今日は比較的暖かいよう。こうなると心配なのが・・花粉症。
とりあえず、火曜日に危なくなったので薬を早めにのんではあるんですけどね。
ここのところ騒がしいのが相撲の話。
まえまえから『うわさ』のたえなかった賭博、と『貸し借り』の話。
もともと、相撲が紳士的なスポーツだなんて思ってないし、勝負事には掛けは自然発生てきに付いてくるものだとおもっているのだが、それを『神聖なもの』に祭り上げちゃったのが間違いじゃないんでしょうかね。
いっそのこと『サッカーくじ』じゃないけど、国営ギャンブルにしたほうが税収があがって良いんじゃないかなんて考えたりしてね。
それにても『八百長』という名称、いまでこそ賭け事全般で『わざと負けること』をさして言われているけれど、その語源はここによると『相撲の勝負』というんだから・・ねえ。
○12月31日(金)
さてさて、 ベシパルマック・ダウBeşparmak Dağlarıを越えたkおばんですが出発してきたのは『A』
これから向かうところは『B』の場所です。
ルートはピンクのラインです。
googleさまのサテライトでみると・・高い山があるのがわかりますよね。
これが ベシパルマック・ダウBeşparmak Dağları五指山ですね。
この黄色いラインの道を走りました。
googleさまでも、ここキプロスではルート検索の機能が働きません。
たぶん、ナビ情報がないのでしょう。
で、ここでは原始的に『ヘッドボード』だけがたよりです。
そのヘッドボードを頼りに辿り着いたのは『B』の場所です。
たどりついたのはファマグスタFamagustaトルコ語でガーズィマウサGazimağusaと呼ばれる街です。
一般的にはファマグスタのほうが通用していますが、kおばちゃんとしてはガーズィマウサもしくはマウサmağusaと認識していましたので・・今回はその名前で・・
『ヘッドボード』にはその名前が書いてありましたしね。
この町ガーズィマウサは、紀元前300年には古代にはエジプトのプトレマイオス朝の女王にちなみアルシノエと呼ばれていたそうです。その後「砂に隠された」という意味のアンモコストスと呼ばれるようになり、西ヨーロッパでは「ファマグスタ」に変化し、トルコ語で「マウサ」(Mağusa)に変化したということらしいです。
ちなみにアルシノエ4世はクレオパトラの妹で、去年kおばちゃんがエフェソスを訪問する動機を与えてくださったかたですよね。若くして『殺されて』しまった方で、でお墓参りをしました。
アルシノエという漁村であったこの港、キプロス島のなかでも水深の深い水辺にあるその地形から港として発展していったようです。
1192年、島の支配がフランスのリュジニャン家に移ったことが大きな転換点となったそうです。
リュジニャンの最初の王はここを城壁をもつ安全な街に造りかえることとしたからです。
そしてその目論見はあたり、地中海東部のキリスト教の町としては、裕福な町へと発展を続けてったそうです。
がその富を狙い1372年にジェノヴァ共和国が、1489年にヴェネツィア共和国が港を襲撃したおそうです。
この町の裕福な商人たちはそろって教会を寄進して建てたということで、これらは現在も残り観光名所になっているそうです。
また、1481年に訪問したレオナルドダビンチの助言に従って、町の城壁はさらに高くされたといわれているそうです。
1570年から1571年にかけ、オスマン軍による13ヶ月の包囲と恐ろしい砲撃に耐えたのだが、陥落。後、町はオスマン帝国の一都市として変貌していったということです。
1878年のベルリン会議により、イギリスがキプロス島の施政権を獲得したため、ファマグスタはイギリスの支配下となり、トルコ系住民は旧市街、ギリシャ系住民はヴェロシャ地区と棲み分け。
第二次世界大戦中には、ホロコーストから生還したユダヤ人5万人を収容するキャンプが置かれ、収容されたユダヤ人たちはイギリス領パレスティナへその後移住したそうです。
と、なんと波乱万丈な町がマウサです。
実は前にも書きましたが・・一昨年キプロスを旅行した時に『行きたい』と思っていながら辿り着けなかった町なのです。
昨年も諸般の事情であきらめましたし・・ということで、今回の旅の第一の目的はこのマウサの訪問でした。
やっと、辿り着けたkおばちゃんですが、町の状態が今ひとつわかっていません。
とりあえず手元のガイドブックの地図に駐車場のマークがひとつ書いてあるので、城壁の中にコルドバ爺と一緒に場内に入りました。
しかし入ったら、当てにしていた駐車場は一方通行の出口のように反対側。
しかたがないので、町の様子を知るためにも適当に走ることにしました。本と適当です。
何処を走っているのか・・トンとわかりませんでしたが、なんとなく賑やかで車の駐車している地区があり、しかも1台分だけあいていたのでコルドバ爺を駐車させました。
うーん、ここは何処だ??とりあえず、あっちの方向に行って見ましょう。
斜め後ろにはなにやら由緒ありげな、教会の遺構のような建物が・・
とりあえずkおばちゃんの本能は前に進め・・そっちがきっと海だ!と叫んでいましたのでそちらに向かいます。
と、見つけたのは冒頭の画像の町の地図。
で、よーく見ると・・・kおばちゃんの野生の感もあながち捨てたモンではありませんでした。
コルドバ爺で進んできたのはオレンジ色の矢印のライン。で、駐車したのは赤丸のところ。
ということで、どんぴしゃの真ん中に辿り着いていたのであしました。
振り向くと、さっきの教会の遺構が見えます。結構大きな教会だったようですね。
