落葉松亭日記

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西村眞悟の時事通信(真の教育者、徳永康起先生)

2015年07月11日 | 世相
西村眞悟の時事通信 ( 真の教育者、徳永康起先生 平成27年7月10日号 )
http://www.n-shingo.com/

真の教育者、徳永康起先生

この度もまた、岩手県で中学二年生の生徒が、思いを残しながら自らの命を絶ったようだ。 この子も、教室での「いじめ」に追いつめられる状況を担任に書き残して逝った。

報道では、 校長が出てきて「知らなかった」と言っている。教育委員会が慌てている。
しかし、この子から、いじめの状況を伝えられていた担任は、どうしているのか、何もコメントはない。
まったく、滋賀でも岩手でも、生徒の自殺に関して、いつもの教育界の対応パターンが進行する。

可哀想に、この子も、周囲の無関心のなかで追いつめられていったようだ。
父親が、「(学校で何があったのか)真相を明らかにしてほしい」と訴えている。

このように、初等教育・中等教育(義務教育)の場で、 育ち盛りの、毎日友だちと遊ぶのが楽しくてしかたがない年齢の児童生徒が、 無関心のなかで命を絶っていく状況を思うとき、 彼ら児童生徒が毎日通う学校は、「命を預かる所」だと思はざるをえない。

担任と校長は、児童生徒の「命を預かっている」のだ。
しかし、 校長が、「知らなかった」と言うだけで、担任は、隠れているのか現れない。
そうであれば、校長は、校長として担任から状況を聞き取り、それを説明すべき責務があるが、 その責務を果たそうとする様子はない。
従って、可哀想に、亡くなった子が、如何なる思いでいたのか、痛ましくて仕方がない。

その痛ましい思いのなかで、今朝、ふと、昭和五十四年に亡くなった一人の先生を思った。
それは、森信三先生が、「超凡破格の教育者」と呼んだ、 熊本の小学校の徳永康起先生である。
この度の岩手における生徒の自殺に関して、 担任の対応や、いじめた生徒達のことを色々と詮索するよりも、 私の出会った、この「超凡破格の教育者」のことを諸兄姉に知っていただく方が、建設的だと思う。

前に私は、もし西郷南洲がいま生きていたら何をしていただろうかと問うて、 田舎の小学校の先生をしていると言った。
その時、現実に相見えた小学校の先生として脳裏に浮かんでいたのが徳永康起先生なのだ。

徳永康起先生の歩みの概略は、次の通り。 明治四十五年七月に熊本県芦北町に生まれ、 昭和五十四年六月に熊本県八代で亡くなった。享年六十八歳。

昭和七年、熊本師範学校卒業、
     短期現役兵として歩兵第十三聯隊に入営し陸軍伍長として退営した。
     後に、昭和二十年応召、同年十月復員。
昭和八年、球磨郡大良木町下槻木小学校に勤務(二カ年)、二十二歳。

昭和二十四年、芦北大岩小学校校長拝命。三十八歳。
昭和二十七年、自ら願い出て平教員となり八代市立大田郷小学校に勤務し五年五組を担任する。四十二歳。
昭和四十六年、退職を願い出て教職を去る。六十歳。

昭和二十九年、森信三先生と出会い、そのご縁、生涯続く。
昭和三十九年、一人雑誌をガリ版刷りで制作し生徒、教え子、知友に発行し始める。昭和五十三年まで続く。
昭和四十一年五月三十一日より五十三年三月三十一日まで、
     教え子や知友に葉書(複写葉書)を送る。その数約二万四千通。

森信三先生は、 三十七歳で校長になりながら、三年後には校長から担任に戻り、 それからは、教え子に複写葉書を送り続け、自ら鉄筆を握りガリ版刷りの「一人雑誌」を制作し続ける 徳永康起先生のことを 「鉄筆の聖者」、「超凡破格の教育者」と呼んだ。

平教員に戻った大田郷小学校で、昭和二十八年に担任した五年五組の生徒達は「ごぼく会」を作った。
すると徳永先生は、ガリ版刷りで記念の文集である「ごぼく一号」から「ごぼく三号」までの三号を制作し て教え子に送った。これに対して、教え子達は「ごぼく四号」を制作し、 平成二十一年には「徳永康起先生没後30周年記念誌」として「ごぼく五号」を編集出版した。

そして、「ごぼく会」の教え子達は、本年四月十一日、 徳永先生の最初の赴任校である人吉の球磨郡大良木町下槻木小学校(廃校)跡地に 徳永先生の記念碑を建てた。
その碑には徳永先生の次の言葉が森信三先生の筆で書かれて刻まれている。

「まなこを閉じて、とっさに親の祈り心を察知しうる者、これ天下第一等の人材なり」

私は、昭和五十一年に徳永先生を知り、先生から度々複写葉書を戴いた。そして、 当時、自衛官として陸上自衛隊八尾基地でヘリコプターのパイロットをしていた 「ごぼく」の教え子である植山洋一氏を知った。
昭和五十二年、徳永先生から「ごぼく」の教え子が編集して昭和四十五年に出版した 「教え子みなわが師なり」(浪速社)という本をいただいた。

そして、昭和五十三年八月二十一日、 伊勢青少年研修センターにおいて、始めて徳永先生にお会いした。
これが、今生に於ける最初で最後の出会いだった。

教え子の植山洋一さんとは、 平成十六年五月、熊本で始めてお会いすることができた。そして、現在もお世話になっている。 植山さんは、自衛隊の少年工科学校出身、 ヘリのパイロットとして阪神淡路大震災では救助救援活動に連日連夜邁進され、 後に中佐で退官された。
植山さんは、ヘリで空中を飛ぶプロであるが、地面の上での車の運転は不思議なほど下手である。

