本書『地の底のヤマ』(講談社・2011年12月)は、「一つの町に生きた人々の戦後史」を描いた作品。東洋一の規模と謳われその産出する石炭の質の高さを誇った三池炭鉱を擁した、三井三池の城下町、福岡県大牟田市の戦後史を「4本+1本」の推理小説というか警察小説仕立てで描いたものです。
「警察小説」というこなれない言葉を使いましたが、要は、警察という巨大組織内部にまとわりつく不条理や非合理、ありていに言えば、出世や配属の不公平、能力と権限の不均衡、あるいは、捜査の指揮命令に介在する情実や圧力・・・、けれど、けっして美しくないそんな組織の実像がわかってきても、与えられた場で「町の治安を守る」ことに尽くしている現場の警察官の気高さを描いた作品という意味です。そう、本書『地の底のヤマ』は、横山秀夫さんの一連の「警察小説」、例えば、『顔 FACE』( 徳間書店・2002年10月)、『ルパンの消息』( 光文社カッパ・ノベルス・2005年5月)、『64』(文藝春秋・2012年10月)と一脈通じるもの、鴨。
ちなみに、横山さんは、地方紙で警察担当の記者をしていたときに「警察官と警察組織」に対して感じたことが自分の作品の基底にある。確か何かにそう書いておられたと思うけれど、本書の著者、西村健さんは旧労働省の元官僚で、20代の半ば過ぎにおそらく思うところもあり退職。その「思うところ」が、これまた「おそらく」ですけれど退職の10年後に上梓された--その後の取材で肉付けした情報も加味しながら、官僚組織の歪さを採用と昇進というヒューマンリソースマネージメントの切り口からスケッチした--『霞ヶ関残酷物語-さまよえる官僚達』(中公新書ラクレ・2002年7月)を貫く主旋律になっている、鴨です。而して、『霞ヶ関残酷物語』から更に10年後の本書『地の底のヤマ』にもこの旋律が流れているような。空耳かな。
ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿ヽ(^o^)丿
本書は4本の連作短編で(というか1本1本が普通の長編推理小説、例えば、アガサ・クリスティーDBEの『牧師館の殺人』『書斎の死体』『予告殺人』『鏡は横にひび割れて』1本1本に匹敵するボリュームなので、正確には「連作長編で」と言うべきでしょうか。)、主人公である福岡県警の警察官が、あるいは労組幹部の変死事件、あるいは政財界を巻き込む膨大な裏金にまつわる殺人事件、あるいは一家皆殺し事件、そして、麻薬取引を巡る事件を解決していく。しかし、結局、それら4部作というか4個の事件はすべて第5の、というか、「0番目の事件」の全貌を主人公が把握するためのプロセスでもあった・・・。これ以上書くと「ネタバレ」になるので内容紹介は割愛しましょう。
推理小説であり警察小説であると同時に、本書はなんといっても「大牟田という町に生きた人々の戦後史」を丹念に復元し追体験しようとした作品です。而して、「ご当地ミステリー」と言う言葉も赤面してしまうほど本書のご当地性は濃密そして豊饒。正に、それは<長編叙事詩>そのもの。蓋し、例えば、岡崎琢磨『珈琲店タレーランの事件簿-また会えたなら、あなたの淹れた珈琲を』(宝島社・2012年8月)のような、確かに作品世界の舞台は京都なんだろうけど、作中の地名やイベント名といった固有名詞を伏字にすれば、あるいは、北白川や今出川、京大食堂やカフェ進々堂、大文字の送り火や葵祭を入れ替えれば、仙台だろうが鹿児島だろうが、金沢だろうが松山だろうが、吉祥寺だろうが新百合ヶ丘だろうが、どこの学生街を舞台にした「ご当地ミステリー」にも容易に変換可能な作品と比べれば本書『地の底のヤマ』のご当地度は隔絶している。
なにより、作中の登場人物の台詞はこれすべて大牟田弁。そして、半世紀間の大牟田の街と人々の変化を1960年、1974年、1981年、1989年、そして、2011年と、かつ、街の数十か所で定点測定してある。しかも、炭鉱の活況・衰退・閉山という軸が(大げさな物言いではなく、日本のエネルギー政策の鏡像である、石炭産業の日本の全産業における位置づけの変遷への目配りが)大牟田の街と人々の変化を貫く軸として愚直に堅持されている。
ヘーゲル流に言えば、歴史とは普遍的や一般的な概念による個々の出来事の理解であり、逆に、その諸々の個物を理解するプロセスでの普遍的や一般的な概念の変容であり、そして、それら普遍と個物との間で永久的に繰り返されるキャッチボールの営みである。そう私は考えています。蓋し、本書『地の底のヤマ』の描く「一つの町の戦後史」は一書の中でその普遍と個物の弁証法的対話を重ねたもの、鴨。要は、本書は、大牟田にしか当てはまらない究極のご当地ミステリーであると同時に、他方、普遍的一般的に妥当する都市や人間の現存在性の照射に成功した作品と言える、鴨。
主人公の猿渡鉄男が、郷里の大牟田警察署で最初に
配属された「大正町派出所」(現在の「大正町交番」)
とその横を流れる大牟田川
実は、大牟田市は新栄町にある、もんど商店という居酒屋さんで本書を読んでいたとき、店のマスターから声をかけられた。「いやー、その本なぎゃん良かですもんね。読み始めたら、ほんなこつ一気に読んでしもうたぐらい良か本じゃった。はよー、映画化されんもんやろかち思うとっとですたい」(Hey Sir. I love it, too. I started reading it and literally couldn't put it down. And then, I hope as soon as they possible it will be screened.)、と。
