醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより 146号  聖海

2015-04-09 11:04:22 | 随筆・小説

    俳句と短歌。芭蕉の句と比べてみる

 秋の暮を詠んだ芭蕉の句がある。
 この道や行人(ゆくひと)なしに秋の暮  芭蕉51歳(元禄7年、1694)

 芭蕉はこの年、元禄七年に大阪で亡くなり、近江・膳所の義仲寺に葬られた。晩年を迎えた芭蕉の心中が表現されている。その世界は深く、広い。句に対して和歌はどうだろうか。新古今和歌集に「三夕(さんせき)の歌」といわれているものがある。

 こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢(しぎたつさわ)の秋の夕暮  西行法師
(俗世間の人の気持ちを失くした出家した者の身にも、鴫の飛び立つ沢の秋の夕暮れには、感じるものがある)
 見渡せば花ももみじもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ 藤原定家
(見渡すと、春の桜も秋の紅葉もない。ただ、海辺の苫葺の小屋があるだけの秋の夕暮れ)
 さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ 寂連法師
(さびしさは色がないということ。槇が立っている山の秋の夕暮れがあるだけ)
 折口信夫は寂連法師の歌を、ただ槇の木がつっ立っているだけのつまらぬ歌と評したという。

 短歌は三一字の文字(音)が文学世界を創りだす。この文字数が一七字に減少すると文学世界に質的変化が起こる。まさに弁証法的な変化である。文字数の量的変化が質的変化を起こす。文学世界に質的変化が起きる。歌から句になる。万葉集の伝統を継承している和歌はもともと声を出して唄うものであった。天皇の前で天皇を讃える歌を唄った。天皇の統治を称えた。天皇の統治する人々を、田を、畑を、山を、海を讃えた。三一文字の歌、三十一文字(音)を唄った。が、一七文字の句は唄わない。いや唄えない。だから書く。懐紙に書く。書いたものを読んで味わう。「黒冊子」に芭蕉の言葉がある。「発句の事は行きて帰る心の味(あじわい)也」。この言葉は読んで味わうことを意味している。歌う文学世界から読む文学世界に質的な変化を遂げる。文字数の量的減少は文学世界に質的変化をもたらした。和歌が情を歌う文学であるなら俳句は認識の文学であるだろう。文字数が少ない故により深く対象を表現しているといえるだろう。
 和歌には無意味な約束事がたくさんあった。無意味な約束事など暇な特権階級の人々でなければ覚える事などできなかった。文字を覚えた庶民はその無意味な約束事を笑った。それを談林俳諧という。この中から芭蕉は生まれてくる。貴族や武士の文芸であった和歌を庶民が笑った。その中から庶民・民衆の文芸・俳句が生まれてくる。談林派の俳諧は和歌の無意味な約束事を笑った。笑うだけで面白がったが文学には程遠かった。しかし、新しい文芸のあり方を創りだした。その一つが記名のあり方だ。和歌の作者には姓を書く。姓には差別がある。奈良時代からの伝統的な差別がある。高貴な姓と賤しい低い姓がある。姓を得ることのできなかった民衆は名を書く以外に道は無かった。その伝統は今に伝えられている。子規、虚子、蛇笏などと俳人といわれる人々は名で呼ばれている。この伝統は俳句が庶民、民衆の文芸であることを意味している。俳句発生の端緒となった談林派の俳諧は笑い、その笑いは卑俗なものであった。卑俗なものではあっても笑いはいつの時代も民衆の武器であった。特権階級の乙に澄ました文芸を笑い溜飲を下げたが文学にはならなかった。
 五七五の一七字、簡単に誰でも文字が書ければ書くことができる。俳諧とは数人が集まり、五七五と書いた人の発句に七七の脇句をつける。このような座を組んで詠んでいくのが俳諧である。
 談林俳諧が普及すると日本全国いたる所に俳諧を楽しむ庶民が生まれてくる。いつの時代も庶民は笑いを求めている。書く文芸、俳諧の普及は日本人の識字率を大いに引き上げた。日本人の教養を大いに引き上げたことが想像できる。
 俳諧の普及の中から卑俗な文芸であったものを文学にまで引き上げたのが芭蕉である。芭蕉は現在の我々が考えるような文学者ではなかった。あくまで俳諧師以外の何者でもなかった。だから連歌の掟を俳諧師は踏襲した。「発句は必ず言い切るべし」という鎌倉時代の連歌書、「八雲御抄」にある掟を守った。この掟を芭蕉は和歌から完全に独立した証とした。五七五だけで独立した文学世界の誕生であると主張した。「切れ」が新しい文芸ジ
ャンルを創りだした。だから俳句にあっては季語よりも「切れ」が俳句をして俳句たらしめているものなのだ。子規は「古池や」の句は季感の感情がないと述べている。芭蕉は発句にあっては季語より「切れ」を重視していたのだ。季語とは和歌によって創られた季節感を表す言葉なのだ。
 発句が俳句として普及していくと季語というものが俳句の属性として定着していく。短歌には季語がないがそれ自身に季節感がある。



