kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

ジャコメッティに行き着くまで

2022年11月11日 | 日記
前に、神戸市立博物館へ行ったことを書いたが
それはジャコメッティの作品を見るためだった。
美術展での人気は、下の写真にあるゴッホ・クレー・ルソーで、
ジャコメッティは目玉ではなかった。
それでも私が彼に惹かれるようになった経緯は、
長年のゆかりがあったので、簡単に記しておきます。


小学生の頃。
実家には祖母がいた。祖母は9人きょうだいの末っ子とか。
実子はなく、長生きしたので、近い身内は姪が1人になっていた。
生まれた家にも甥はいなくて、甥の子が跡を継いでいた。
ある時、法事に呼ばれ、私が付き添いで行った。
みんなが、「おばあさん、おばあさん」丁重にもてなしてくれた。
仏さんには一番近い身内だったのだろう。
一晩泊まり、私は風呂やトイレの手伝いをした。

隣村の家まで2キロ余りの距離を、厚生車(人力車)で行った。
戦時中のガソリン不足で乗用車が使えず、厚生車が復活していたそうだ。
(『新今治市誌』の写真から)


その家は矢内原という名字。東大総長だったタダオさんの話をしていた。
当時の子どもは、大人が話している時は黙っているだけ。
「何それ?」とか「なんで?」とかの口は挟まない。
忠雄さんの戦争中の苦労話も聞き、立派な人だと理解した。
矢内原家のお墓はごく近くで、忠雄さんの家のお墓と同じ墓地だった。

それから10年ほど経って、私は大学生になった。
図書館に入ると、正面に真新しい岩波の『矢内原忠雄全集』がずら~っと並んでいた。
開いてみたが、とても読めなかった。

そして矢内原忠雄の長男の伊作が、パリに留学中、ジャコメッティと親交を深め、
彫刻や絵のモデルになっていたと知ったのは、いつだったか?
シュールレアリスムとか哲学とか美術とか。
あこがれはするものの、理解はできないままだったけど
ジャコメッティ作品は、『伊作の肖像』も含めて見ることができた。

矢内原忠雄は、1961年に68歳で、
ジャコメッティは、1964年に64歳で
矢内原伊作は、1989年に71歳で亡くなっている。
喜びも悲しみも、栄光も苦悩も、いっぱいの生涯だったと思う。

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