今日は粛粛と日記書いています。
あの『東日本大震災』から一年が経ちました。
「もう一年」と言ったらいいのか、「まだ一年」と言ったらいいのか判りません。
かなりの被害が出たこちらでも、こんな気持ちですから、東北3県の皆さんはもっと整理が付かない気持ではないでしょうか。
昨年の3月11日。こちらでは時計の針は14時51分を差しておりました。
ドーンという感覚に続き、激しい横揺れ。でもこちらでは震度4くらいの地震は日常茶飯事だったので「また来たか」くらいの感覚でした。
が―――
「長い」・・・大体数十秒で終わるはずが、1分近くたっても全然止まらない。流石にお客さん方も騒ぎ始める。
そして「だんだん強くなってくる揺れ」。しかも一度おさまったと思われたのに、数十秒も経たないうちに2回、3回とどんどん揺れが襲ってくる。こんな形の揺れは、今まで体験したことない。
「ドア開けて!お客様はとりあえず何でもいいから頭を覆って!!」の所長の声にようやく我に返って、慌てて自動ドアの電源を切って全開にする。
一体どうなっているんだかさっぱりわからない(・・;) 情報収集のため、慌てて隣の課にあったテレビを見に行く。
映った映像は「田んぼの中を、大きな車を軽々と巻き込んで、山の方へ押し寄せていく津波の映像」
「これって日本?」・・・お客様のつぶやきが忘れられない。
やがて<東北で震度7強の大地震>の報道がテレビの中からあふれ出す。
お客様に情報を伝え、安全誘導するが、お客様方がすぐ戻ってきた。
「電車が全く動いてない」―――『帰宅難民』・・・ここで初めて使われた言葉。その現実がリアルに伝わってくる。
余震が続く中、事務室に戻れば、全てが滅茶苦茶。PCだけは必死に守っていた先輩の姿が目に浮かぶ。
後片付けをしつつ、終業。とりあえずかもしたは歩いて帰宅できるので帰宅すれば、家の中は散乱していて、両親が必死に後片付け中。そして2階のトイレが貯水がすべて揺れで漏れてビショビショな状態に。
ともかく避難勧告が出たら逃げなければならないので、荷物をまとめておく。テレビの中継では見たこともない光景に頭で理解できない。
絶え間ない余震と緊急地震速報のあの嫌なサイレンが鳴り響く中、眠ることもできずいた12日午前3時、職場より「緊急出動要請」がかかるも、車で以降にも道路がマヒ。ひたすら歩いて職場に戻る。
被災し家屋損壊した市民が集まってくる。とにかく乾パンと水、そして毛布を配る。東北では雪が舞っているがこちらは放射冷却で冷え込み厳しい。
日が昇ってからもどんどん市民は集まってくる。対応策に追われるも、電話がなかなかつながらず、その場判断でとりあえず対処。
次の日も同じことのくりかえし・・・と思ったら、最悪の情報―――『福島第一原発爆発』 「放射能とか、大丈夫なのかな?」「ここは離れているから大丈夫じゃない?」・・・やがてこの影響が最も受けている地域になろうとは、思いもよらなかったです。
やがて福島から放射能を避けて避難してきた方々を受け入れる、との指令が来る。
14日。福島から次々とバスが到着。「お世話を掛けます。」そう言いながら、深々と頭を下げるご老人の姿が今でも忘れられない。
支援物資が集まってくるが、それをどうやって分配するか。現在受け入れている人数はどんどん増えているため、早急に配布しようにも足りなくなったら・・・安易に配布できず。
そんな葛藤の中、被災者さん方が「お米を買いにいったら、お米屋さんが『これも食べて』と野菜サラダをくれました。」「お魚屋さんが魚を焼いてくれただけでなく、お刺身まで分けてくださいました。」との声が。「皆さん、こんなに良くしてくださって・・・」と涙ぐまれる。その優しさと温かさが、一時期だけでなく、ずっと続いて欲しいと願わずにいられない。
その避難所生活の中、新しい命が2人誕生。苦しい中の一筋の明かり。
やがて飛び込んできたニュース「第一原発の放射能で、○○浄水場の中のセシウム&ヨウ素濃度が高値」 風の流れと給水する川の河口近くで放射能が溜まる地域になってしまった・・・。急遽水の配布。だが市民全員分の確保ができず乳児だけ。数人苦情が出たが、皆さん割と落ち着いている。