醸楽庵だより 145号  聖海

2015-04-08 11:08:40 | 随筆・小説

   四月に雪が降った。2015.4.8

 2015年4月8日、朝、7時、雨戸を開けると氷雨が落ちてくる。雨に混じって霙が真っ直ぐ落ちている。朝食の準備をし、朝ご飯を食べた後、障子を開け、外を見ると牡丹雪に変わっていた。近所にある高校に通う生徒たちが合羽を着て登校する姿が見えた。今日は紙・布のゴミを出す日だったが取りやめた。生ごみを出すため外に出た。家と家との間から高校生が登校する姿を垣間見た。庭を眺めると雪が積もる気配はない。花の散った梅の木の枝に雪がひっかかっている。
霞たちこのめも春の雪ふれば花なきさとも花ぞちりける
 (霞立ち、木の芽がふくらみ春になったこの時に、春の雪が降る。桜のない里にも花が舞い散っているのか)
紀貫之はこんな景色をよんだのかなぁー、寒さを楽しみ、枯れ木に雪が降る景色を眺めていた。
心にもあらぬわかれの名残りかは消えてもをしき春の雪哉
 (本心でなく別れた。その名残なのかな、消えてなくなるのが惜しい春の雪だなあ)
定家は男、気持ちが移り行き、後悔する普通の男だったのだろう。この時期の雪はやはり「なごり雪」なのだろう。出会いと別れの季節に降る雪だからなあ。現役を引退した者には毎年訪れる出会いと別れはない。ただこの世との永遠の別れが毎年、毎年近づいて行くのみだ。
春の雪青菜をゆでてゐたる間も
細見綾子が表現した雪降る日の静かさが身に沁みる。
 芭蕉は「春の雪」を詠んでいるのか、調べてみるとない。「春の雪」を芭蕉は詠んでいない。『江戸俳諧歳時記』を繙いてみると「春の雪」という季題がある。
 痩せ梅になほ重荷なり春の雪  杉風
春の夜の雪に音ある板屋かな  蓼太
春の雪しきりに降りて止みにけり 白雄
これらの例句が挙げられていた。今朝の雪はまさに「白雄」が詠んだ句のように「しきり」に降ったあと、牡丹雪に変わり、降りやんだ。白雄は芭蕉よりほぼ100年後の俳人のようだ。蓼太は芭蕉より74年後の人である。杉風は芭蕉より3歳年下の蕉門の代表的な俳人である。杉風の句を読むと季題「春の雪」はまだ談林俳諧の影響が色濃くあることがわかる。芭蕉が生きた貞享から元禄にかけての時代にはまだ季題「春の雪」の本意が極められていない時代のようだ。
季題「春の雪」は高浜虚子が唱えた「花鳥諷詠」によって本意が極められた季題なのかもしれない。

