落葉松亭日記

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露「北方四島すべてロシア領」・・そんなアホな

2010年12月26日 | 政治・外交
露大統領「北方四島すべてロシア領」 自由経済圏の創設提案 2010.12.24 23:05 産経
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/101224/erp1012242010006-n1.htm

 【モスクワ=遠藤良介】ロシアのメドベージェフ大統領は24日、政府系テレビ3局のインタビュー生番組に出演し、日本の北方四島を指す南クリール諸島は「全てロシア領だ」と述べた。また、日本は「ロシアとクリール諸島(千島列島と北方四島)に関する理解を変えるべきだ」とし、北方領土に日本との「自由経済圏」や「自由貿易圏」を創設することを提案した。
 ロシアが日本との領土交渉には応じず、四島での共同経済活動を持ちかけて主権問題を棚上げする思惑であることが鮮明になった。
 メドベージェフ大統領は11月1日、旧ソ連・ロシアの国家指導者として初めて国後島を訪問した。この際、日ソ共同宣言(1956年)が平和条約締結後に引き渡すとした色丹島や歯舞群島は訪れなかったため、一部には大統領が同宣言に基づく「2島引き渡し」での決着を意識しているとの観測も出ていた。
 しかし、24日に一斉放映された番組では、クリール諸島の中でも初めて北方四島(南クリール諸島)を特定し、「全ての島はロシア領だ」と言明。「われわれは必要な決定をし、クリールを開発せねばならない」と述べ、自身や閣僚の北方領土訪問を正当化した。
 一方、メドベージェフ大統領が北方領土の共同経済活動に直接言及したのも初めて。日本外交筋によると、具体的内容は不明ながら、北方四島について「自由経済圏」や「自由貿易圏」との表現を使った露大統領は過去にいないとみられる。
 メドベージェフ大統領は「(北方領土に)特別なミクロ環境ができ、人々が働きに来る。日本国民もやって来て、歴史的な場所を訪れたり働いたりする」と構想を語る一方、日本との経済協力は「われわれがクリール諸島を放棄しなければならないということを意味しない」と述べた。
 共同経済活動をめぐっては1998年、当時のエリツィン大統領と小渕恵三首相の合意により、両国間の国境画定委員会と並んで共同経済活動委員会が設けられたことがある。ただ、共同経済活動には常に四島の主権をめぐる問題がつきまとい、「法的立場を侵害しない形での共同活動」を見いだせないまま委員会の活動は頓挫した。

日本政府の弱体化と共に、周辺国の膨張が目立つ。
このロシア大統領の発言もとんでもないことだ。
「正論」1月号・筆坂秀世「北方領土問題 日本に次の一手はあるのか」より抜粋。
■日本の歴史的領土はどこなのか
北千島:ウルップ(得撫)島~シュムシュ(占守)島
南千島:国後、択捉の四島
北海道の一部:歯舞、色丹

1855年(安政元年)伊豆下田で締結された「日露和親条約」
 北千島はロシア領、択捉島と得撫島の間の海峡を国境とする。
 樺太(サハリン)は日本人、ロシア人が自由に活動できる「雑居」の地とした。
1875年(明治八年)ロシア・サンクトペテルブルグ「樺太・千島交換条約」
 樺太はロシア領、北千島は日本領となる。
以上の二つの条約で日本とロシアの国境が最終的に確定した。
従って、南千島だけでなく、北千島を含めた千島列島全体が日本の歴史的領土である。

■日本の領土が奪われた経緯
1941年
 英米共同宣言「大西洋憲章」では「両国は領土的その他の増大を求めず」。ソ連も賛同。
1943年
 英米中「カイロ宣言」で連合国側は「右同盟国は自国のために何らの利得をも欲求するものにあらず」と領土不拡大の原則を宣言した。
1944年
 太平洋戦争で日本に勝利した米は、戦争を早期に終結したいと考え、1943年頃からソ連に対日参戦を強く要請した。
1945年2月ヤルタ(ソ連クリミア半島)会談が行われる。
 ルーズベルト(米)、チャーチル(英)、スターリン(ソ連)
 スターリンは参戦の条件として千島列島の引き渡しをルーズベルト等に迫り承認させた。
 その背景には、日露戦争の復讐も含まれていた。
1945年8月~9月
 ソ連は日本がポツダム宣言を受諾を決めた後、千島列島、及び北海道の一部である歯舞、色丹島を軍事占領。  この時、前述のヤルタ協定は公表されておらず、秘密協定であり、「領土不拡大」という戦後処理の原則が踏みにじられた。
1946年 ソ連領への編入を強行。

