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外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(Ⅲ)

2009年11月23日 12時55分28秒 | 日々感じたこととか

(6)容認説を肯定したと見られている1995年判決の該当箇所は
「傍論:obiter dictum」であり、先例として他の裁判所の判断を拘束する
「判決理由:ratio decidendi」ではない

1995年判決の傍論について百地論稿はこう述べています(★)。

「【外国人地方選挙権】賛成派は、最高裁判決は永住外国人への地方参政権付与を認めたなどと喧伝しているが、これは誤りである。

「永住外国人に対して、地方自治体レベルに限り選挙権を付与することは、憲法上禁止されておらず、国の立法政策に委ねられている」(部分的許容説)と述べた部分は、あくまでも「傍論」(オバイタ・ディクタ)【註:ここは単数形の obiter dictum が適切と思うけれど引用テキストに従った】つまり裁判官の単なる意見表明であって、まさに「暴論」である。・・・

ちなみに、最高裁が、外国人地方参政権について「憲法上禁止されていない」(部分的容認説)などと述べたのは、この「傍論」だけであって、その後の最高裁判決では、「本論」はもちろん、「傍論」でさえ、このような言及は一切なされていない」(ibid., pp.102-103)


百地論稿は正しい。実際、外国人地方選挙権に関しては2000年4月25日に最高裁判決が、また、それを明示的な争点とした大法廷判決「東京都管理職選考試験受験資格事件判決」が2005年1月26日に下されていますが、いずれも、1995年判決の傍論に一切触れることなく、「参政権=国民の固有の権利」という視座から外国人地方選挙権を明確に否定しています。

而して、先に紹介した「外国人の選挙権・被選挙権と公務就任権」(ジュリスト・2009年4月1日号所収)の中で、この問題の専門研究者である青柳幸一さんも「2005年大法廷判決において1995年判決への言及がなされているのは、滝井繁男裁判官反対意見だけである。多数意見も、補足意見も、1995年判決に全く言及していない。このことは、2005年大法廷判決が1995年判決の【傍論】をratio decidendiとは捉えていないことを暗黙のうちに示しているように思われる」と述べておられる。ならば、朝日新聞の2009年11月23日社説「外国人選挙権」の記述「地方選挙権についても最高裁は95年、立法措置をとることを憲法は禁じていないとの判断を示している」という主張は、憲法論的には完全な間違いと言うべきなのです。

★註:傍論と判決理由
傍論(obiter dictum)と判決理由(ratio decidendi)は英米法の用語。後者は法廷意見の中で今後他の裁判所の判断を拘束する法的判断、前者はそれが含まれる判決が下された当該の事案にのみ関係する裁判所の補足説明であり、後者とは違い将来に亘って他の裁判所の判断を拘束する先例とはなり得ない。もちろん、将来において実質的に諸々のobiter dicta が他の裁判所の法的判断に影響を与えることは十分にあり得ます。しかし、それは(例えば、民法学の権威であった我妻栄先生がそのテキスト『民法講義-債権各論』を改訂した途端に最高裁の判例が新我妻説に右に倣えして変更された等々)権威ある研究者の言説が実質的に司法に影響を及ぼすこととパラレルであって、先例の法的な拘束力の問題とは位相を異にする事態なのです。

注意すべきは、所謂「判例法主義」の英米法とは異なる我が国の法体系においては(実は英米でも先例の法的拘束力はかなり緩和されてきているのですが)、先例の拘束性、すなわち、あるratio decidendiの法的拘束力は(例えば、上告理由として刑事訴訟法405条2号が定める「最高裁判所の判例と相反する判断をしたこと」等の場合を除けば)必ずしもマストではないこと。そして、逆に、独仏といった大陸系の憲法裁判所とも異なり、最高裁判所も含め我が国の裁判所は、具体的な紛争事案を離れて一般的抽象的にある法規の「合憲性-違憲性」を判断するシステムではない「付随的違憲審査制度」を採用していることです(尚、我が国の司法システムが「付随的違憲審査制度」を採用していることに関しては、所謂「警察予備隊違憲訴訟最高裁大法廷判決」(1952年10月8日)が<先例>として確定しています)。




◎百地論稿の射程と限界
百地論稿は、通説の外国人地方選挙権容認説に対して、<現在>の通説を代表すると思われる芦部さんが「【外国人参政権】を認めることは国民主権の原理に反する」と述べておきながら「全く理由にならない理由をいくつかあげて」許容説を支持していると批判し(ibid., p.100)、許容説の論拠を3個列挙した上で各々論駁しています(ibid., pp.101-102;芦部信喜『憲法第四版』p.90ff.)。

百地論稿が抽出した許容説の論拠とは、①「国民-住民」という各々現行憲法15条1項と93条2項が記す選挙権行使主体の差異、②外国人地方選挙権の付与は世界の趨勢であること、③【現行憲法が掲げる】「「地方自治の本旨」に基づく地方公共団体のあり方を考えると、外国人の地方自治体選挙権はむしろ地方自治の理念に適合すること」です。これら①②についてはすでに本稿でも紹介したので、ここでは③に関する百地論稿の反論箇所を引用しておきます。蓋し、極めて中庸を得た反論。

「たとえ「地方自治の本旨」や「地方自治の理念」を考慮したとしても、国政あっての「地方自治」であり、「国政」と「地方政治」は切り離せないことから、外国人への地方参政権付与など認めるわけにはいかない。・・・