醸楽庵だより 144号  聖海

2015-04-07 10:54:54 | 随筆・小説

   人を想うことが生きること

 映画「いつか読書する日」。見て来たよ。居酒屋「此処」に入ってくるなり、玄ちゃんは言った。
「えっ、東京まで見に行って来たの」
「そうよ。映画のためだったら、どこまでだって行くよ」
「そんなに映画が好きなの」
「好きだね。子供の頃からずっと好きだった。唯一の娯楽だったからなぁー。今でもただ一つの娯楽かな。女房は死んじゃったし。子供はいないしね。テレビで見る映画と映画館で見る映画は違うからな」
「どこが違うの」
「感じないかな。映画館で見る映画は一人で見る映画じゃないんだ。見ず知らずの他人であっても一緒に同じ映画を見ているという相通じ合う気持ちがあるように感じるんだ」
「うーん。なんでまたわざわざ東京まで映画を見に行ったの」
「新聞で批評を読み、行く気になったんだ」
「初老を迎えた独身女性の恋というのに興味を持ったのかな。玄ちゃんも初老の独身男だからなぁー」
「うん。まぁー、そんなところかな。映画館に入ってなるほどと思ったよ。ばぁーさんが多かったな。ジジーもいるにはいたが、少なかった。俺なんか若い方だったよ」
「若者は一人もいなかったの」
「一人もいなかったな。五十女の恋物語じゃ、若者は見ないだろうな」
「映画、いつか読書する日、感じるものが何か、あった」
「人を想うことが生きること、という言葉が印象に残ったと批評に書いてあったのでこの映画を見に行ったようなものなんだ。俺にも身に沁みる言葉になったね」
「玄ちゃんも奥さんをなくしているからな」
「うん。女房に死なれて寂しくもあるからな。再婚する気はないんだ。死んだ女房と同じような生活ができるわけないと思うからなんだけれどな。今、俺が生きることは此処で酒を飲むこと、たまに映画を見に行くこと、大衆小説を読むことかな」
「映画、いつか読書する日、とはそういうような映画なの」
「そうだと思う。映画の主人公の五十代の女性は俺と違って『カラマーゾフの兄弟』を読み、涙を流したりする。俺はドストエフスキーなんか、一冊も読んだことないよ。長くって、難しそうで読めないよ。俺は梁石日(ヤンソギル)や船戸与一の小説で充分だよ」
「ドストエフスキー、我々が若かった頃、みんな読んでいるような顔をしていたな。でも、未だに俺は読んでいないよ。若い頃、読もうと思って取り組んだことが何回かあるんだけれども読み通すことができなかった。玄ちゃんにもそんな経験があったんだ」
「そりゃ、そうよ。俺は文学青年のつもりだったからな。今だに俺は文学青年のつもりだよ。心はね」
「孤独な人の生きる道は読書なのかな」
「読書すると寂しくないもの」
「そうだな。酒より安いし、いいよ」