さてさて、とりあえずここに登ってみましょうね。
とりあえず、火曜日に危なくなったので薬を早めにのんではあるんですけどね。
ここのところ騒がしいのが相撲の話。
まえまえから『うわさ』のたえなかった賭博、と『貸し借り』の話。
もともと、相撲が紳士的なスポーツだなんて思ってないし、勝負事には掛けは自然発生てきに付いてくるものだとおもっているのだが、それを『神聖なもの』に祭り上げちゃったのが間違いじゃないんでしょうかね。
いっそのこと『サッカーくじ』じゃないけど、国営ギャンブルにしたほうが税収があがって良いんじゃないかなんて考えたりしてね。
それにても『八百長』という名称、いまでこそ賭け事全般で『わざと負けること』をさして言われているけれど、その語源はここによると『相撲の勝負』というんだから・・ねえ。
○12月31日(金)
さてさて、 ベシパルマック・ダウBeşparmak Dağlarıを越えたkおばんですが出発してきたのは『A』
これから向かうところは『B』の場所です。
ルートはピンクのラインです。
googleさまのサテライトでみると・・高い山があるのがわかりますよね。
これが ベシパルマック・ダウBeşparmak Dağları五指山ですね。
この黄色いラインの道を走りました。
googleさまでも、ここキプロスではルート検索の機能が働きません。
たぶん、ナビ情報がないのでしょう。
で、ここでは原始的に『ヘッドボード』だけがたよりです。
そのヘッドボードを頼りに辿り着いたのは『B』の場所です。
たどりついたのはファマグスタFamagustaトルコ語でガーズィマウサGazimağusaと呼ばれる街です。
一般的にはファマグスタのほうが通用していますが、kおばちゃんとしてはガーズィマウサもしくはマウサmağusaと認識していましたので・・今回はその名前で・・
『ヘッドボード』にはその名前が書いてありましたしね。
この町ガーズィマウサは、紀元前300年には古代にはエジプトのプトレマイオス朝の女王にちなみアルシノエと呼ばれていたそうです。その後「砂に隠された」という意味のアンモコストスと呼ばれるようになり、西ヨーロッパでは「ファマグスタ」に変化し、トルコ語で「マウサ」(Mağusa)に変化したということらしいです。
ちなみにアルシノエ4世はクレオパトラの妹で、去年kおばちゃんがエフェソスを訪問する動機を与えてくださったかたですよね。若くして『殺されて』しまった方で、でお墓参りをしました。
アルシノエという漁村であったこの港、キプロス島のなかでも水深の深い水辺にあるその地形から港として発展していったようです。
1192年、島の支配がフランスのリュジニャン家に移ったことが大きな転換点となったそうです。
リュジニャンの最初の王はここを城壁をもつ安全な街に造りかえることとしたからです。
そしてその目論見はあたり、地中海東部のキリスト教の町としては、裕福な町へと発展を続けてったそうです。
がその富を狙い1372年にジェノヴァ共和国が、1489年にヴェネツィア共和国が港を襲撃したおそうです。
この町の裕福な商人たちはそろって教会を寄進して建てたということで、これらは現在も残り観光名所になっているそうです。
また、1481年に訪問したレオナルドダビンチの助言に従って、町の城壁はさらに高くされたといわれているそうです。
1570年から1571年にかけ、オスマン軍による13ヶ月の包囲と恐ろしい砲撃に耐えたのだが、陥落。後、町はオスマン帝国の一都市として変貌していったということです。
1878年のベルリン会議により、イギリスがキプロス島の施政権を獲得したため、ファマグスタはイギリスの支配下となり、トルコ系住民は旧市街、ギリシャ系住民はヴェロシャ地区と棲み分け。
第二次世界大戦中には、ホロコーストから生還したユダヤ人5万人を収容するキャンプが置かれ、収容されたユダヤ人たちはイギリス領パレスティナへその後移住したそうです。
と、なんと波乱万丈な町がマウサです。
実は前にも書きましたが・・一昨年キプロスを旅行した時に『行きたい』と思っていながら辿り着けなかった町なのです。
昨年も諸般の事情であきらめましたし・・ということで、今回の旅の第一の目的はこのマウサの訪問でした。
やっと、辿り着けたkおばちゃんですが、町の状態が今ひとつわかっていません。
とりあえず手元のガイドブックの地図に駐車場のマークがひとつ書いてあるので、城壁の中にコルドバ爺と一緒に場内に入りました。
しかし入ったら、当てにしていた駐車場は一方通行の出口のように反対側。
しかたがないので、町の様子を知るためにも適当に走ることにしました。本と適当です。
何処を走っているのか・・トンとわかりませんでしたが、なんとなく賑やかで車の駐車している地区があり、しかも1台分だけあいていたのでコルドバ爺を駐車させました。
うーん、ここは何処だ??とりあえず、あっちの方向に行って見ましょう。
斜め後ろにはなにやら由緒ありげな、教会の遺構のような建物が・・
とりあえずkおばちゃんの本能は前に進め・・そっちがきっと海だ!と叫んでいましたのでそちらに向かいます。
と、見つけたのは冒頭の画像の町の地図。
で、よーく見ると・・・kおばちゃんの野生の感もあながち捨てたモンではありませんでした。
コルドバ爺で進んできたのはオレンジ色の矢印のライン。で、駐車したのは赤丸のところ。
ということで、どんぴしゃの真ん中に辿り着いていたのであしました。
振り向くと、さっきの教会の遺構が見えます。結構大きな教会だったようですね。
さてさて、とりあえずここに登ってみましょうね。