私は、しかし、(本書に出てくる最後の会話、友人の8才になる娘・春菜ちゃんをある施設から引き取って八女から大牟田に向かう途中のこの少女と主人公の会話を読み上げた後、)こう答えました。以下、同書(pp.861-862)より引用。
大牟田署に最初に配属された際に主人公が寝起きしていた、
独身寮「不知火寮」。大牟田警察署と同じ敷地内にあります。
黒崎公園の丘陵を回り込むと大牟田に入った。堂面川に架かる橋を渡ると、春菜が「わぁ」と明るい声を上げた。ここからは有明海がよく見える。・・・春菜は八女で生まれ育った。内陸なのであまり海に馴染みがないのだろうと思われた。・・・だから海を見て純粋に、喜んでいるのだろう。
「有明海たぃ」
「これから行くオッチャンの家も、海に近かぞ。仕事で毎日、海に出よる。
今度、一緒に潮干狩りに行こう」
「潮干狩り? 貝とか、掘ると」
「あぁ。貝もマジャクも、何でん獲るる。タコだっちゃ」
「タコ? タコも捕まえると」
「あぁ。タコは干潟に穴ば掘って、隠れとる。オッチャンには海に詳しか友達もおって、
その人やったらあっちゅぅ間に捕まえてしまう。なんさま、一緒に行こう。
いくらでん獲るっぞ。また自分で獲った貝は、ほんなこて美味かぞ」
「わぁ、行きたか。自分で獲った貝、食べてみたか、あたし」
「よかよか。いくらでん、連れてっちゃる。嫌ちゅぅ程、喰わしちゃる」
「ほれ。もう一度、橋ば渡るぞ。また海のよぅ見ゆっぞ」
「わぁ」少女は心からの歓声を上げていた。(引用終了)
(麻友)本書の台詞はほぼ100%大牟田弁であり、大牟田出身者や隣接するみやま市ならびに熊本県の荒尾市および南関町出身者以外には--たとえ福岡県民や熊本県民でも--本書は気楽に楽しむには言葉の壁が大きい。かといって、(莉乃)映画の台詞を大牟田弁のネーティブスピーカー以外にも理解可能なものに書き換え、ただ、それらしい雰囲気を残すべく、例えば、語尾に「ばい・たい・くさ・と」を付ける、副詞や接続副詞として「ばってん・なんさま・ぎゃん」を付けるという小手先の修正を施すだけでは「一つの町に生きた人々の戦後史」を描くという本書の肝が台無しになりはすまいか。ならば、(由紀)ここは思い切って、台詞は全部英語にするとか、あるいは、<物語>の舞台自体をピッツバーグやデトロイト、あるいは、マンチェスターやグラスゴーに移すとかした方が、まだ、大牟田の戦後史を描くことを通して本書が世に発信しようとしたメッセージのエッセンスは伝わるのではないか、と。こう言ったら、なんかわからんけど、良か話ば聞かせてもらいましたとかなんとか、マスターから生ビール1杯おごっていただいたりして。
ウマウマ(^◇^)
春菜ちゃんが越えた堂面川に架かる橋。
画像の奥は有明海です
本書は単行本で全863ページと大部(ただ、アガサ・クリスティーの長編小説4冊を買ったと割り切れば、定価2500円は割安?)、また、上にも述べた通り「言葉の壁」があって、正直、読みやすい書籍とは言えないかもしれません。けれども、本書は大牟田市出身者以外の方も読んで絶対に損のない一書だと思います。一読をお薦めします。
あっ、最後になって突然ですが書き忘れたこと発見。えー、ご存知のブログ読者の方も多いと思いますけれど私達は大牟田市の出身です。手鎌小・倉永小→甘木中→三池高校。また、著者の西村健さんも、当然、大牟田の出身。多分、白川小卒。その後は、白光中→鹿児島ラサール→東京大学工学部卒という大牟田の秀才さんです。実は、西村さんの実家と私の実家は(うちが海寄りですけれど)堂面川という同じ川の川沿いにあり徒歩20分くらいなんですよ。それだけのことなんですけどね。
と、以下は、アトランダムに幾つか画像を掲載させていただきます。
この記事、ここまで読んでいただきありがとうございました。
尚、「大牟田」と<郷里>を巡る私の基本的な思いと認識については下記
拙稿をご一読いただければ嬉しいです。
<(_ _)>
・アーカイブ☆地方再生と日本再生を郷里で思う(上)~(下)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148540450.html
・覚書★保守主義と資本主義の結節点としての<郷里>(上)~(下)
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/bdcdd6661ad82103a6d8d07d93eb7049
・福岡県大牟田市:松屋デパート「洋風かつ丼」復活が孕む思想的意味
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9ffb70a94181ada4d3527ae2bc548d25
「町の治安を守るべく」大正町交番の駐車場で待機するパトカー君達。
手前の龍が守る橋は大牟田川を跨いで大正町と新栄町方面をつないでいます。
下は、その新栄町方面から大正町方面を撮ったもの、
車道の上は炭鉱列車の軌道跡(ibid., p.383)
付録画像:
大蛇山に乗っ取られた? 守られている? 電話ボックス。
<画像編に続く>
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