醸楽庵だより 143号  聖海

2015-04-06 11:11:53 | 随筆・小説

     芭蕉は風景を発見したか

句郎 芭蕉は平泉から一関まで戻り、新緑のブナ林を通り、岩手山・鳴子温泉を経て尿前の関を越え、出羽の国に出ている。
華女 新暦の六月の頃のことなのでしよう。
句郎 そうだね。きっとブナや楢の落葉広葉樹の新緑に包まれた狭い道を歩いて行ったんだろうね。
華女 それにしては新緑の雑木林を詠んでいる句もなければ、文章もないわ。どうして書いていなのかしら。不思議ね。
句郎 特に東北地方の新緑はブナ林の風景が美しいと言われているみたいだから。本当に不思議だよね。どうしてなんだと華女さんは思う?
華女 目に入らなかったということはないんでしようから。どうしてかしらね。分からないわ。
句郎 ブナ林などの雑木に美しさを感じなかったのかもしれないよ。
華女 そんなことってあるのかしら。桐や藤の花が咲いていたかもしれないわよ。『曾良旅日記』を読むと日光・憾満ガ淵の新緑のころ、行っているみたいよ。憾満ガ淵の新緑のころは素晴らしいと思うわ。句もなければ、俳文もなにわね。
句郎 本当に雨に濡れた青葉には心が洗われた思いがした経験があるよ。大谷川の河音が清々しいしね。
華女 街中を少し入ったところに別世界があるという感じね。
句郎 芭蕉はブナ林の自然風景に接しながら、その風景の美を発見できなかった。そのようなことを言っている人がいるんだ。
華女 へぇー、そんなことを言っている人がいるの。
句郎 市立図書館の棚を眺めていたら、内田芳明という人の『風景の発見』という本を見つけたんだ。面白そうだと手に取ってみた。
華女 内田さんは何と言っているの。
句郎 例えば『奥の細道』への旅立ちの句「行春や鳥啼魚の目は泪」という句は鳥や魚に別れの哀しみを詠っているが、その哀しみは芭蕉の気持ちを表現している。自然の風景としての鳥や魚を詠っているわけではない。無常という主観を述べている。客観としての自然風景を詠ってはいないとね。
華女 確かにそうね。でも「あらたふと青葉若葉の日の光」と日光で詠んだ句はどうなのかしら。「青葉若葉」の美しさを詠んでいるのじゃないの。
句郎 そうかな。僕にはこの句も芭蕉の主観、不易なるものとしての日光東照宮の森の荘厳さのようなものを詠んでいるのじゃないかな。
華女 「日光」の客観的な美、そのものをそのものとして詠うのではなく、徳川家康を神として祀る森はなんと荘厳なものなのだろうと芭蕉の主観を詠んでいるというわけなのね。
句郎 そうなんだ。芭蕉は存在する自然や人間すべてのものに無常な生の現実があることを発見し、詠った。この無常なる生の現実に不易なる真実、徳川家康の神性を表現したのかな。
華女 難しくなってきたわね。要するに、芭蕉は自然の風景を詠んでも自然風景そのものを客観的に詠んではいないということなんでしょ。
句郎 内田さんそういうことを言っている。
華女 句郎君はどう思うの。
句郎 僕も内田さんの主張に納得したんだ。だって芭蕉は西行や宗祇の目を通して自然を見ているように思うからね。「花鳥諷詠」を唱えた高浜虚子の句とは違っていると思う。
華女 客観写生ということなの。
句郎 「春夏秋冬四時の移り変る自然界の現象や人の世の事象を諷詠する」という虚子の主張は客観写生、写実ということなんだろうな。
華女 虚子は「風景」を発見したということなの。
句郎 「塩鯛の歯ぐきも寒し魚の店」。この芭蕉の句は実にリアルな表現だと思うね。
華女 芭蕉のこのような句を継承したのが虚子だったのかもしれないわよ。

