KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

マラソンを愛する皆様、こんにちは。
2022年は積極的に更新していく心算です。

2008年の終わりに

2008年12月31日 | 管理人より
生きてることが辛いなら
いっそ小さく死ねばいい

テレビの中で、かつての「フォークの女王」の息子が歌っている。僕が中学生の頃、身重の彼女が、スタジオで歌っている姿を音楽雑誌で見たことがあった。あの時、彼女の身体の中になった命がもう、こんな大きくなっているのかと思う。

今年1年、実にさまざまな事があった。だいたい、僕の人生は五輪イヤーに大きな変化が訪れる。大学に入ったのはモスクワ五輪の年、鬱病になりかけて苦しんでいたのはソウル五輪の年、離婚したのはバルセロナ五輪の年。この年、僕は走り始めた。生まれて初めての海外旅行(バンクーバー・マラソン出場)がアトランタ五輪の年、パソコンを買ったのはシドニー五輪の年、初めて、母校出身の五輪代表選手を応援したのはアテネ五輪。

そして、北京五輪イヤーの今年、僕の人生は今まで未経験の事をいくつも経験した。

今まで、ここで自分のプライベートを書くことを控えてきたが、ここである程度明らかにします。

昨年の年末、長い間勤務していた会社が倒産した。寝耳に水だったが、今になってみれば予兆はあった。退職者が出ても補充の人員が雇われない。その割りに仕事の量は増えない。倉庫に入荷される商品の数が日毎に減っていく・・・。

年が明けて、ハローワーク通いが始まった。その合間に、昨年の秋に脳梗塞で倒れた父親の見舞い、そして、ランニング。2月の愛媛マラソンのスタートラインに立った時、僕の所属はまさに「チーム・ハローワーク」だった。(実際には、加入しているランニングクラブの一員として走った。)

終盤、ガス欠に苦しみ、最後の力を振り絞り、ゴール関門4時間の一秒前にゴールテープを切り、新聞とテレビの取材を受けてしまった。(実際には同タイムでゴールした人がもう1人いたのだが)。妻子も仕事もない自分は、せめてマラソン・ランナーではいたかった。ここで完走しないと、どこにも就職できないのではないかと思って、ゴールを目指した結果だった。愛媛マラソンの直後に、求人誌で仕事を見つけ、面接に行った。

再就職できたものの、一日四時間勤務のパートタイマーである。午後から出勤なので午前中は時間がある。母親を父親の入院する病院にクルマで連れて行くことができるのは良かったが、ランニングには集中できなかった。以前の仕事も安月給(年収は300万円以下)だったが、それが半分以下に減ってしまった。将来のことを考えると不安だらけだし、だいたいトレーニングをしても先が見えない。少なくとも、県外に出かける費用がない。時間があっても、なかなか走る気持ちになりにくかった。

5月、父親の容態が悪化した。予断を許さぬ状態となり、25日の深夜、息を引き取った。人の命が絶える瞬間に初めて立ち会った。その数日前に、8年近く愛用したノートパソコンが故障し、修繕不能と告げられていた矢先だった。

心の支えは北京五輪だった。母校の後輩に、その夫の友人と元チームメイトがマラソンの代表になっていた。これまでで最も身近で、感情移入しやすい代表メンバーだった。その五輪というよりも主催国に対してこれまでになく、ネガティブな報道が繰り返され、ボイコットという言葉までがちらついた。五輪を楽しみにすること自体が、かの国の体制の支持者であるといわんばかりの「空気」が形成された。僕は、自分が長年応援してきたランナーたちが「最高の舞台」を走るのを、喜びたいだけだったのに。

五輪の結果は、ご存知の通り。

「ハート・オブ・ゴールド」。
元五輪メダリストが主催するNPO法人の名前、というよりも、僕にとっては30年来ファンだった、ロック・シンガーでギタリストの二ール・ヤングの全米№1ヒット曲のタイトルである。

「ハート・オブ・ゴールドを探し続けて、僕は年老いていく。」

そう歌った彼が初めて来日した際、記者の1人がたずねた。

「ハート・オブ・ゴールドは見つかりましたか?」

彼は答えた。

「大事なことはハート・オブ・ゴールドではなくて、それを探し続けることだよ。」

メダルどころか、ゴールにも届かなかった、もしくはスタートラインにも立てなかったランナーたちを、僕は責めたくない。先にも書いたように、メダルを取ることよりも、メダルを目指して過ごした時間が、彼らにとって、これからの人生の貴重な糧となることを祈りたい。大事なことは、メダルを目指して努力を重ねる日々を過ごしたことなのだから。金メダリストの顔も名前も時間が経てば忘れてしまう。アテネの金メダルの数なんて、もう忘れた。だけど、マラソンの代表選手の名前は僕はずっと忘れない。母校の教室で、テレビの画面に向かって、土佐礼子の名前を叫んだ事も忘れない。

土佐礼子の世界選手権代表入りとほぼ同時期に立ち上がったこのサイト。北京五輪の終わりとともに、閉じてしまおうかと思ったこともあった。もう、彼女と同じ気持ちで応援できるランナーは出てこないと思ったからだ。そんな矢先、彼女の夫、村井啓一さんがコーチ、名城大のコーチだった大西崇仁氏が監督という体制で松山大学女子駅伝部が創立した。大西監督の故郷である、北海道から何百マイル離れた愛媛へやってきた國仙幸子は、それまで四国の女子大学生のレベルを越えていた。前年の大学選抜女子駅伝の中四国学連チームの一員として全国デビュー、横浜国際女子駅伝の中四国選抜チームのメンバーにも選ばれるなど、大舞台を経験しながら力を伸ばしてきた。

土佐も帰郷する毎に、後輩たちにアドバイスを与えていたようだ。「北国の少女」が瀬戸内の暖かい風を受けて、より高いステージへと上っていく様を見られた。そして、10月26日、杜の都仙台にて、松山大学女子駅伝部は、四国の大学で初めて全日本大学女子駅伝に出場し、繰上げもなく全員が襷をつないだ。

およそ、陸上競技の長距離種目においては「後進地域」かもしれない愛媛(箱根駅伝を走る200人のランナーに、毎年愛媛出身者は1~2人がいいところ。)からでも、世界選手権のメダリストは生まれ出た。そして、彼女の志が母校の後輩に受け継がれるのを見ることができた。

いつか、また、母校の校舎で、母校出身の日本代表ランナーを応援できる日が来るかもしれない。その日までは、このサイトを閉じるわけにはいかないと思った。

土佐も故郷に帰ることを決めた。故郷で走り続けるのだという。同じレースを走る機会もあるだろう。地元のロードを走る彼女と出会うこともあるだろう。その時のために、走る事を止めるわけにはいかないと思った。来年2月、丸亀ハーフと愛媛マラソンへの申し込みを済ませた。

お金は無いけど幸せだ、と言えば綺麗事になる。ただ、僕は恵まれている、と思うことはできる。少なくとも生活の厳しさを一時忘れることの出来る楽しみは残されている。

2009年は、2008年よりはいい年になると思う。


だんだん良くなっている。
そう、昨日よりはずっといい。
(ブルース・スプリングスティーン「ベター・デイズ」)



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