我々が「今」いる高蔵寺の住所は町田市三輪町1739番地。小田急柿生駅を出撃してから約1時間15分経過といったところ。けれども、高蔵寺自体は柿生駅から15分足らずの小高い丘の上にあります。
高蔵寺と岡上地区との関わりとして注目すべきは、「明治5年【1872年】、「学制」発布により、各地に小学舎が建設され、高蔵寺にも「研鑽学舎」と「岡登学舎」という寺子屋式の学校が、明治6年2月に開業している。【三輪村の】村人口が少なかったためでもあろう、三輪、能ヶ谷【以上、後の鶴川村】、岡上の三つの村がいっしょになって開業した」(高蔵寺配布の資料「三輪の寺院」より引用)という事実です。岡上と三輪も「仲良しだった!」ということでしょうか。
ここで想起されるのは、過去記事(下記URL参照)でも紹介した柿生の洋菓子屋「ミツバチ」さんの店頭にある石碑、「寛政11年の題目塔」には寛政11年(1799年)「麻生・片平・奈良・能ヶ谷・三輪・金井村の六ヵ村の日蓮宗を信仰する人々によって建立された」と刻されていること。
「お題目塔」に岡上の名はありませんが、村名の出ている「奈良村」は、現在の玉川大学の敷地と岡上地区に挟まれたエリアであり、近世文献では岡上村と奈良村は「奈良岡上」と単一の概念で呼称されているエリアでもある。蓋し、都筑郡と三多摩の違いを超えて、岡上・柿生のエリアと三輪地区を含む旧鶴川村のエリアは極めて親しいコミュニティーであったと推測できるのではないか。そんな「予備知識」を仕入れた上で三輪地区を散策しましょう。
【過去記事】
・【寛政11年の題目塔】ウォーキング de 我が街「新百合ヶ丘」:
柿生-新百合ヶ丘編
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56641775.html
【地図画像】
・岡上地区包囲Map
http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/shinyurimap13a.jpg
上の画像は、もちろん、高蔵寺。先にも述べた通り、高蔵寺は、康安2年(1362年)に、足利将軍家の武運長久祈願所として創建された古刹です。現在の新百合ヶ丘エリアも三輪地区も、鎌倉時代後期には北条一門の所領となっていたと考えられますが、「鎌倉幕府滅亡→建武の新政」(1333年-1334年)を契機に、誰あろう、足利尊氏公ご自身の領地になった。正に、将軍の直轄領。かっこいい! と、足利尊氏公が大好きな私はそれだけで、<萌>です。
で、下の画像は高蔵寺から鶴見川に下る坂道。畢竟、奈良・平安の古から織豊の近世初頭まで、(小田急小田原線の開業が1927年、現在のJR横浜線の前身、横浜鉄道の開業が1908年、而して、津久井道も鶴川街道も江戸期半ばまでは「(準)街道システム」としても存在していなかったのですから)このエリアの地政学的な価値は偏に、鶴見川水系と鎌倉街道系の脇街道のロジスティクス能力に支えられていたのではないでしょうか。蓋し、その「証拠」はすぐにお見せできると思います。
はい。これがその「証拠」。「七世紀ごろにつくられたものと推定」される横穴式古墳。
要は、このエリアには古代から小なりとはいえ古墳を造営できるほどの有力者が住んでおり、また、戦国期には後北条氏の重要な出城が築かれていた、と。畢竟、それは鶴見川の水運能力と防衛能力のたまものであったのではいか、と。そう私は考えるのです。
ということで、ここで「脇道散策=沢山城跡探訪」を敢行することにします。でも、そう遠くはないですよ。実は、「今」いる坂道、そして、高蔵寺自体が「沢山城」の一部なのですから!