醸楽庵だより 142号  聖海

2015-04-05 12:19:35 | 随筆・小説

    集団就職の少年が和菓子屋さんに

 長崎から名古屋に集団就職した少年は成人になったときに一念発起して一人、東京に出てきた。和菓子職人を目指して住み込み徒弟奉公をした。五年間奉公した。それから一年間、お礼奉公をした。古い職人の「しきたり」をした最後の世代だとSさんは言う。居酒屋のカウンターで酒を飲んでいるとSさんは名刺を差し出した。白い前掛けを着けていた。四十代半ばぐらいの若々しい感じのする職人さんだった。
 私の故郷は長崎・島原なんです。そこで十五まで育ちました。雲仙普賢岳が噴火したことを覚えていますか。溶岩は島原の方に流れたんです。私の故郷は同じ島原でも普賢岳の東側にある島原とは反対側の千々石(ちぢわ)という所なんです。
 天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)が今からほぼ四百年前にローマ教皇に派遣された少年の一人、千々石清左衛門、洗礼名はミゲルの石碑が私の生まれた町にはありました。今から四百年前にここからローマ教皇に会いに行った人がいた。凄いなと子供のころ、思っていました。長崎にはキリスト教が日本に入ってきた最初の所でしよう。私の故郷にはどこか日本離れした情緒があるんですよ。戦国時代の終わりごろにはキリシタン大名がいたと聞きました。私の生まれた町ではみんなが知っている人ですよ。千々石清左衛門(ミゲル)は。
 Sさんは中学を卒業すると名古屋に集団就職をした。名古屋での思い出は定時制高校に通ったことである。仕事を終え、薄暗くなった学校で級友と顔を合わせ、一緒に給食を食べた思い出は今を生きる力になっているという。高校を卒業して三十年近くになっても未だに家族同様に付き合っている友がいる。私の青春は名古屋での高校時代だったという。そのころ東京に出て和菓子職人になり、自分のお店を持ちたいと思うようになった。
 二十六歳になったとき、独立した。お店を借りて商売を始めた。十年間、頑張りました。東京近郊の街には住民が増えていた。商売は順調だった。結婚をし、仲良く商売に励んだ。愛嬌のある奥さんが販売に力を発揮してくれた。預金が溜まり、自分の土地を持ち、店を持つことが夢だった。その頃千葉県野田市は住宅地の開発を進めていた。新開地には住宅地が次々と作られ、住民が増えていた。東京に出てきて二十年の努力の結果、自分のお店を持つことができた。
 私が不思議に思ったことはSさんの顔に苦労の後がないことだった。集団就職して三十年、誰にでも句郎の後が深い皴となって残っている人が多いがSさんにはそのようなものが何もなかった。Sさんは苦労を苦労として受け取らなかった。修行として積極的に受け入れていたからではないかと思うようになった。だから元気だった。自分の存在を肯定的に積極的に受け入れていた。だからなのかなととSさんの話を聞いていて思った。
 

醸楽庵だより 141号  聖海

2015-04-04 09:23:04 | 随筆・小説


   芭蕉は華厳の滝を見ていない

 芭蕉は日光東照宮を参拝している。だが東照宮陽明門などについては、一切何も書いていない。どうして芭蕉は日光東照宮を参拝しなかったのだろうか。答えは簡単だ。身分制社会にあっては農民や町人の参拝はできなかった。参道を眺めて終わりだった。それ以上のことを望まなかった。初めから不可能なことを人は望まないものだ。
 堀切実著「おくのほそ道」《日光》の部分を読み、芭蕉は東照宮の森に参って満足したのだと理解した。東照宮の森の中で感動した句が「あらたうと青葉若葉の日の光」である。この句が日光東照宮を荘厳すると同時に表現している。東照宮という建物群によって日光の自然が荘厳なものになっている。芭蕉が目にすることのできない東照宮について感じたことはこの荘厳さなのだ。細かなことはすべて省略し、そこは読者の想像力に任せている。
 また今ではほとんどの観光客が訪れることのない「裏見の滝」を見て、「暫時(しばらく)は瀧に籠るや夏(げ)の初(はじめ)」と詠んでいるが華厳の滝までは足をのばしていない。なぜなのか。何冊かの芭蕉学者たちの著書を読み、私なりの仮説をえた。「奥の細道」とは何の旅だったのかということに尽きる。ここに解答がある。「奥の細道」は歌枕を訪ねる旅だった。「華厳の滝」は歌枕ではない。そのため「華厳の滝」は芭蕉の興味・関心をひくことがなかったからではないか。これが私の得た仮説・解答である。
 ちなみに華厳の滝を詠んだ和歌はないかとインターネットで調べてみたが見つからなかった。
 華厳の滝を始めて発見した人は日光開山の祖、勝道上人である。命名者も勝道上人のようである。由来は華厳経からとられた。奈良東大寺の宗派が華厳宗である。華厳経が説く仏がいわゆる大仏・毘盧遮那仏である。奈良天平時代、聖武天皇の帰依した仏教が華厳宗、この華厳の教えが支配的あったがゆえに「華厳の滝」と命名された。勝道上人は八世紀後半から九世紀初めころに山岳修行を説く密教に帰依し、下野薬師寺で得度した僧侶である。滝に打たれる修行の場にならないかと見つけたにちがいない。しかし滝に打たれる修行など絶対に不可能なことを悟ったであろう。険阻な山道を一歩一歩上り、木につかまって降りて初めて眺められる華厳の滝、こうしてまで和歌を詠んだ古人はいない。芭蕉が崇めた古人は宗祇であり、西行であった。彼らは華厳の滝を詠んでいない。華厳とは菩薩の徳を華とたとえたことのようだ。大量の川水が一気に百メートル近く落下する水しぶきを荘厳な華と感じたからではなのだ。
 明治三十六年、一高学生藤村操が華厳の滝から飛び降り自殺をした。このことから華厳の滝が自殺の名所となり、昭和の初めに滝壺近くに下りるエレベーターが設置されてから観光名所となった。
 現代の私たちにとって、華厳の滝は大変な観光の名所であっても、元禄時代にはほとんど知られることの無かった瀑布であったのであろう。また華厳の滝にいたる道も無かったのかもしれない。当時、裏見の滝から華厳の滝まで日帰りできる距離でもなかった。中禅寺湖畔には宿泊できるような所もなかったに違いない。そこは山伏たちの修行の世界であった。

