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◆解釈の地平と間主観性
・開かれた構造としてのテクストとテクストの公共的存在性
テクストの解釈とは、ディルタイの主張を私なりに要約すれば、
芸術作品の中に表現されているものは、小説家の具体的な体験そのものではない。確かに、そのような小説家の個人的な経験が作品の素材になっている場合が少なくないとしても、他者たる<読者>にとっては、そのようなテクスト外の事柄は作品の意味とは位相を異にするものである。畢竟、<読者>にとっての芸術作品の意味とは、普遍的な意味の連関性(Sinzusammenhang)でしかなかろう。
(cf. 『Gesammlte Schriften , 7 Bde』pp.84-85)
と、このようなことかもしれません。要は、テクスト一般、よって、クリスティーの作品もまた<開かれた意味の構造>をなしているということ。而して、この解釈学的地平を踏まえれば(あたかも、英国の裁判所の法解釈方法論では、多くの修正を受けつつも原則としては、「立法事実:legislative facts」や「立法経緯legislative history」は、原則、extrinsic material(司法判断が影響を受けるべきでない外部の事柄)とされていることとあるいはパラレルに)、他者たる<読者>にとっては<開かれた意味の構造>をなすクリスティーの作品世界は、作者に起因する作品の異質性を媒介にすることによって、寧ろ、その豊穣な解釈の可能性を我々に提供していると言えるの、鴨。
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重要なことは、ある作品世界が開かれた構造をなしており、その解釈も豊穣であり得るとしても、それは、放埒や我田引水がテクスト解釈において許されるわけではないということ。しかも、その「恣意的解釈」の禁止は、テクスト外的な、かつ、<読者>を属人的に拘束する解釈のルールであるだけではなく、(解釈が「テクストの真の意味」を求める営為である限り、そのような営為に対しては)テクストの内在的な本性から要請される禁制でもあるということです。
畢竟、「科学史-知識社会学」におけるトマス・クーンの「パラダイム論」からの傍証だけではなく、すべての作品が公共的な意味空間たる(カール・ポパーの言う意味での、間主観的な作品が構成する)<世界Ⅲ>の要素であることを鑑みればこのことは哲学の認識論からも自明なことでしょう。而して、この経緯は、逆に言えば、作者は時代の社会認識と社会思想のパラダイムから逃れられないということでもある。再度記しますが、この帰結は、マルクスの「上部構造-下部構造」論などの仮説的な思い込みではなく、現在の言語哲学の地平から言えることだと思います。
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・解釈の間主観性と意識の言語性
作品が公共的な意味空間たる<世界Ⅲ>の要素であるのに対してその作者はあくまでも主観的な存在にすぎません。よって、繰り返しますが、作者も彼や彼女の時代の社会認識と社会思想に規定されている。彼や彼女の<自我>、すなわち、<意識そのもの>は非言語的であるとしても、その<意識そのもの>が意識する自己は言語的な対象でしかあり得ないからです。フッサールが喝破した如く「意識とは何ものかに対する意識」でしかないのでしょうから。
敷衍します。畢竟、この「何ものかに対する意識としての意識」は言語的の内容で編み上げられている。ならば、(言語が歴史的かつ自生的な制度でしかあり得ない以上)、言語の規範と制度を慣習の領域に編み上げる、恒常的に変化する社会、および、その社会自体に対するこれまた恒常的に変遷する社会認識から、作者の意識も<意識そのもの>も自由ではあり得ないでしょう。尚、慣習も言語も<世界Ⅲ>の住人に他ならず、そして、社会と社会認識の変化が生態学的社会構造の変化と連動しているだろうことは言うまでないでしょう。
この点を、<意識そのもの>が見渡す<風景>に引きつけて、
ガダマーは『真理と方法:Wahrheit und Methode』の中でこう述べています(cf. p.286ff)。
「地平とは、ある一つの地点から見えるものすべてを包摂する視界である」「よって、確かに、地平は自己の世界認識の制約に他ならない。しかし、地平を持たない者は充分遠くまで見渡すことのできない者であり、それゆえに、自分の近辺に散乱している事柄を過大に評価する者でしかない」、と。
尚、ウィトゲンシュタインはその前後期を通じて(すなわち、『論理哲学論考:Tractatus Logico-philosophicus』(1921)から、言語ゲーム論の完成を追い求めた『哲学探究:Philosophical investigations』(1953)に至るまで一貫して、ある意味、カント哲学の再生を試みる思索の中で)、フッサールが述べた、この「世界と意識の言語性」ということを、言語が世界を「分節=再構築」するという切り口から展開したものと(あるいは、同じく<言語>を導きの糸としながらも、フッサールが人間を包摂する世界の側から捉えようとしたその同じ問題を、ウィトゲンシュタインは、世界に包摂される/世界に対峙している/世界を認識する人間の側から捉えたものと)私は理解しています。而して、この点に関しては取りあえず下記拙稿の後段をご参照いただければ嬉しいです。
・元キャンディーのスーちゃんのメッセージに結晶する<神学>と<哲学>の交点
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ef7b986c941c707ebf1cf53fd9698da7
