・異質性の諸相
他方、(乙)の異質性については、まず間違いなくクリスティー作品は、良質の「英国情報ガイドブック」でもありましょう。
少し古いにせよ、例えば、陪審制を始め、法曹の専門教育を受けてはいない退役大佐等々の地方の名士が、(訴訟案件数で言えば過半を優に超える案件を裁く)治安判事(magistrate)を務める社会的慣習や、変死や変死の疑いのある事例については、正式な裁判の前に検死審問(inquest)という一種の陪審手続きが行われる法慣習の存在。離婚や遺言作成の手続き等々、英国社会に関する良質の情報がクリスティー作品には溢れていますからね。
・普遍性と異質性の相対矛盾の自己組織化
加之、(甲)(乙)の交差する領域に関して補足しておけば、少なくとも、自分の祖父母達は世界史のその同時代を生きていた頃の英国、他方、現在でも国際政治、あるいは、国際経済の部面において、更には、ガーデニングやファッション、サッカーや英語教授法においても小さくないプレゼンスを維持している英国。保守主義による教育政策や経済政策や社会保障の見直し等々、国内政治の領域に関してもこれからこそ日本のお手本になるかもしれない英国。
そんな飛行機に乗れば12時間足らずで行ける英国社会の現在と、クリスティーがその作品世界に描いた半世紀から一世紀前の英国を重ね合わせることができることもまた、クリスティー作品の醍醐味でしょう。
実際、コモンロー上の犯罪でもある詐欺罪の構成要件が制定法によって緩和されていく社会の情景、あるいは、<大英帝国>がその植民地を第二次大戦後、漸次、失って行く過程を目にしていた当時の英国の人々の情念を、例えば、『動く指:The Moving Finger』(1943), 『パディントン発4時50分:4.50 from Paddington』(1957)に読むとき、現在の英国社会の来し方と、そして、おそらく、行く末をもより実感をもって<読者>は理解/予想できると思うのです。
畢竟、まさか、今時「坂の上の雲」ではないにせよ、英国が今でも少なからずの日本の<読者>にとっての憧れの対象とまでは言いませんが、少なくとも、小さくない興味と関心の対象であるとすれば尚更、英国社会のリアリティーをより深く理解できるメリットはクリスティー作品の魅力でないはずはない。と、そう私は考えます。
・普遍性と異質性をつなぐもの
大急ぎで補足すれば、しかし、普遍性と異質性というこの相矛盾する両性質の統合と融合の作業は、クリスティーの技量と天才をもって初めて成し遂げられたものだろう、と。20世紀の米英やカナダで書かれた作品からクリスティー作品を明確に区別するものは(まして、「私小説」の枠組みという「補助輪」がなければ大人の鑑賞に堪え得る作品をなかなか書けなかった日本の作家達のそれらとクリスティー作品を隔絶させているものは)、よって、ストリーテラーとしての作者の力量、各々の普遍性と異質性の両者の<量>だけではなく、謂わばその<配分比>であり、両性質の各々の諸要素を配置する手際の練達の度合いではないかと思います。
実際、「凶悪犯が絞首刑に処せられるのは当然」と考える作中人物が闊歩した、正義が支配する真っ当な社会であったクリスティーの作品世界とは違い、現実の英国では死刑が廃止されて久しい(彼の地では1969年に「反逆罪と海賊罪行為」を除いて死刑制度が廃止されましたから)。ならば、クリスティーが死してなお今でも人気作家の地位を保っている英国ではありますが、クリスティー作品の孕む異質性は英国の<読者>にとっても今でさえそう小さくはないはずなのですから。
尚、「女帝の時代」という切り口からのものですが、「英国史」に関する私の基本的な認識については下記拙稿もご一読いただければ嬉しいです。
・人類史は、少なくとも、英国と日本は再び<女帝>の時代に入った?