醸楽庵だより 140号  聖海

2015-04-03 11:34:09 | 随筆・小説

 
  俺も老年期無気力症になったようだ

 もう二十年も前の話になる。当時支店長は五十前後だったかな。無気力症になった。細かなことにも気の付く、行員に配慮が行き届く支店長だったように思う。ある朝、余裕を持って出勤しようとネクタイを締めようとしていたとき、突然なんでネクタイを締めようとしているのだろうと疑問に思った。そしたら何もかもが面倒になってしまった。一気に力がぬけるとネクタイが締められない。ズボンがはけない。異変を感じて、奥さんの力を借りてやっと身支度をした。やっとの思いで電車に乗り、出勤したが仕事ができない。どうでもいいことのように思えてならない。仕事をする気力が起きない。
支店長は体の調子を悪くしたのかなと初めは思っていた。俺は支店に何人もいるションベン代理の一人だった。本当に驚いたよ。一日中、支店長は何もしない。ただぼうと支店長の椅子に座ったままなんだ。
居酒屋でEさんから聞いた話の始まりはこうだった。Eさんは一流都市銀行の支店長代理で定年を迎えた。今は年金生活者である。地方の県立商業高校を良い成績で卒業した。憧れの都市銀行の入社試験に合格し、東京近郊の支店に配属された。一所懸命に働いた。まだソロバンが計算の主流であった時代だった。定期預金の複式計算が得意だった。正確な事務をこなした。四十代後半、取引先の会社に片道切符をもらって出向させられることもなく、五十歳を過ぎた時、支店長代理になり、そのまま定年を迎えた。高校卒業してから四十二年間銀行業務一筋に勤しんだ。
Eさんとほぼ同世代、一流私大を卒業し、コースにのっていた支店長が無気力症になってしまったことが理解できなかった。外見は何も変わらない。噂によると家庭では大変だったと聞いた。朝、起きてこない。奥さんが何度も呼びかける。それでもダメな場合は布団を剥ぐ、手を引いて起こす。自分では髭を剃らない。整髪もしない。奥さんは怒鳴る。顔を洗わせる。日常生活の一つ、一つが大変、子供より手がかかったようだ。
定年退職後、Eさんは無気力症に罹った昔の上司、支店長の気持ちが分かるという。毎日、朝起きて出勤するところがない。顔を洗い、髭を剃り、整髪するのが億劫でならない。身の周りを清潔に、整理整頓するのが大変な気力を要する営みだったと気が付いたという。無意識のうちに体を動かしていたことが何でもないことに思っていたがそうではないんだと気が付いたと言う。支店長は一か月ほど何もせず、支店長の椅子にただ座ったままだったけれども、病気療養になって以来会ったことはない。その後、どうなったのかなぁーとしきりに思い出すという。
「リストラ」という言葉が何を意味するのか、ぼんやりしている頃だった。「リストラ」と言われても何のことだか分からなかった。すぐ「首切り」のことだと分かった。でも実感はなかった。支店長はリストラを迫られていたのかもしれないと思うようになった。これ以上の「効率化」なんて絶対無理だと俺たちは思っていたからね。自分自身の問題として考えられない状況だった。漠然と他人事のように思っていた。行員に優しい支店長はどのようにリストラすればいいのか、思い悩んでいたのかもしれないなぁー。自分の支店の問題として考えられなかったじゃないかな。ある朝、突然ネクタイを締めようとしたとき、なんで俺はネクタイを締めようとしているのか、分からなくなった。なんで俺はネクタイを締めようとしているだと考えてしまった。
ストレスが溜まりすぎると無意識に行われていた行為に支障が起きてしまうのかもしれない。今まで無意識に行っていた行いに疑問が湧くと動作に支障が起きてしまう。きっとそうなんだ。当たり前のこととして受け入れていたことが当たり前で無くなってしまう。それが無気力症なのだろう。俺にも老年期無気力症の症状がでているのかもしれないとEさんは日本酒を傾けて話していた。

