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「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけ」という主張の無根拠性(下)

2012年01月25日 14時05分27秒 | 日々感じたこととか


◆二重国籍と外国人地方選挙権との論理的関係の不在

「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけだ」という主張は「隣の芝生」的の誤謬を犯している。すなわち、例えば、「沖縄には日本にある米軍施設の7割が集中している」「在外自国民に自国の国内選挙の選挙権を認めていないのはOECD加盟国で韓国だけだ」という命題は、それ自体、何らかの特定の施策指針を一義的に演繹する<論理必然性>をなんら持つものではない。

而して、このことは、論理的必然性の欠如に起因するものの、そのこととは別のある危うさが「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という命題には憑依していることを推測させるのではないか。そう私は考えます。蓋し、それは、「果たして、二重国籍と外国人地方選挙権をリンクさせることに何か論理的な意味があるのか」ということです。

別の観点から件の主張が孕む第二の危うさについてを敷衍します。
前項の帰結を再度述べれば、

①帰化を含む外国人処遇の制度設計を巡り、時に、二律背反に陥りがちな「国の労働生産性向上 vs 社会の秩序維持」という二つの政治目的を自国に最も有利な点で均衡させるべく、②国力・資源、文化・社会統合のパフォーマンス等々、非対称性を帯びるその国の歴史的に特殊な現状を睨みつつ、③二重国籍と外国人地方選挙権に関してOECD加盟国諸国はその国独自の政策を選択している。


而して、労働生産性を向上させるべく人口を増やしたい国、逆に、自国民に「出稼ぎ労働者」として海外で外貨を稼いでもらい、最低でもそれによって自国内の「食い扶持」を少しでも減らしたいと考える国にとってはよりルーズな国籍制度が<最適解>であろうし、vice versa なの、鴨。





畢竟、国際法と憲法の観点からは、「国籍=国籍が与えられる範囲」は、(甲)誰が最終的にその個人の面倒を見るのか/責任を負うのか、(乙)その国の政治的意志の形成と決定に誰が参画でき/誰は参画させるべきではないのかという二つの軸の均衡点として定まるものです。

ならば、「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という主張には、各国ともこれら(甲)(乙)を睨みながらも、自国の非対称性を踏まえた上で国益を最大にするべく国籍の範囲を定めているにすぎないという現実的な観点が欠けている。而して、私はこの欠落に「二重国籍と外国人地方選挙権をリンクさせる」危うさの病巣が潜んでいると推測しています。

蓋し、「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけだ」とう命題、一般化すれば「OECD加盟国で【X】と【Y】が存在するのは日本だけだ」という形式の命題が、社会学的に観察される事実から支持されるための【X-Y】の組み合わせはおそらく無数にあるでしょう。

例えば、「OECD加盟国で【子どもの連れ去りを禁じたハーグ条約が未批准】なのも【調査捕鯨を継続】しているのも日本だけだ」、そして、「OECD加盟国で【裁判員制度】も【銭湯】も存在するのは日本だけだ」と。而して、「ハーグ条約-調査捕鯨」の組み合わせには何かしら意味があるように見えなくもないけれど、「裁判員制度-銭湯」の組み合わせにはそう大した意味はないように見える。けれども、論理的にはこれらはすべて同型の命題であり、かつ、現実からサポートされているという点でもこれらはすべてパラレルなのです。つまり、この「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」という命題は、二つの事実を正しく指摘した無数にある命題の一つにすぎない。





而して、もし、「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」と吐露した賛成派の論者が、この命題によって「日本も二重国籍か外国人選挙権かのどちらか、あるいは、その両方を制度化すべきである」という主張を演繹できると考えているとしたら、彼等の認識には、おそらく、

(イ)外国人管理法制を巡る論点は二重国籍と外国人地方選挙権の2者から構成されている単一の問題であり、二重国籍を認めない法制が続いている現状では、せめて外国人地方選挙権は認められるべきだ

(ロ)なにより、「二重国籍や外国人選挙権は正しい制度だ」


というアプリオリな前提が憑依していると考えざるを得ないのです。


けれども、(もちろん、「二重国籍」と「外国人地方選挙権」には各々異なる制度目的があることは当然の前提として、しかし、百歩というか千歩譲って、ここではそれらの二制度が「外国人管理法制」というより上位の法システムを構成するパーツであることを認めるとしても)、これら(イ)(ロ)の認識は、

(イ)に関しては、「二重国籍と外国人地方選挙権」には各々独自の制度目的があるだけではなく、この組み合わせに「裁判員制度と銭湯」や「富士山と玉子ご飯」の組み合わせを超える論的な性質は存在せず、他方(ロ)に関しても、この認識は他のOECD諸国が自国と他国の非対称性を踏まえた現実的な観点から二重国籍や外国人選挙権を、「国民主権」と「国籍唯一の原則」の例外として一部採用しているという事実を看過した上で始めて成立可能な妄想にすぎない。


と、そう私は考えます。畢竟、EU域内や英連邦内を除けば、「ほっとけば人口減少に伴い産業の国際競争力低下と国力低下が必定の国」以外で、(帰化に際しての)二重国籍を認めている国は皆無と言っていい。ならば、比較法的観点のからは「外国人選挙権や二重国籍は正しい制度だ」などとは到底言えることではないのではないでしょうか。

蓋し、「OECD加盟国で二重国籍も外国人地方選挙権も認めていないのは日本だけだ」という命題は幾つか留保を附すならば事実でしょう。しかし、それはなんら外国人地方選挙権を根拠づけるものではないということです。

畢竟、「OECD加盟国で・・・認めていないのは日本だけだ」というこの命題が外国人地方選挙権推進の理由として神通力を帯びるのは、「二重国籍や外国人選挙権は正しい制度だ」という特殊なイデオロギーを共有するグループの内部に限られる。ならば、蓋し、そのような「内弁慶的-」の命題を都道府県議会議長会主催の会合という<神通力の射程外>の公の場で吐露した賛成派の言動は、正に、「正気?」ものの事態ではなかろうか。と、そう私は考えています。




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