■日本政府の対応の問題点
1951年9月 サンフランシスコ条約第二条C項
 「日本国は、千島列島な並びに日本国が1905年ポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権限及び請求権を破棄する」とあったが、日本はこれを受け入れた。日本の歴史的領土を放棄してしまった。いうまでもなく、この条項は、ヤルタ秘密協定の内容がそのまま持ち込まれたものであった。従って連合国側にとって最も重要な戦後処理方針であった「領土不拡大」の原則を踏みにじった条項なのだ。その意味で、サンフランシスコ条約第二条C項は、いわば大義なき条項だ。
 歴代自民党は、上記のサンフランシスコ条約第二条C項、すなわち千島列島放棄条項を不動のものにしてきており、ここに自民党外交の大きな問題があった。
1951年10月19日当時の西村外務相条約局長は
「条約にある千島列島の範囲については、北千島、南千島の両者を含むと考えております」と明確に答弁している。
 サンフランシスコ条約に調印した際、吉田茂全権大使も受諾演説で「千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだというソ連全権の主張は承伏いたしかねます。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領である事については、帝政ロシアも何ら異議を挿まなかったのであります」  「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島、歯舞島」と述べ、歯舞、色丹は放棄させられた千島列島には含まれないという認識を表明している。

その後、日ソ共同宣言、日ロ首脳会談などが行われてきたが、結局のところ、譲歩につぐ譲歩をしてきただけなのだ。

■スターリンの他国主義大国主義を突け
 大事なことは、日本がどのような国際的に通用する根拠と道理をもってロシアと交渉しているかだ。
その根拠と道理がなければ、ロシア政府に強く働きかけ、国際世論の支持を受けることもできない。

●まず、「国後・択捉は千島にあらず」などという、世界に通用しない便法ではなく、千島列島全体が日本の歴史的領土であることを明確にすることである。
●歯舞色丹は北海道の一部であり、ソ連による軍事占領はヤルタ秘密協定やサンフランシスコ条約に照らして、全く不当なものであったことを鮮明すべき。
●ヤルタ協定を押し込んだサンフランシスコ条約第二条C項を不動のものとせず「領土不拡大」の原則に基づきスターリンによる領土拡張主義の誤りを正す。

 ヤルタ秘密協定は他にも、ソ連の海軍基地としての旅順工の租借権、中国でのソ連の権益拡大を米英に認めさせていた。しかしこれらの権益はその後中国にすべて返還されており、サンフランシスコ条約第二条C項は不動のものではない。
 ヨーロッパの第二次大戦後の処理についても話し合われた「ドイツの戦後分割統治」「バルト三国処遇」もある。ベルリンの壁はなくなり、バルト三国も独立を果たし、ソ連は崩壊した。

 スターリンの領土拡張主義は、その殆どが今日では正されている。その中で依然として残っているのが、千島列島、歯舞色丹だ。

2005年5月 ブッシュ大統領「ヤルタ会談は歴的な誤り」と批判。
 当時のプーチン大統領「ナチズムの復活を許さない新国際秩序を構築した」と反論。

 スターリンの大国主義、領土拡張主義も厳格に正さなければならない歴史的誤りだ。

2010年 APECでメドベージェフ大統領は「日ロ館の領土問題は解決できない論争」とツイットする。

袋小路に入った領土交渉を立て直すには、回り道になるように見えるが、日本自身が世界に通用する道理ある立場を確立した外交を行う以外にない。

メドベージェフ露大統領のこの途方もない発言は、北方領土交渉をリセット、立て直すにはいい機会だ。