醸楽庵だより 139号  聖海

2015-04-02 10:32:41 | 随筆・小説

 
   俳諧修業の頃を思い出す芭蕉

句郎 「さまざまの事おもひ出す櫻かな」と芭蕉は詠んでいる。月並みな感じがするね。
華女 そうね。芭蕉はどんなことを思い出したのかしら。
句郎 十代のころ、自分の将来のことをあれこれ不安に思っていたころなんじゃないかな。
華女 今も昔も十代の後半と言うと青春よね。
句郎 青春というと「道に迷っているばかり」という流行歌の歌詞があったようにどんな風に生きていこうか、苦しんでいたじゃないかな。
華女 元禄時代に芭蕉は生きたんでしょ。元禄時代の若者も今の若者と同じようにいろいろ人生の選択の幅があったのかしら。
句郎 元禄時代に生きた若者にとっての将来はほぼ決まっていたようなものだと思う。
華女 そうでしょ。だったら青春の憂いのようなものはなかったんじゃないのかしら。
句郎 でも芭蕉にはあったんだと思う。
華女 芭蕉の出自は農民だというじゃない。だとしたら農民になるしかなかったんじゃないの。
句郎 江戸時代は身分制社会だからね。農民は土地に縛り付けられた人々だったからね。
華女 芭蕉の故郷は伊賀上野、名古屋から関西本線の下りに乗ると奈良県に入る前にある駅だったわ。
句郎 芭蕉は伊賀上野の農民出身でありながら、土地の呪縛から逃れ出た。
華女 どうして芭蕉は農民身分でありながら、江戸に出て来ることができたのかしら。
句郎 普通、農家の次男は部屋住みが普通だった。
華女 部屋住みとはどんなことなの
句郎 田畑と家全部を長男が相続してしまう。当時、分家することは無かった。分家したら農民は生きていけなかった。「田分け」は家の存続を不可能にした。「田分け」は愚か者がすることだった。「部屋住み」は嫁を娶ることもなく、長男の指示を得て、農作業に勤しむ使用人のような存在だった。
華女 次男というのは惨めなものだったのね。
句郎 そうなんだ。だから芭蕉は12歳ぐらいになった時に、口減らしとして藩主の藤堂家に無足人として奉公に出た。奉公人だからただただ働く一方でご飯を食べさせてもらえるだけの使用人だね。
華女 今では考えられないことね。
句郎 芭蕉は台所で料理人として働いていたようだ。お仕えする人は藤堂新七郎の嗣子良忠だった。芭蕉23歳寛文6年、良忠は25歳の若さで亡くなってしまう。良忠の奉公人としてほぼ10年ぐらいお仕えしたが主君が亡くなってしまったため藤堂家から出なくちゃならなくなった。
華女 芭蕉は武家奉公人として藤堂家に仕えていたときに字を覚えたり、俳句を習ったのかしらね。
句郎 そのようだ。良忠は蝉吟(せんぎん)という俳号を持ち、京都の北村季吟に学び、俳諧に親しむ文人だった。芭蕉の素質を認めた最初の人だった。
句郎 芭蕉は藤堂家を下がり、それから6,7年、何をしていたのか分からない。29歳の時、芭蕉は江戸に出て来る。江戸に出た芭蕉が貞享5年伊賀上野に帰ったとき、藤堂家の良忠の子(探丸)が家督を継いでいた。この探丸の別邸の花見に招かれたときに詠んだ句が、「さまざまの事おもひ出す櫻かな」なんだ。芭蕉は藤堂良忠(蝉吟)に仕えていた頃のことを思い出したんだろう。
華女 どんな思い出があったんでしょうね。
句郎 きっと、感謝の気持ちでいっぱいだったんじゃないかな。蝉吟様のお陰で今の自分があります。蝉吟様から字の手ほどきを受け、俳諧を学ばしていただきありがとうございました。このようなことだったんじゃないかと思う。

