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外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(Ⅵ・完)

2009年11月28日 06時16分28秒 | 日々感じたこととか

◎国民主権と民主主義-両面価値的存在位相
国民主権は歴史的には君主主権の対抗イデオロギーとして成立した。他方、宗教戦争の悲惨を反芻する中で形成された国民主権は、宗教という共約不可能な価値を巡る不倶戴天の敵とも平和的共存できる、そんな社会秩序を希求するイデオロギーでもあった。つまり、国民主権は、君主主権を批判するオフェンスの側面と、「無秩序よりも最悪の秩序が望ましい」とする、法的安定性の浸透を期すデフェンスの側面を持つ両義的なイデオロギーなのです。

而して、君主制を襲い近代主権国家が社会に秩序と安定をもたらした刹那(あたかも、「自然法-自然権」の具体的内容が近代主権国家の実定憲法の中に法内在的正義として組み込まれるとともに【第二次世界大戦後、ナチス・ドイツの「合法的ではあるが正義に反する支配」に対して法実証主義が無力であった反省から、民主的で合法的な法秩序をも批判可能なロジックとして現代自然法思想が再登場するまでの150年余り】自然法思想が冬眠状態に入ったのとパラレルに)、国民主権原理が実定憲法秩序の正当化ロジックとなった途端、国民主権はその積極的意義を喪失したのかもしれません(★)。


国民主権が冬眠に入ったについては、しかし、もう一つの理由があるのではないか。それは、国民主権と民主主義のアンビバレントな関係です。

人口に膾炙しているように、民主主義は「全体主義=独裁制」と親しく、19世紀後半、「国民代表制=議会制」と融合して議会制民主主義のイデオロギーに進化する以前は、君主主権を擁護する守旧派のみならず新興の市民階級からも社会を党派に分断し人権を蹂躙しかねない危険思想と看做されていた。而して、民主主義の論理的な天敵は、国民の多数によっても端的にはその侵害を許さない基本的人権の価値であり、他方、国家の権力行使を制約するものとしての憲法という憲法観、すなわち、立憲主義です。他方、国家の最終的な政治的意志を決定する権威と権限を国民の総意に一元的に帰属させる国民主権は民主主義と親和的であり、寧ろ、基本的人権および立憲主義と対立するものなのです。

畢竟、あらゆる政治シンボルの中で最も多義的と評される「民主主義」の意味を「国家の最終的な政治的意志を決定する権威と権限は国民の総意に帰属するのであって、憲法にせよ、基本的人権にせよ、国民の総意を制限するものはこの世に存在しない」と理解すれば、確かに、国民主権と民主主義は限りなく接近するでしょう。民主主義と国民主権のイデオローグ、ルソーの予定調和的な妄想を読み返すにつけそう思えてきます。

「人民が十分な情報を得て議論する場合、もし彼等が徒党を組んだりすることがなければ、僅かな相違点が多々集合して、つねに一般意志が機能する結果、その決議はつねに善きものとなるだろう。しかし、徒党や一部の団体が、他の多数を犠牲にして組織されるならばこれらの団体の各々の意志は、その構成員という観点からは一般的なものではあるが、国家という観点からは特殊なものとなる。・・・ついには、これらの団体のひとつが、極めて大きくなって、他のすべての団体を圧倒するようになると・・・最早そこには一般意志は存在せず、優勢を占める意見は特殊な意見にすぎなくなる。したがって、一般意志を十分に機能させるためには、国家の内部において部分的な社会が存在せず、各々の人民が自分自身の意見だけを述べることが重要である。」(『社会契約論』第2編3章)

「主権は譲り渡され得ない。これと同様の理由で、主権は代表され得ない。主権は本質上、一般意志の中に存在する。しかも、一般意志はけっして代表されることはできない・・・イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いである。彼等が自由なのは、議員を選挙する間だけのことであって、議員が選ばれるや否や、イギリス人民は彼等の奴隷となり、無に帰してしまうのである。その選挙という自由な短期間の間に、彼等が自由をどのように行使しているかをみれば、彼等が自由を失うのも当然といえる。」(『社会契約論』第3編15章)


