「台湾の声」というメルマガで台湾二二八革命五十九周年記念という記事があった。日本でも各地で講演会が開かれている。
私などはこのようなメルマガを読むまでは、恥ずかしながら知らなかった。
WikiPediaより
私などはこのようなメルマガを読むまでは、恥ずかしながら知らなかった。
WikiPediaより
「二・二八事件(ににはちじけん)は、1947年2月28日に台湾の台北市で発生した後、台湾全土に広がり、40年間かけて終結した事件である。台湾人の間では台湾大虐殺と呼ぶ人も多数いる。 1947年2月27日、台湾の台北市で闇市のタバコ売りの女性を密売取締員が殺傷する事件が起きた。これに端を発し、本省人による、外省人や国民党軍や国民党政府への抗議行動や暴動が2月28日(二・二八)から台湾全土に広がった。これに対して国民党政府が武力による大規模な掃討と鎮圧(弾圧)を40年間にわたって行なった。」 「当初、国民党政府は本省人側にたいして対話姿勢を示していたが、実際のところそれは時間稼ぎに過ぎず、翌月、多人数の援軍が大陸から到着してからは、国民党政府による大弾圧が始まった。日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多数が逮捕・投獄され、国民党軍が一般市民にも無差別的な発砲を行っていたとする証言は多数ある。約3万人が殺害・処刑されたといわれ、死者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。 このとき発令された戒厳令は40年後の1987年まで継続し、国民党政府による、いわゆる白色テロや強権による暴力支配は永らく続いた。国民党が戒厳令を解除し、民主化がはじまった1987年の後も、戒厳令は解除されたとはいえ、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。民主化が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正して、言論の自由が認められてからのことである。」 「この事件は、長らく一般市民の間で密かに語り伝えられ、公(おおやけ)に発言することはタブーとなっていた。しかし時が経つに連れ、弾圧していた側の国民党政府も、大陸の中国共産党と対峙する過程の中で次第に台湾化していき、1988年に李登輝が本省人として初の総統に就任して以降、本格的な民主化時代がはじまる。1989年に公開された侯孝賢監督の映画『悲情城市』は二・二八事件を直接的に描いた初めての劇映画であった。この映画がヴェネチア国際映画祭で金賞を受賞し、二・二八事件は世界的に知られる事となった。これを皮切りに、事件当時の証言や告発をする動きがみられるようになり、政府に対する反逆として定義されていた二・二八事件も、現在は自由と民主主義を求める国民的な抵抗運動として公式にも再評価されるに至っている。 なお、二・二八事件については、当時台湾共産党が国民党政権を倒すということから民衆の蜂起を煽った面もあるとの指摘があるほか、特定の政治勢力が、いたずらに本省人と外省人という省籍矛盾を煽って政治的な主導権を握るために二・二八事件を利用し、歪曲している側面もあるとの意見がある。」 事件の背景 「1945年に日本から中華民国に接収された直後、台湾には大陸から蒋介石率いる中国国民党政府の官僚や軍人がやってきて行政を引き継いだ。彼らは大陸の戦線で日本軍と対峙してきたため、日本に対する強い敵意があり、台湾の人々に対しては解放された同胞というよりも、敵国に洗脳された敵性国民というイメージを抱いていた。 一方、台湾の人々(本省人)は台湾に来た国民党政府の官僚や軍人らが腐敗していたこと、また物価高騰、失業の深刻化、治安の悪化などにより、期待は失望へと変わり、国民党政権に対し、極度の不満を募らせていったことが、この事件の背景にあった。」 |