが、歩くとなると時間はかかるばかり。道のないところを歩くのは経験の差がもろに出る。不用意に足を置いたりすると崩れたり、あるいは倒木が多いのにも閉口する。また伐採が最近行われたのか、登山道を示す赤布ではない作業用の赤布もあって紛らわしい。道が消えて約1時間が過ぎたところでやっと登ってきた道に出ることができた。時間は11時、少し気が緩みお腹も空いたので、ここでお昼となった。良く言われることだが、里山に登るのは意外と難しい。その理由は道が一杯あって、容易に違う道に迷い込んでしまうことだ。標高が低いからといって、手を抜くととんだしっぺ返しを受けることは覚えておく必要がある。また、かつて市町村の財政に余裕がある時期に整備された登山道が多くあるが、その後の財政窮迫などにより管理が行き届かなくなっている。こうしたことにも注意が必要だ。
やっと登った道まで戻ってきた 11:00
帰りに「道の駅平成」により、3人ともソフトクリームを食べる。私の舌がどうかなっているのか、いつものソフトクリームの柔らかさはなくて、少しもっちりした食感だった。
コースタイム 登山口8:18→山頂9:30→元の道11:00(昼食)→登山口11:30
時計回りに歩く どの辺で迷ったかはご想像にまかせる
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