フレッド・リボウ。
彼は、1932年にルーマニアで生まれた。ユダヤ人でありながら、ナチスドイツ占領下の時代を生き延びたものの、ソビエト軍のルーマニア侵攻により一家は離散。難民としてチェコからオランダへ逃げ、無国籍者としてアイルランド政府に登録される。20代の彼はヨーロッパ各地を放浪するが、一年発起し、ニューヨークへ渡り、ファッション・デザイナーとして身を立てる。
趣味のテニスのためにとランニングを始め、'69年には、テニスよりもランニングの方が面白いと感じるようになった。翌年、初めてフルマラソンを走る。
1972年、ニューヨークランニングクラブの会長に就任する。それからの彼の人生は、'70年にセントラルパークを4周するコースから産声をあげた、ニューヨークシティ・マラソン(第1回大会の完走者は55人。彼は45位。)を世界有数の都市マラソンに成長させるために、費やされる。
レース・ディレクターとして、リッチモンド区のスタットン・ブリッジからスタートし、5つの区を通るコース、ブルックリン、マンハッタン、ハーレム、ファースト・アベニューと、ニューヨークを訪れたことのない人でも耳になじみの地名を過ぎて、セントラルパークにゴールするコースを作りだし、一人でも多くのランナーが参加できるようにと大会の規模を拡大していき、スポンサーと交渉をし、ランナーの安全を確保するためなら、ハーレムを支配するマフィアのボスとも直談判し、11月の第一日曜日のニューヨークに、世界のランナーの理想郷を作り上げたのだ。
フランク・ショーター、ビル・ロジャース、アルベルト・サラザールらがトップで駆け抜けるその後方では、松葉杖をつきながら懸命に身体を前に進める少年がいる。そして、250万人もの沿道の人々は、両者に同じくらいの声援を送る。
世界中から肌の色、国籍、宗派を越えて42.195kmという距離を走るために3万人もの人々が集まる一大イベント。それは、世界の主要都市に広がっていった。'79年にニューヨークシティ・マラソンを目の当たりにした英国人、クリス・ブラッシャーは、自国に同様のランニング・イヴェントを作り上げた。それがロンドン・マラソンである。
リボウは'80年代に、世界のマラソンを大きく変えた。それまで、アマチュア・スポーツの代表格だったマラソンに、初めて賞金を導入したのだった。初めて、公式に賞金を支給したのは、ロス五輪の年、'84年からである。
マラソンが「プロ・スポーツ」となったきっかけを作ったのも彼だったのだ。
'93年に来日した際、インタビューで賞金レースを始めたきっかけをこう語った。
「私は、マラソン選手ほど大変なトレーニングをやっているスポーツマンはいないと思う。だから私は、マラソン選手にできるだけ多くのお金をあげたいと思うのです。」
全てはランナーのために。そんな姿勢を貫く彼は多くのランナーたちに愛された。世界有数の犯罪都市と呼ばれたニューヨーク。その街が年に1度のマラソンの日は、犯罪件数が1年間で最も少なくなると言われた。
「'78年に私は競技レースから引退しようと思った。だが、ニューヨークシティ・マラソンに優勝したのがきっかけで、さらに10年走りつづけることになった。」
そう語ったグレテ・ワイツは、ニューヨークに9回優勝している。
'89年に脳がんに罹り、余命半年と宣告されたリボウは、手術を受けて一命をとりとめ、'92年にそのワイツの伴走で5時間32分35秒でゴールした。実は、彼にとって、このコースを完走するのはこの時が初めてだったのだという。
第25回の記念大会を前にした'94年の10月9日、リボウは'62歳で世を去った。ランナーが走る姿を見るのが好きだった彼の銅像が、セントラル・パークのゴール地点の近くに建てられ、毎年、ランナーたちのゴールを見つめている。
世界の主要都市では、毎年、大規模なマラソン大会が行われている。ロンドン、ベルリン、パリ、シカゴ、ロッテルダム・・・etc.
アジアにおいても、ソウル、北京に次いで、ついに東京でも、明日、3万人のランナーが新宿の東京都庁の前をスタートする。
期待も大きいが不安も多い。リボウが長い時間かけて築いたものをいきなり、東京に移植しようとする試みに、無理が生じないか、心配なのも正直なところだ。ランナーたちの喜びを、沿道の人々がどのくらい分かち合えるのだろうか?
何と言っても、東京には、フレッド・リボウがいないのだ!
