kankoのひとりごと

外出できず、ネットと電話・ラジオで日々が過ぎています

古代日本の宮殿と都

2022年11月29日 | 古典聞きかじり
たびたびあった遷都

古代では、天皇の居所は一代ごとに、あるいは一代に数度も移り変わるのが常だった。

斉明天皇の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)は、655年建設。その年末に焼失。
663年からの白村江の戦いで、指揮のため筑紫の朝倉宮に滞在していた斉明天皇は、その地で崩御。
白村江の戦いは大敗。実質的に支配していた中大兄皇子は、
667年、飛鳥から近江大津京に遷都。即位して天智天皇に。
5年半のち、天智天皇は崩御。

天智亡きあと、壬申の乱で権力を掌握した天武天皇は、大和へ戻り、
飛鳥浄御原(あすかきよみはらのみや)を建設。(672年から。20年間)

その天武の妻・持統天皇は694年、藤原京を建設。16年間。

奈良の都:平城京

藤原不比等を中心にした権力は、古い飛鳥の権力から離脱するため、和銅元年(708年)、平城京の建設を宣言。
710年、遷都を敢行。

その後、聖武天皇は平城京を離れ、遷都を繰り返したが、5年後に平城京へ戻ったので、
平城京は、7代70年にわたって、都であり続けた。

新しい政治を目指して平安京へ

奈良時代の終りに即位した桓武天皇は、新しい政治を開始しようと、784年に長岡京へ、そして
794年には平安京へと移動した。

京(みやこ)がなくなった奈良は、東大寺や興福寺の門前町となっていく。

平城京の跡は、親王たちに与えられた。

政治的な要請から建設された都市は、その基盤が失われると消滅する。
京内の道路も、水田になっていった。

「埋もれていた奈良の都」
千年の時を経て保存運動が起こる


埋もれていた「平城京」に目を向けた人が現れたのは、幕末。
某奉行所の役人は、自製の測量車を使って旧都跡を測量し、地図を作製した。

その半世紀後、
奈良県の技師が調査研究し、成果を広めた。

それを知って、平城京の顕彰保存に一生をかけた植木職人がいた。

その後、民間有志により、保存運動が進められ、
戦後の1952年、文化財保護法による特別史跡指定された。
(続きは、いつか…)

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