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/cdc9dc3b85a6516e7a22522417e99883
◆異質性による普遍性の浸食
前項の記述を敷衍しておきます。例えば、日本の警察組織内部の組織の力学が翻弄する人間の運命に焦点を当てた横山秀夫氏の諸作品、『陰の季節』(1998), 『顔 FACE』(2002), 『看守眼』( 2004), 『 臨場』(2004), 『 ルパンの消息』(2005), 『震度0』(2005)等々は、異質性の素描において素晴らしい切れ味を具現してはいる。けれども、<読者>がその異質性から得られる愉悦を堪能するには、日本の官公庁に内在するキャリアシステムや学歴制度を始め、日本社会にビルトインされた生態学的社会構造へのある程度の造詣の深さが要求されるでしょう。
要は、横山秀夫氏の諸作品が、100年後とは言わないけれど50年後でさえ、日本ローカルな、あるいは、日本通御用達の作品を超える伝播普及の勢いを見せることはないと私は予想しています。ことほど左様に、
上梓された当時、『ヴェニスの商人:The Merchant of Venice』(1596-1597), 『お気に召すまま:As You Like It』(1599), 『ハムレット:Hamlet』(1600-1601)等々その作品の多くが、エリザベスⅠ世(在位:1558-1603)に対する忠誠を勧奨する著者の意図が赤裸々であったシェークスピアの作品も、また、当時の英国政界を痛烈に風刺する作品であった、スイフトの『ガリバー旅行記:Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of several Ships』(1726-1735)も、現在では、「娯楽超大作」の脚本か「童話」にすぎません。
この、「異質性が普遍性を浸食」する事情は、現在の日本人にとっては最も
馴染みのある外国たるアメリカでも同様です。すなわち、
19世紀末から20世紀初葉のアメリカ社会を舞台にしている、ウェブスターの『おちゃめなパティ大学に行く:When Patty Went to College』(1903), 『おちゃめなパティ:Just Patty』(1911), 『あしながおじさん:Daddy-Long-Legs』(1912), 『続・あしながおじさん:Dear Enemy』(1915)等の作品は、その全作品に(その後、1920年に発効した合衆国憲法修正19条が保障する)女性参政権付与に対する賛意、あるいは、犯罪者に遺伝的や資質的な犯罪を起こす傾向を認める当時流行の近代学派の刑罰理論への賛意が記してあります。
加之、(その準備書面が、後に「Brandeis Brief」として有名になるのですが、「連邦や州は、正当な立法目的と妥当な立法事実があれば、社会的規制や経済的規制を行い個人の財産権や契約の自由を制限できるのかどうか」という、当時のアメリカで最大級の憲法問題の各論と位置づけられる)女性労働者の健康維持を立法目的とする、洗濯業者に雇用された婦人の労働時間を1日10時間に制限するオレゴン州の州法が連邦憲法のデュープロセス条項(修正5条および14条)が保障する「個人間の契約の自由」の不当な制限であるかどうかが争われた「Muller v. Oregon, 208 U.S. 412 (1908)」を俎上に載せている(cf. Just Patty, chapter 3)等々、『あしながおじさん』を含むウェブスター女史の作品は、当時のアメリカでは政治小説とまでは言わないけれど間違いなく作者の政治的主張を露わにした社会派の小説した。
しかし、現在の日本と同様、現在のアメリカでさえもそれらは、小学生や中学生の、特に、女の子向きの児童書の扱いしか受けていないと思います。
私は何が言いたいのか。それは、異文化理解の困難さや時間の経過に伴う異質性の増大は、純文学や政治小説を娯楽超大作の脚本や童話や児童書に変容せしめるということ。加之、繰り返しになりますが、他方、異質性は(もちろん、それが理解可能な範囲にある限り)作品の魅力を高めるファクターでもある。就中、その異質性が<読者>が生きる<現在>と連続している場合には尚更そう言える、と。そして、クリスティー作品はその最も見事な成功例である、と。
なぜそう言えるかと言えば、クリスティー作品は上の事例とは寧ろ逆の扱いを受けてきたから。例えば、日本において、クリスティー作品は、それが紹介され始めた大東亜戦争の戦前と戦後の初期においては(推理小説マニア向けの、文字通り、マニアックなものは除き)、ルパンものやホームズものと同様に、否、それら以上に「子供向けの推理小説」として受容された後、漸次、「大人の鑑賞に堪え得る作品」として認知されたのですから。
而して、もちろん、クリスティー作品がこれからも「普遍性」と「異質性」の均衡の上に、凛として清冽かつ豊穣なる愉悦の源泉となる華々を咲き誇らせることができるのかどうか、それは誰も分からないことだと思いますけれども。
例えば、女性参政権もとっくに実現して、共学に移行して女子大も激減してしまったアメリカ社会は、only yesterday ではないにせよ、100年前にはどんな姿だったのか。カナダや中西部の少女達はどんな日暮をしながら、どんなことに関心を抱き、また、どんな情念と理路を紡いでいたのかということ。小説の作品世界を通してとはいえ、これらのことを追体験や感情移入できることは素敵なことでしょう。
ならば、SF的な全く架空の物語とは違い、それらの追体験や感情移入が(あたかも、その後日談を「実物教材:cognitive tools」としての)現在のアメリカやカナダの社会の現実と重ね合わせることで確認できることの楽しさ、その愉悦のリアリティーが、上で言及した『あしながおじさん:Daddy-Long-Legs』『続・あしながおじさん:Dear Enemy』(1912, 1915)を含むウェブスター女史の諸作品、そして、『赤毛のアン:Anne of Green Gables』(1908)および『大草原の小さな家:Little House on the Prairie』(1935)の熱烈なファンが現在の日本にも多数存在していることの理由の一つなのかもしれません。
蓋し、この謂わば「異質性の副産物」とも言うべき、<現在>と連続する異質性の効能もまたクリスティー作品の魅力の源泉の一つなのだと思います。尚、この「異質性の副産物」からの愉悦を体験されたいという向きには、一つの実例として下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。
・「あしながおじさん」を貫くアメリカ保守主義の精神
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/dc30651b55d86bc227fc7a651a74dfca
・「あしながおじさん」を貫く保守主義の人間観
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/fec9cef04c2df7543851e834dc5a2a41
<続く>