やがて『雨が降る=空気中の放射性物質が川に落ちる』為、雨が降り出しそうなときは、とにかく今のうちに水を汲んでためておくこと呼びかける。
夏になると徹底的に電力不足。そのためサマータイム導入と「冷房温度設定29度・時間は6時間だけ」 筆頭の扇子大活躍。 頑張ったため、昨年より50%近く節電できた。でも「15%切れなかったら100万円の罰金」って言われたら、とことんやるしかない。何とか熱中症にはかからず。一昨年よりの夏に比べ、やや涼しかったことに感謝。
秋になって作物の収穫盛んに。とにかく「放射能汚染」の心配が募り、「どうしたら内部被ばくが防げるか。」「防衛策は」「除染作業を」等、課題山積。
被災者の疲労がピークになってきているためか、メンタル面の相談相次ぐ。「あなた達にはわからないわよ!家族と住むところを失くした人の気持ちは!」―――訴えにただ耳を傾けるしかできない。
やがて、東北に被災地救援で行った先輩方が帰ってくる。現状報告に、あまりの被害の大きさに茫然。
・・・きっと一昨年の自分に「去年の事思い出してみて」といっても、多分何も覚えていないと思う。だけど今年の今の自分に「思い出して」と言えば、今も簡単ですがこうして鮮明に思い出すことができます。それだけこの震災の招いた出来事は強烈だったんだ、と今更ですがしみじみと感じずにいられません。
今でも時折緊急地震速報のあの嫌なサイレンが鳴り響きます。
放射能のホットスポットとして、今でも尚除染やそれ以外の課題も引き続いています。
まだまだ支援と努力は必要です。でも頑張ってまた一年、被災者の皆さんに報われるような仕事を頑張りたいです。
最後に。
被災者で一時的にここに身を寄せた家族の方から、感謝状が届きました。
子供さんが持ってきたのでしょう。わら半紙に鉛筆の手書きで
『○し(市)のみなさん、ありがとうございました。ぼくたちもがんばっていきていきます。』
どんなものよりも立派で誇りに思う『感謝状』です。
あの『東日本大震災』から一年が経ちました。
「もう一年」と言ったらいいのか、「まだ一年」と言ったらいいのか判りません。
かなりの被害が出たこちらでも、こんな気持ちですから、東北3県の皆さんはもっと整理が付かない気持ではないでしょうか。
昨年の3月11日。こちらでは時計の針は14時51分を差しておりました。
ドーンという感覚に続き、激しい横揺れ。でもこちらでは震度4くらいの地震は日常茶飯事だったので「また来たか」くらいの感覚でした。
が―――
「長い」・・・大体数十秒で終わるはずが、1分近くたっても全然止まらない。流石にお客さん方も騒ぎ始める。
そして「だんだん強くなってくる揺れ」。しかも一度おさまったと思われたのに、数十秒も経たないうちに2回、3回とどんどん揺れが襲ってくる。こんな形の揺れは、今まで体験したことない。
「ドア開けて!お客様はとりあえず何でもいいから頭を覆って!!」の所長の声にようやく我に返って、慌てて自動ドアの電源を切って全開にする。
一体どうなっているんだかさっぱりわからない(・・;) 情報収集のため、慌てて隣の課にあったテレビを見に行く。
映った映像は「田んぼの中を、大きな車を軽々と巻き込んで、山の方へ押し寄せていく津波の映像」
「これって日本?」・・・お客様のつぶやきが忘れられない。
やがて<東北で震度7強の大地震>の報道がテレビの中からあふれ出す。
お客様に情報を伝え、安全誘導するが、お客様方がすぐ戻ってきた。
「電車が全く動いてない」―――『帰宅難民』・・・ここで初めて使われた言葉。その現実がリアルに伝わってくる。
余震が続く中、事務室に戻れば、全てが滅茶苦茶。PCだけは必死に守っていた先輩の姿が目に浮かぶ。
後片付けをしつつ、終業。とりあえずかもしたは歩いて帰宅できるので帰宅すれば、家の中は散乱していて、両親が必死に後片付け中。そして2階のトイレが貯水がすべて揺れで漏れてビショビショな状態に。