「私が今、夢見ているものは、人々から敬意をもって迎えられるマラソン大会を持つことです。それは最大のマラソン大会ではなく、最良のマラソン大会を、人数ではなく、質のマラソンを目指して、あらゆる問題を克服していく、そのことが一番重要だと思うのです。」
フレッド・リボウ('93年10月の来日時のコメント)
明日、マラソンスタート時刻の午前9時、東京の天候は曇り。気温は6℃との予報が出ている。
※参考文献
月刊「ランナーズ」'93年1月号
「ニューヨークシティマラソンを創るフレッド・ルボウの東京日記」 高部雨市
「トップランナー650の名言」マーク・ウィル・ウェーバー編 矢羽野薫訳 三田出版会
彼は、1932年にルーマニアで生まれた。ユダヤ人でありながら、ナチスドイツ占領下の時代を生き延びたものの、ソビエト軍のルーマニア侵攻により一家は離散。難民としてチェコからオランダへ逃げ、無国籍者としてアイルランド政府に登録される。20代の彼はヨーロッパ各地を放浪するが、一年発起し、ニューヨークへ渡り、ファッション・デザイナーとして身を立てる。
趣味のテニスのためにとランニングを始め、'69年には、テニスよりもランニングの方が面白いと感じるようになった。翌年、初めてフルマラソンを走る。
1972年、ニューヨークランニングクラブの会長に就任する。それからの彼の人生は、'70年にセントラルパークを4周するコースから産声をあげた、ニューヨークシティ・マラソン(第1回大会の完走者は55人。彼は45位。)を世界有数の都市マラソンに成長させるために、費やされる。
レース・ディレクターとして、リッチモンド区のスタットン・ブリッジからスタートし、5つの区を通るコース、ブルックリン、マンハッタン、ハーレム、ファースト・アベニューと、ニューヨークを訪れたことのない人でも耳になじみの地名を過ぎて、セントラルパークにゴールするコースを作りだし、一人でも多くのランナーが参加できるようにと大会の規模を拡大していき、スポンサーと交渉をし、ランナーの安全を確保するためなら、ハーレムを支配するマフィアのボスとも直談判し、11月の第一日曜日のニューヨークに、世界のランナーの理想郷を作り上げたのだ。
フランク・ショーター、ビル・ロジャース、アルベルト・サラザールらがトップで駆け抜けるその後方では、松葉杖をつきながら懸命に身体を前に進める少年がいる。そして、250万人もの沿道の人々は、両者に同じくらいの声援を送る。
世界中から肌の色、国籍、宗派を越えて42.195kmという距離を走るために3万人もの人々が集まる一大イベント。それは、世界の主要都市に広がっていった。'79年にニューヨークシティ・マラソンを目の当たりにした英国人、クリス・ブラッシャーは、自国に同様のランニング・イヴェントを作り上げた。それがロンドン・マラソンである。
リボウは'80年代に、世界のマラソンを大きく変えた。それまで、アマチュア・スポーツの代表格だったマラソンに、初めて賞金を導入したのだった。初めて、公式に賞金を支給したのは、ロス五輪の年、'84年からである。
マラソンが「プロ・スポーツ」となったきっかけを作ったのも彼だったのだ。
'93年に来日した際、インタビューで賞金レースを始めたきっかけをこう語った。
「私は、マラソン選手ほど大変なトレーニングをやっているスポーツマンはいないと思う。だから私は、マラソン選手にできるだけ多くのお金をあげたいと思うのです。」
全てはランナーのために。そんな姿勢を貫く彼は多くのランナーたちに愛された。世界有数の犯罪都市と呼ばれたニューヨーク。その街が年に1度のマラソンの日は、犯罪件数が1年間で最も少なくなると言われた。
「'78年に私は競技レースから引退しようと思った。だが、ニューヨークシティ・マラソンに優勝したのがきっかけで、さらに10年走りつづけることになった。」
そう語ったグレテ・ワイツは、ニューヨークに9回優勝している。
'89年に脳がんに罹り、余命半年と宣告されたリボウは、手術を受けて一命をとりとめ、'92年にそのワイツの伴走で5時間32分35秒でゴールした。実は、彼にとって、このコースを完走するのはこの時が初めてだったのだという。
第25回の記念大会を前にした'94年の10月9日、リボウは'62歳で世を去った。ランナーが走る姿を見るのが好きだった彼の銅像が、セントラル・パークのゴール地点の近くに建てられ、毎年、ランナーたちのゴールを見つめている。
世界の主要都市では、毎年、大規模なマラソン大会が行われている。ロンドン、ベルリン、パリ、シカゴ、ロッテルダム・・・etc.
アジアにおいても、ソウル、北京に次いで、ついに東京でも、明日、3万人のランナーが新宿の東京都庁の前をスタートする。
期待も大きいが不安も多い。リボウが長い時間かけて築いたものをいきなり、東京に移植しようとする試みに、無理が生じないか、心配なのも正直なところだ。ランナーたちの喜びを、沿道の人々がどのくらい分かち合えるのだろうか?
何と言っても、東京には、フレッド・リボウがいないのだ!
「私が今、夢見ているものは、人々から敬意をもって迎えられるマラソン大会を持つことです。それは最大のマラソン大会ではなく、最良のマラソン大会を、人数ではなく、質のマラソンを目指して、あらゆる問題を克服していく、そのことが一番重要だと思うのです。」
フレッド・リボウ('93年10月の来日時のコメント)
明日、マラソンスタート時刻の午前9時、東京の天候は曇り。気温は6℃との予報が出ている。
※参考文献
月刊「ランナーズ」'93年1月号
「ニューヨークシティマラソンを創るフレッド・ルボウの東京日記」 高部雨市
「トップランナー650の名言」マーク・ウィル・ウェーバー編 矢羽野薫訳 三田出版会
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