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◆クリスティー作品の魅力の源泉-結語的言及
作者は、そして、<読者>も時代に制約されている。他方、その裏面として、作品世界は<読者>にとって開かれた構造を持つ。このような認識が満更間違いではないとすれば、例えば、1920年代や1930年代の英国のメイドさんの心性と2011年の日本の居酒屋さんのアルバイトの女子大生君の心性を、ある共通の土台の上に、要は、ある地平から理解することは必ずしも作品の恣意的な解釈ではないのではないでしょうか。
而して、その開かれた作品解釈の愉悦を高い水準で提供しているクリスティー作品の基盤には、クリスティーの人間の現存在性に関する洞察があるの、鴨。この洞察によって抽出された人間の現存在性を、私は、(丙)本質性と呼んでいるのですが、換言すれば、クリスティー作品を貫く、人間の現存在性に関する洞察こそ、先に抽出した普遍性と異質性の狭間の架け橋なの、鴨。
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本質性に媒介された普遍性と異質性の両者が構築する作品世界という、この作品理解の構図が満更そう理由のないものではないとするならば、蓋し、これら三者によって構成される作品構図は、先に述べた「解釈学的循環」の無限の螺旋運動をミステリーの作品世界に動態のまま結晶させたものと言える、鴨。
なぜならば、「部分=異質性」と「全体=普遍性」が、(人間の現存在性の探求でもある<読む>、そして、<書く>という行為の動機とモメンタムである)「本質性」に媒介されつつクリスティー作品においては統合され融合しているのでしょうから。而して、早川書房が、クリスティーのほぼ全作品を、しかも、すべて(?)新訳に改めた(新装版ではなく新訳版の!)『クリスティー文庫』を近年上梓したことでも明らかなように、(英国とはあまりにも違うこの)日本においてもクリスティーが多くの「大人の読者」を獲得し続けていることがそのことの証左と言えなくもないでしょう。「死せるクリスティー、早川書房をして儲けさせる」?
尚、「人間の現存在性の探求」とは、ハイデガー的に表現すれば、そのような「無限の螺旋運動を営む存在としての<読者>の自己認識の受容」でもあるのでしょう。そして、カント的に表現すれば、それは、「理性が問わずにはおられないがさりとて理性が解答する能力を持たない、「無限と普遍を希求してやまない人間存在の有限性」という自己認識の確認」と言うべきもの、鴨。
畢竟、少なくとも、普遍性と異質性とを融合し統合する過程で、あるいは、その基底で、人間存在の現存在性とその揺らぎを描ききったクリスティーの技量と才能は、よって、普遍性と異質性との均衡に憑依する戯れの愉悦を言語化し対象化しきったその力量は、普遍性と異質性の両義性を操る日常と非日常の両義存在、すなわち、<魔女>の技量と才能の域に達していたのではないか。と、そう私は考えています。
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ということで、最後に、KABUのお気に入りのクリスティー作品紹介(笑)
はい、短編も含んだ「ベスト1:the very best」は、やはり、『リスタデール卿の謎:The Listerdale mystery』(1934)に収録されている同名の作品でしょうかね。で、長編に限定した場合、その「ベスト5:the five bests」は?
やっぱ、ミス・マープルというか、ミス・マープルのセント・メアリ・ミード村(not Miss Marple, but Miss Marple's St. Mary Mead or St. Mary Mead with Miss Marple)のファンのためでしょうか。「マープルもの」が、<彼女>の長編12作中6作(*)入選。これは、クリスティーの長編が全部で66作であることを考えれば、確かに、選者の好みと主観が炸裂した結果なの、鴨。
б(≧◇≦)ノ ・・・何とでも言いなさい!
б(≧◇≦)ノ ・・・Say whatever you want to!
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◆KABUのお気に入り:アガサ・クリスティー長編ベスト5
1)予告殺人:A Murder is Announced(1950)*
2)もの言えぬ証人:Dumb Witness(1937)
3)スリーピング・マダー:Sleeping Murder(1976, but had written in 1943)*
4)鏡は横にひび割れて:The Mirror Crack'd from Side to Side(1962)*
5)アクロイド殺し:The Murder of Roger Ackroyd(1926)
次)書斎の死体:The Body in the Library(1942)*
次)動く指:The Moving Finger(1943)*
次)バートラム・ホテルにて:At Bertram's Hotel(1965)*
次)三幕の殺人:Three Act Tragedy(in U.K., 1935;
whereas in U.S. in 1934, as "Murder in Three Acts")
ということで、最後の最後にあの有名なフレーズを、私も。
б(≧◇≦)ノ ・・・A Christie for Christmas!
б(≧◇≦)ノ ・・・クリスマスにはクリスティーを!
ウマウマ(^◇^)
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