次ぎに、「教え子みなわが師なり」に書かれている植山洋一さんの編集後記と、 徳永先生没後に編纂された「徳永康起先生の人と教育」に寄稿した私の拙文の一部を記しておきたい。

     徳永先生とごぼく会   植山洋一(「ごぼく」編集者)
「徳永先生とごぼく会のつながりが芽生えたのは、昭和二十八年四月五日のことでした。
それは、太陽の如く暖かさと親しみをもって、私たちの母校大田郷小学校に赴任された師と、私たちごぼく会との記念すべきめぐりあいの日でした。
師は自ら校長職を止められて平教員として、私たちは五年五組の腕白ざかりの五十一人として。 初めて接する師の教育は、私たちにとって異色のものであり、かつ、私たちの心をとらえて引きつけられる不思議な力を持っておられました。否、引き付けられるというよりも、師のほうから私たちの心の中に飛び込んで来られたというのが正しいのかも知れません。

・・・また、日記による先生との対話は、私たちの小さな人生相談の場として最も力を注がれたご指導であったと思います。
今日、これらの日記をひもといてみれば、師が私たちに何を願い何を祈っておられたか、一目瞭然としたものがあります。
その願いは、学期末に渡される通信簿にしても然り。師の通信簿は、人間としての個人評が別紙に細かくぎっしりと書かれ添付してありました。
これは、師が絶対に点数でのみ私たちを評価しておられなかったことを知るうえで大切なものであり、如何にその人間の美点を見いだし伸ばして行くかに、師のご苦労のほどがうかがえるものです。

・・・更に、師と私たちの生命の呼応として顕著なるものは、ハガキによるものであり、いまでも私たちが師に届けるハガキよりも、師からのハガキが多いということです。
・・・そして、人生につまづきかけたり、家庭の不幸など悩み困っている者があるときは、師はすぐさま来て慰め励まし、本人がその不幸苦しみから立ち直れるまで真剣にお世話くださいました。
これらは、ごぼく会の皆が、多少の廻り道はすれど、現に溌剌たる人生を歩いている事が如実に示すと思うのです。

・・・『思い出は時がたてばたつほど美しい詩となる』大田郷時代をふりかえってみますと、楽しかったこと苦しかったことのすべてが、私たちの心を暖かく包んでくれます。
これというのも、今日までの十七年間、師が、何時も大田郷を振り返ることによって、人生いかに生くべきかを教え励まして下さったからに他なりません。
森先生が、師のことを『超凡破格の大教育者』とたたえられる所以もそこにあるのだと思います。」

     先生と広目天  西村眞悟
「・・・あのような人と、どこかで会ったような気がした。しかし、思い出せない。そして真っ暗な夜道を星を見ながら歩いた。思いあたった。あの風貌は、いつか見た奈良東大寺戒壇院にある広目天像そのものだ。
天平の仏師は、ある実感をもってあの広目天像を造ったにちがいない。僕は、徳永先生にお会いしてより、この仏師の実感がわかる。
徳永先生の風貌は、その御生涯そのものだ。徳永先生のような方は、天平の時代にも、この大地を歩いておられたのだ。
徳永先生は、去られ、われらが民族のもつ男の原像の中に還って行かれた。それ故、先生のお姿は、我が内に在る。・・・」

植山さんの言うように、 徳永先生は、生徒との日記のやりとりに、 命をかけるような真剣さで取り組んでいた。
教育において、この一点の違いが、児童生徒の、 命を分けるのではないか。
この度の、岩手県の場合もそうではなかったのか。
子供の命を守るために、 一人でも多くの教員が、このことを実感して欲しい。

最後に、徳永先生の言葉を書いておく。

     教え子みな吾が師なり   徳永康起

「戦前教え子多数を戦場でなくした償いのためにも、その供養のためにも、一平教員として教壇に立つことが、私の道であろうかと、県にお願いして、校長降格第一号として、飛び込んだのが、熊本県八代市立大田郷小学校であり、そこでごぼくの子らとご縁を結んだのである。
愚鈍な私には、華やかな新教育の理論も実践も何一つ判らなかった。
だが教職についた時、母がさとした。
=人さまの子を大事にするように= 
の一語は万巻の教育書以上のものであった。

・・・教育事実を作らねばならない。その一つの方法として、 日記による一人々々との温かい呼応を作ろうとした。
昭和十四年、年若くして一人の教え子がなくなった。駆けつけてみると、死の枕辺には『徳永先生手跡』と題した一冊のノートが置かれていた。
日記の末尾にしるしたものを、解説をつけてまとめられたものである。
何気なく書いた愛語が、死の日まで生命あるものとなるこの事実に愕然としたのであった。・・・」


教室でイジメにあい、追い詰められて自殺するという悲しい事件の記事を目にする。 本人や親御さんの気持ちを思うと痛ましい。
幸い自分の子供らは、素直に学校生活を送り社会に出た。有り難いことだ。

昔もイジメはあったが、当方の学校生活では自殺に至る様な事件はなかった。
中学3年のとき、どういうわけか何かとイヤな目にあった。
1,2年の時はどうもなかったのに、巡り合わせか。
地元の小学校を出ていなかったからかも知れない。今でも思い出すと不愉快になる。
恨まれていることも知らずにアノ連中もいい爺さんになっているだろう。

小学校3、4年の担任先生は楽しかった。その先生は亡くなられたが同窓会は続いており、近日ランチ会の誘いが来て、楽しみにしている。