大阪の件、何か前向きな解決策は無いのだろうか。
橋本市長は、また、稚拙で過激な俺様政策を放り投げたと新聞に出てた。
しかし、確かに、このままではいけないのは間違いない。教育基本法で体罰は明確に禁止されている
にも関わらず、ずっと毎年、数百人の先生が処分を受けているとのこと。
先生になるには、教員免許が必要で、当然、高い水準の教育を受けている。
しかし、その高いレベルの常識感覚を持っているであろう先生をして、根本となる法律を順守できない
こと自体が本質ではないだろうか。
学校の先生は、忙しい。授業のほかにも事務処理や、PTA対応など、激務である。
更に、クラブ顧問ともなると、帰宅が午前様になることも珍しく無いと複数の知人の教師に聞いた。
これは、いわゆる強豪校の話ではない。この状態で、なお且つ、常に勝つことを要求されるプレッシャー
が加わるとすれば、そこに常軌を逸した行動が出たとしても、なんら不思議ではない。
このままでは、ダメだ。
いくら情状酌量の余地があったとしても、教育現場で子供が犠牲になるなど言語道断である。
橋本さんは、その高校の問題を解決する策を提示した。しかし、それでは、また別の高校で
同じ問題が起こるわけである。
私は、高校の運動部を全て廃部にすることを提案したい。
先生は、授業に専念する。それが本来の教育のあるべき姿ではないだろうか。
過労状態で、さらに部活の指導までは、無理だという判断である。
しかし、それでは、運動部の生徒が納得すまい。
そこで、全ての高校スポーツは、学校から切り離し、地域チームとして、再編する。
学校は、勉強する場所、スポーツは、学外で。指導者も先生ではなく、各地の専門スタッフがやる。
この、指導者の専門性というのが、重要である。クラブ活動の現場では、未だに、練習中に水を飲ませない
指導者がいるという。これが象徴するのは、スポーツに対する無知である。水分補給の重要性、体罰が
生徒の精神に及ぼす影響、このような、スポーツに関する知識は、もちろん教員免許の範囲外である。
すなわち、そもそもスポーツ従事者でない先生なら、そんな知識は無くて当然である。
また、生徒への暴力が常態化した要因は、それが学校という閉鎖社会の中だからである。それを地域
という、開かれた場所に解放することで、風通しの良い環境を確保できるであろう。
何度でも言う。このままでは、ダメだ。
スポーツは、楽しむためにある。
そのために、身体を鍛え、仲間とともに考え、切磋琢磨することに価値がある。
勝ちたいという意思は、戦う子供たちのものであるからこそ、尊いのである。
そして、勝ってうれしい気持ちよりも、負けた悔しさのほうが、より子供たちを人間的に成長させるであろう。
関わる大人たち自身が、勝ち負けにこだわってはいけない。「勝負は時の運」と教えるべきだと思う。
スポーツを子供たちに返してあげようではありませんか。
これが、今、私たち大人が考えなくてはならないところではないかと思うのです。
雨の日のシネコンは、午前中から混雑。
本の嫌いな小学生だったが、図書室の「ああ無情」は何度も読んだ。
映画で表現できること、ミュージカルで表現できること、この二つが、融合しあって、
現実と幻想が、真実と虚構が、そういった相反する要素が、お互いに刺激し合って、なんとも
今までに見たことのないエンタテイメントであると感じた。
誰もが孤独。誰かが誰かを愛し、誰かが誰かを憎んでいる。誰かが誰かに救いを求め、
誰かが誰かを救う。誰しも確固たる自己の存在を信じられず、一人と一人の関係性だけがある。
孤独である自分と、関わるべき誰かがいる。
誰もが弱く、そして強くなろうとする。闇の底に落ちて、しかし、わずかな光に導かれる。
不幸と幸せは、二つの概念ではなく、常に人の心に同じ強さと大きさで共存しているのではなかろうか。
ときにどちらかに少し傾くだけなのだ。
ジャン・バルジャンを許した司教は、小学生のころから、ずっと私の傍らに居たこと、思い出した。
キーコーヒーのショップで。
「幻の」とか「伝説の」とかいう冠詞がつく。ずっと気になっていたが、どうでもよかった。
しかし、コーヒーの旅へ出発した今、そう、今がその謎に正面から立ち向かう時なのだと知る。
100gで1008円と高価である。新春セールで、20%増量中、ラッキー。
高いと言っても、店で飲むことを思えば、ずいぶんと安い。それに、自分で淹れ方の工夫をする余地がある。
そうすることで、このコーヒーの旅は、より味わい深ものになっていくのであろう。
インドネシアのトラジャ族という部族に由来するらしい。
トラジャの栽培するアラビカ種コーヒー豆は、品質が高く、オランダ王室御用達であったが、インドネシア独立後、
オランダ人が去るとともに衰退の一途をたどり、農園は荒れ果てたという。
これを日本のキーコーヒーが、1970年代に復活させたのだそうだ。
そういえば、このあいだ買った「マンデリン」もインドネシア産だったなあ。
コーヒー産地といえば、キリマンジャロとか、ブルーマウンテンとかいう品名の影響から高地のイメージだった。
インドネシアがコーヒーカントリーというのは意外だった。
さあ、固定観念を捨てて、コーヒーの旅を続けよう。
そう、これは、”新しい価値” という名の宝探しの旅なのだ。
おおみそか、実家で姉の料理を。
冷蔵庫の残り物を中心に、スパゲティは、台湾から買ってきたカラスミを刻んで。
こういうの、ひとりで、あっと言う間に作ってしまいました。
豆腐は、一丁をサラダにして、残り物のしらす山椒ふりかけをパパッと。
もう一丁は薄く切ってカナッぺ、赤いトッピングは、これも台湾から持ってきたマンゴージャム。
正しい庶民の贅沢でした。