しかし、数百人規模のコミュニティーを想定する直接民主制ではなく、主権国家規模のスケールで展開する間接民主制においては、「国民の総意」とは論理的に異質な「国民の部分=party」にすぎない政権与党の意志が「国民の総意」と擬制される政治システムが定着した。要は、主権の帰属主体としてルソーが想定した「一般意志」なるもが、ルソーが夢想したようには容易に確定できるものではないことが判明したのです。而して、「間接民主制=議会制民主主義」の拡大浸透にともない民主主義も国民主権もその「歴史的-論理的」な意味を変容せざるを得なくなったの、鴨。

民主主義は、では、どのような変容を蒙ったのか。蓋し、民主主義は、自由と多様な社会的価値の並存を推奨する価値相対主義を基盤とするイデオロギーに自己変革を遂げ、而して、議会における多数派のする決定に対して少数派からの寛容と遵法を確保すべく、具体的な内容としては、政治(権力の分配構造とその全過程)における国家意志形成の手続規定に自己を限定し、要は、手続的正義を担保することを通して国家権力を正当化するロジックになった。他方、国民主権は、国家の意志の一元性一様性を謳う地平に留まりつつ、他国の干渉が国家の意志決定に容喙することを拒否する、謂わば「実定憲法に本地垂迹したナショナリズム」として、而して、政治的意志決定が行なわれる舞台と役者の範囲を枠づけることを通して国家権力を正当化するロジックに収束したのではないか。

極論すれば、現代における民主主義の積極的意味内容は「利害・価値観の決定的対立が存在しない社会の実現」と「十分なる情報が与えられた中で自由なる議論を通して、今日の少数派が明日の多数派になる可能性の担保」に収斂する。而して、福祉国家の成立により政治が係わる領域が拡大して、かつ、グローバル化の中で千紫万紅、多様な社会的価値が咲き誇るにつれ民主主義の重要性は益々高まっている。

他方、国民主権は(君主主権が博物館の陳列品となった現在、また、社会的価値が一層多様化する現在、そして、他国からの干渉が明示的には存在しないとすれば)、元和偃武以降の番方の武士、<旗本退屈男>的存在になってしまった(ならば、外国人地方選挙権の是非が喧伝されている現下の情勢は、国民主権にとって久しぶりに廻ってきた活躍のチャンスとも言えるでしょう)。尚、「民主主義」に対する私の基本的な認識に関しては下記拙稿をご参照ください。

・民主主義--「民主主義」の顕教的意味
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226712.html

・民主主義--「民主主義」の密教的意味
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65226739.html

この2部作の前哨的思索としての


・民主主義とはなんじゃらほい
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-390.html

そして、その「応用問題」での検算の作業が

・民主主義の意味と限界-脱原発論と原発論の脱構築
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11138964915.html
 
・放射能と国家-脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/fd01017dc60f3ef702569bbf8d2134d2



蓋し、「国民主権」と「民主主義」という言葉には、複数の意味内容が「歴史的-論理的」に折り重なって憑依している。それはあたかも、ある家の建っている敷地に時間を違えて建っていた複数の家々にまつわる複数の<幽霊>が、その同じ敷地にそれぞれ独自に存在している世界、阿刀田高「家」(『恐怖同盟』(新潮文庫), pp.101-128)が描く表象とパラレルなの、鴨。

いずれにせよ、「国家」も「国民」も、「憲法」も「主権」も実体概念ではなく、法的意味空間に投影された<フィクション>にすぎません。しかし、単なる事物の組み合わせにすぎない<案山子>が一定の機能を帯び、人々から感情移入さえ受けるように、それらは各々特殊なイデオロギー的機能を帯びており、人間行動に影響を与える<公共性を帯びた作品>でもあることは間違いないと思います。

★註:法実証主義
法実証主義の意味については、矢崎光圀先生の説明が日本の法学研究者コミュニティーの共通財産になっていると思います(「法実証主義の再検討」『法実証主義の再検討:法哲学年報-1962年』(1963年4月)所収;『法哲学』(筑摩書房・1975年;pp.312-322))。私なりにそれを整理すれば、法実証主義とは以下のような傾向性を帯びる法的思考のスタイルと言えるかもしれません。