先の最高裁判決【1995年判決】もいうように、地方自治体は「我が国統治機構の不可欠の要素を成すもの」であり、地方自治も広い意味で国政の一部といえる。それどころか、地方分権化が進む中で、国政の中に占める地方の役割はますます重要になってきている。それゆえ、国政ではなく地方政治だけだから外国人の参政権付与は許されるなどということはまったく理由にならない」(ibid., pp.101-102)



ここまで憲法論に絞って百地論稿を紹介してきました。蓋し、畢竟、外国人に対する参政権付与は現行憲法に違反する。否、「外国人の参政権」という言葉自体が「燃えない火」や「無効なる憲法」、あるいは、「嘘を書かない朝日新聞」という言葉と同様形容矛盾である。この点に関しては百地論稿も通説も私見も一致している。そう総括できると思います。

ならば、百地論稿と通説と私見を分かつものは、「国民主権原理と抵触しない地方選挙権」なるものが想定できるかどうかの認識の違いでしょう。換言すれば、「国の政治のあり方や国の政治の方針を決める、国家の最終的な政治的意志を決定する権威と権限は国民にのみ帰属するべきだ」という国民主権の原理と抵触しない限度での地方政治への参加の仕組みとスタイルが可能か否かの判断の違いです。すなわち、「参政権と抵触しない地方選挙権」なるものをメルクマールにして、「そんな参政権ではない選挙権などは「燃えない火」や「無効な憲法」と同様形容矛盾だ」とする百地論稿と可能と考える通説、そして、「そんな参政権ではない選挙権の制度が設計可能というなら提示してみろ」と将棋で言えば<詰めろ>をかける私見「ヴェニスの商人説」が鼎立しているのだと思います。

しかし、もちろん、「日本国憲法は憲法としては無効ですが大日本帝国憲法の講和大権に基づく講和条約の範囲では有効です」等々、世の中には常人の想像を突き抜けた妄想を奏でる人もいないわけではないですから(だからこそ人生は面白いの、鴨)、憲法研究者の中には、三者鼎立の域外にあって、【「国民主権」原理の「国民」は「国籍」と論理必然の関係はないという立場から】「少なくとも、民主主義の観念と結びついた「国民主権」の原理の根底にあるのは、一国の政治のあり方はそれに関心をもたざるをえないすべての人の意思に基づいて決定されるべきだとする考え方である、・・・そうだとすれば、日本国民とまったく同じように、日本の政治のあり方に関心をもたざるをえない外国人に参政権を保障するとしても、「国民主権」の原理に当然のように反するということにはならないはずである。むしろ、そのような外国人にも参政権を保障してはじめて、本当の民主主義が成り立つというべきであろう」「前に述べたような「国民主権」のとらえ方を前提にいえば、少なくとも、日本以外に生活の本拠をもたない「定住外国人」に対しては、選挙権・被選挙権を保障することが、【現行憲法から】要請されていると考えるべきである」(浦部法穂『全改憲法学教室』p.57, p.507)と真顔でテキストに書いている人もおられる。

けれども、これに対して、<将来>の憲法学の通説を代表すると思われる長谷部恭男さんは、極めて深い自問自答的思考実験を披露した後、【「参政権」の意味と根拠について】「いずれの立場をとるにしても、定住外国人に選挙権を与えることが憲法によって要請されているとまで結論づけることは困難であろう」「スウェーデン、ノルウェー、デンマークなど、最近では、外国人に地方選挙への参加を認める例も見られるが、選挙権が生来の人権であるとの立場から、あらゆる外国人に国政選挙への参加を認める国は少なくとも現在は存在しない」(『憲法第3版』p.131)と、中庸を得た見解を述べておられます。閑話休題。


いずれにせよ、「外国人地方選挙権=基本的人権」という主張を巡る憲法訴訟ではなく、「外国人地方選挙権付与制度の違憲性」を争点とした憲法訴訟を想定した場合、「通説=芦部説」が掲げる、①憲法15条1項と93条2項が記す選挙権行使主体「国民-住民」の違い、②外国人地方選挙権の付与は世界の趨勢であること、③地方自治の本旨という3個の論拠のうち(百地論稿が的確に指摘している如く②は論外としても)①③はそれなりに有効であり、百地論稿の通説批判は必ずしも成功していないと私は考えます。

而して、以上の考察によって、外国人地方選挙権問題を解く鍵が「参政権ではない地方選挙権」の設計可能性に収束すること、すなわち、「参政権ではない地方選挙権」なるものの意味に収斂することが提示できたのではないかと思います。蓋し、「外国人に地方選挙権を与える制度が違憲か合憲か」は、現行憲法15条の「国民」や93条2項の「住民」という言葉を、または、「国民主権」や「地方自治の本旨」なる言葉を百年睨んでも結論が出ない類の問題ではないか。ならば、それを解決するためには、「参政権」の意味、よって、その前提となる「国民主権」「国民」「国家」、あるいは、「基本的人権」「民主主義」「憲法」というこの争点に対峙する者が無意識的にせよ前提にしているBig Wordsを<脱構築→非自然化>する他ないのではないでしょうか(逆に言えば、その<脱構築→非自然化>の作業を踏まえない限り、実は、浦部さんの妄想さえ論駁することは困難なのです)。

百地論稿を導きの糸として外国人地方選挙権に関する現行憲法の解釈を慌しく一瞥した今、我が国の憲法規範体系において外国人地方選挙権はどのように理解されるべきなのかの課題に沈潜すべく、まず、「国民」「国民主権」「国家」という事柄に対するより原理的な考察に移ろうと思います。


<続く>




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