醸楽庵だより 138号  聖海

2015-04-01 10:10:33 | 随筆・小説

   街の灯や春の夜道を二人行く   聖海

 「街の灯」。この題名を口に出すたび瞼に涙がにじむと、言った映画紹介者がテレビで述べたことを今も覚えている。チャップリンの映画にはペーソスが漂う。映画「街の灯」を見た観客は役者の哀愁に泪した。闇の深い夜道に灯る昔の街灯には若者の哀しみの思い出が宿る。田んぼの中の一本道の街灯に家路を急ぐ安心感があった。一人、冬の夜道を帰る街灯には温もりがあった。
 昭和30年代、日本の夜の闇は深かった。歌手、三浦光一は「街灯」を唄った。
  やさしい外灯 おまえは知っている  つきせぬつきせぬささやきを
  仰ぎ見る街灯 おまえは知っている  わたしのわたしのかなしみも
  見まもる街灯おまえは知っている   みんなのみんなの身の上を
 昭和30年代の二人の若者は暗い夜道でささやきあった。一人、街灯を見上げ、愚痴る自分がいた。街灯、お前は知っている。一人一人の喜びと悲しみを。昭和30年代の日本の夜道は真っ暗だった。その夜道に街灯が灯った。当時の人々には街灯の有難さが身に沁みた。歌手、三浦光一の「街灯」は流行った。
 街灯は市民の安全を守るために市が設置してくれているものだと漠然と思っていた。今ではじっくり街灯を仰ぎ見る人はいない。明るい夜道が当然のようになっている。が商店街から商店が無くなっていくにしたがって夜道が暗くなっている。シャッター街が増えるにしたがって街灯は錆びつき、新しく変えられることはない。
 商店街に活気があると明るい街灯が光り輝く。大きな駐車場を確保し、大型店が郊外に出店してくるにしたがって市街地の商店街は活気を失っていった。街灯には二つある。一つは市が設置する防犯用の街灯である。もう一つが商業用街灯である。商業用街灯は商店会が市にお願いして設置しているものである。設置の費用、電気代、維持管理費、補修費は商店会が負担する約束を市と交わして設置している。市が設置する防犯用街灯は40Wであるに対して商業用街灯は二倍の80Wであるという。
 商店が一軒もないにもかかわらず80Wの明るい街灯が点いているところがある。そこは商店会が地域のみなさんに普段お世話になっているという気持ちで点いている街灯のようだ。商店会に余力がなくなってくるとその負担に耐えられなくなって街灯が消えていく。
 大型店の出店規制が緩和されることは一軒、一軒の商店から力を奪っていく。街から八百屋がなくなり、魚屋がなくなり、肉屋がなって久しい。お客さんが入って行くのを見たことのない酒屋がある。商店街が無くなっていく。商店には日常会話がある。商店での日常会話には人と人とを結びつける働きがある。スーパーの消費者は流れていく。事務的にお金を支払い、袋詰めは消費者自身が行う。誰とも話す機会はない。少し離れた場所に更に大きなショッピングモールができると便利な場所にあったスーパーは閉店する。自動車に乗らない高齢者は買い物の難民になっていく。
 商店街の街灯が消えると地域もまた壊されていく。高齢者が住みやすい街がきっと若者にとっても住みやすい街に違いないのだけれども。