ともかく避難勧告が出たら逃げなければならないので、荷物をまとめておく。テレビの中継では見たこともない光景に頭で理解できない。
絶え間ない余震と緊急地震速報のあの嫌なサイレンが鳴り響く中、眠ることもできずいた12日午前3時、職場より「緊急出動要請」がかかるも、車で以降にも道路がマヒ。ひたすら歩いて職場に戻る。
被災し家屋損壊した市民が集まってくる。とにかく乾パンと水、そして毛布を配る。東北では雪が舞っているがこちらは放射冷却で冷え込み厳しい。
日が昇ってからもどんどん市民は集まってくる。対応策に追われるも、電話がなかなかつながらず、その場判断でとりあえず対処。
次の日も同じことのくりかえし・・・と思ったら、最悪の情報―――『福島第一原発爆発』 「放射能とか、大丈夫なのかな?」「ここは離れているから大丈夫じゃない?」・・・やがてこの影響が最も受けている地域になろうとは、思いもよらなかったです。
やがて福島から放射能を避けて避難してきた方々を受け入れる、との指令が来る。
14日。福島から次々とバスが到着。「お世話を掛けます。」そう言いながら、深々と頭を下げるご老人の姿が今でも忘れられない。
支援物資が集まってくるが、それをどうやって分配するか。現在受け入れている人数はどんどん増えているため、早急に配布しようにも足りなくなったら・・・安易に配布できず。
そんな葛藤の中、被災者さん方が「お米を買いにいったら、お米屋さんが『これも食べて』と野菜サラダをくれました。」「お魚屋さんが魚を焼いてくれただけでなく、お刺身まで分けてくださいました。」との声が。「皆さん、こんなに良くしてくださって・・・」と涙ぐまれる。その優しさと温かさが、一時期だけでなく、ずっと続いて欲しいと願わずにいられない。
その避難所生活の中、新しい命が2人誕生。苦しい中の一筋の明かり。
やがて飛び込んできたニュース「第一原発の放射能で、○○浄水場の中のセシウム&ヨウ素濃度が高値」 風の流れと給水する川の河口近くで放射能が溜まる地域になってしまった・・・。急遽水の配布。だが市民全員分の確保ができず乳児だけ。数人苦情が出たが、皆さん割と落ち着いている。
やがて『雨が降る=空気中の放射性物質が川に落ちる』為、雨が降り出しそうなときは、とにかく今のうちに水を汲んでためておくこと呼びかける。
夏になると徹底的に電力不足。そのためサマータイム導入と「冷房温度設定29度・時間は6時間だけ」 筆頭の扇子大活躍。 頑張ったため、昨年より50%近く節電できた。でも「15%切れなかったら100万円の罰金」って言われたら、とことんやるしかない。何とか熱中症にはかからず。一昨年よりの夏に比べ、やや涼しかったことに感謝。
秋になって作物の収穫盛んに。とにかく「放射能汚染」の心配が募り、「どうしたら内部被ばくが防げるか。」「防衛策は」「除染作業を」等、課題山積。
被災者の疲労がピークになってきているためか、メンタル面の相談相次ぐ。「あなた達にはわからないわよ!家族と住むところを失くした人の気持ちは!」―――訴えにただ耳を傾けるしかできない。
やがて、東北に被災地救援で行った先輩方が帰ってくる。現状報告に、あまりの被害の大きさに茫然。
・・・きっと一昨年の自分に「去年の事思い出してみて」といっても、多分何も覚えていないと思う。だけど今年の今の自分に「思い出して」と言えば、今も簡単ですがこうして鮮明に思い出すことができます。それだけこの震災の招いた出来事は強烈だったんだ、と今更ですがしみじみと感じずにいられません。
今でも時折緊急地震速報のあの嫌なサイレンが鳴り響きます。
放射能のホットスポットとして、今でも尚除染やそれ以外の課題も引き続いています。
まだまだ支援と努力は必要です。でも頑張ってまた一年、被災者の皆さんに報われるような仕事を頑張りたいです。
最後に。
被災者で一時的にここに身を寄せた家族の方から、感謝状が届きました。
子供さんが持ってきたのでしょう。わら半紙に鉛筆の手書きで
『○し(市)のみなさん、ありがとうございました。ぼくたちもがんばっていきていきます。』
どんなものよりも立派で誇りに思う『感謝状』です。