①実定法主義(法とは人間の命令である)
②経験主義(経験的に認識できる規範だけが法である)
③ある法主義(法と道徳の峻別;法外の価値判断に対するイデオロギー批判)
④法についての確実性または蓋然性の信念

些か補足すれば、①に関しては、八木鉄男先生によれば、近代主権国家成立以降は「法とは主権者の命令」と解した方が実情に近いかもしれません。また、ハートによれば、④には「社会学や社会心理学、政治哲学的な法価値論からの法解釈学の独自性に対する信念」「法は閉じた意味空間であり、論理的演繹操作によって法規範の意味を発見しうるという信念」がコロラリーとして含まれると思います。

いずれにせよ、法実証主義という言葉もまた多義的であり、論者がどんな意味にこの言葉を使おうと一応は勝手ですが、少なくとも、法思想の歴史からは、例えば、「慣習法を含むか否かの争ひがあるにせよ、凡そ法典として紙に書かれた実定法のみを法とする」(南出喜久治『占領憲法の正体』2009年, p.39)などという、法的思考の対象、法源の存在形式にのみ着目した法実証主義理解は間違いなのです(尚、「憲法無効論」に関しては下記参照)。

・憲法無効論は不毛ではないが無効である

 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57820628.html



■国民主権と抵触しない外国人地方選挙権の相貌
以上、外国人地方選挙権の問題を思索する者が、おそらく、前提にしているだろう諸々のBig Words を一応<脱構築→非自然化>したつもりです。而して、この地平からは、「国民主権と抵触しない外国人地方選挙権」なるものの内容は如何。結論を整理します。

①「国民主権」は、それが「主権国家」、すなわち、「外に対しては独立の内においては最高の、かつ、不可分の政治的権威」の正当化原理である以上、他国民から法的に分節される当該国の国籍保有者の総体に帰属する。また、②「国家」の概念と事物の本性に鑑みれば、外国人選挙権なるものは、ある国家をその国家たらしめている契機、蓋し、(a)社会統合のイデオロギーとして「憲法」にインカーネートされた<政治的神話>である、国家の「文化的-歴史的」アイデンティティ、(b)国家意志を決定する政治権力の分配構造、そして、(c)国民と領土と対外主権の範囲確定には毫も容喙できない。

更に、③「国民主権」が、「なぜ現下の憲法秩序に我々は従わなければならないのか/従っているのか」という法の効力根拠の一斑でもある限り、外国人が国民を一般的に拘束する立法活動(国政)に関与することはできず、また、④地方自治体の範囲で定められる法規も、それが全国規模の国家権力行使の一斑である限り、地方においても外国人は立法活動に関与できないと解する他ない。

而して、⑤「国民主権と抵触しない外国人地方選挙権」なるものはこれら①~④に抵触しない範囲に限定される。よって、ヴェニスの商人説第3項に記した如く、地方行政と国政が未分離の現在、また、日本国の社会統合イデオロギーである「皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」という現行憲法に内在する<政治的神話>を自覚的に拒否する存在、すなわち、特別永住者を無限に再生産可能な特別永住者制度を残したままの状態での外国人地方選挙権付与は違憲である。

いずれにせよ、⑥ヴェニスの商人説第4項に記した如く、⑤の瑕疵が治癒した段階においても、外国人地方選挙権付与制度に関して、「主権国家」たる我が国は、国益維持の観点から、制度の是非、および、どの国籍国のどの範囲の人々に選挙権を付与するかを自由に決めることができる。ならば、例えば、議会の討議には参画できるものの投票権のないアメリカの委任統治領選出の下院議員とパラレルに、②~④に抵触しない範囲で、選挙立候補者の当落には影響を与えないが、その票数は一般に公表されるが如き新たなカテゴリーの地方選挙権制度導入等は、現行憲法に違反しない可能性はある。このイシューにつき私はこのように考えています。


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