脇道の経路は、先程の熊野神社に戻る道すがら左手に入る農道です。参考記事URL(↓)を記しておきます。ただし、沢山城跡はその全体が地主・山主の荻野家の私有地。そして、荻野家の方が代々物心両面で大切に管理しておられる所です。よって、探訪には十分配慮してください。下2枚が沢山城跡の画像。実は、本記事のTop画像は、沢山城の「三郭」跡と思しき地点なのです。下の画像三枚目は、沢山城跡から道なりに南側に下った地点と、沢山城跡に隣接する「沢谷戸自然公園」の南側入口です。
・【三輪の名所&沢山城跡】
http://www.geocities.jp/nanapiko9/kakio.html
http://homepage2.nifty.com/siro6966/umanen3tokyo01miwa.html
沢谷戸や 兵どもが夢の跡は子供達の夢の遊び場
沢山城を舞台にした大規模な戦闘の記録は見当たらないようですが、その地政学的価値から見て、おそらく、関東制圧を目指した上杉謙信もその存在を無視できなかった。そんな後北条氏の虎の子の軍事拠点も今では格好の犬の散歩コースの「借景」になっています。
実は、私は「Could you help me get to the site of Sawayama Jyo?」と何人かの地元の方に聞いたのですが、ほとんどすべての方に「Sawayama Jyo, what?」と聞き返されてしまいました。而して、最後に親切に教えてくださったのは、(別に、後をつけたわけではないのですが、ある根拠をもって推測するに)荻野一門の方でした。
大急ぎで言葉を足しますけれど、私は荻野一門の方々に感謝しこそすれ、他の誰それを嘲笑しているわけでも非難しているわけでもないです。それも時代の流れなのでしょう。
而して、大雑把に言えば、鶴見水系のロジスティクスのポテンシャルが都筑郡を、多摩川水系のそれが橘樹郡を「経済的-文化的」と「政治的-軍事的」に<社会統合>していた状況が、樽廻船等々、日本列島全体をカバーする海運システムの現出と、個別、新百合ヶ丘エリアにおいては「津久井道」「鶴川街道」の整備によって(小田急線・横浜線開業の遥か前に)岡上地区と柿生エリアが都筑郡から漸次離脱の道を踏み出したとしても不思議ではない。と、そう私は思うのです。
そんなことを考えつつ、元気な子供達の歓声と愛犬の散歩を楽しむご婦人方の談笑の傍らを下り沢谷戸自然公園の北側入口に向かう。というか、実は、本線の順路はこの沢谷戸自然公園の北側入口に至るのです。よって、ここで自動的に「脇道散策-沢山城跡探訪」は終了。そして、旧都筑郡の<母なる鶴見川>まで「ここ」からは匍匐前進しても10分とはかかりません。多分。
徒歩1分。カップヌードルを食べるには3回歩かなければない時間で鶴見川に到達。
インターエリアの統合装置としての<神通力>は低下したかもしれないけれど、鶴見川沿いを歩くと元気になります。やはり、人間、山や川と直に接すると元気になる。川や山にはそんなエネルギーが間違いなくあります。登校中の三輪小学校の子供達の元気さもあるいはそれが原因の一つ、鴨。そして、鴨さんの元気さの秘訣も!
私の記憶が間違っていなければ、昔々、日本における疎外論研究の権威、城塚登先生は『新人間主義の哲学』(NHKブックス・1972年)の中で、現代社会が人に課してくる疎外現象に拮抗するためには山登りを始め自然と親しむことが有効だと説いて、教条的マルクス主義者とポストモダンを気取るインテリ左翼の双方から嘲笑された。けれど、(もちろん、その理路は荒唐無稽であるにせよ)城塚先生の結論自体はそう間違ってはいなかったのではないか。岡上の営農団地を堪能した「今日」私はそう感じています。
畢竟、国破れて山河あり。ならば、保守改革派は、「総選挙で負けたくらいでくよくよしてたらあかんねん」、です。と、元気になり気合が入った状態で鶴見川と麻生川の合流地点に到着。
というところで、適度な長さなので次回に続きます(;・ω・;)。