落葉松亭日記

ニュース・評論スクラップ、凡夫の日々雑感、山歩記など

備えあれば憂いなし

2016年07月07日 | 政治・外交
参院選投票日が近づいている。
野党は共産党との共闘とか。その共産党は安保関連法を「戦争法」だとして廃止を訴えている。
同じ共産主義を標榜する親方に「話し合い」行ったのだろうか。
シナの南シナ海、東シナ海軍拡はにはお構いなしではないのか。
ISのテロが世界中に吹き荒れるようになった。
アメリカさんも自分の身は自分で守れと云っている。

71年前第二次大戦末期、もう日本の敗戦が決定的となっているのにアメリカは原爆を広島・長崎に投下し無辜の市民を虐殺した。核の人体実験とも云われている。

1980年、評論家の加瀬英明氏が原爆投下関係者に「もし、あの時に日本が原子爆弾を1発でも持っていて、アメリカのどこかに落とすことができたとしたら、日本に核攻撃を加えたでしようか」と、質問した。
答えは
「なぜ、そんな当たり前のことを、質問するのか。きかなくても、答が分かっているだろう」
「もちろん、あなたも答を知っているはずだ。もし、日本があの時に原爆を1発でも持っていたとしたら、日本に対して使用することは、ありえなかった」と、いったという。

現在、隣国の中国、北朝鮮が核保有している。
軍拡にいそしんでいるのは日本が核装備していないことも寄与しているのではないか。
■「加瀬英明のコラム」メールマガジン
http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi
 オバマ大統領の広島での祈り 71年前の原爆の意味

 5月27日に、オバマ大統領が広島の原爆慰霊碑に詣でた。
 慰霊碑の前で、しばし目を閉じて黙祷したから、詣でたといってよいだろう。
 アメリカの大統領が、原爆犠牲者の慰霊碑の前で黙祷してよかったと、思った。私はいや、来なかったほうがよかったとも、思った。

 だが、大統領が慰霊碑の前で黙祷を捧げたことによって、アメリカ国民の多くがアメリカが71年前に、日本に対しておぞましい非人道的な罪を犯したと、覚ることとなろうと思い直した。

 最後の戦友会での講演

 いまから26年前に、広島、長崎に原爆を投下したアメリカ陸軍航空隊の第509混成団が最後の戦友会(リユニオン)を、ユタ州とネバダ州の州境にあるウェンドオーバーで開催した。
 私はこの最後の戦友会に、記念講演の講師として招かれた。
 ウェンドオーバーは四方を広大な砂漠によって囲まれている。大戦中には小さな町だったが、もっとも近い町でも200キロあまり離れていた。
 そのために、昭和19(1944)年に、ここに秘密航空基地が設けられて、原爆投下実施部隊が編成され、極秘裏に訓練を受けた。
 当時の隊員が家族を連れて、全米から500人あまり、ウェンドオーバーのホテルに集まった。

 私は講演の前日に旧隊員に案内されて、かつての飛行場を歩きまわった。原爆を投下した、ポール・ティベッツ大佐の乗機『エノラ・ゲイ』号が使った格納庫が、そのままの姿で残っていた。大佐が混成団の司令官だった。
 閑散とした飛行場は、民間用に使われており、小型のセスナ機が数機とまっていた。
 知らないで訪れた人は、原爆投下部隊の秘密基地だったということを説明する掲示板もないから、ただ、さびれた飛行場だとしか思わないことだろう。

 翌日、ホテルのホールで講演をした。40分、話すことになった。
 講演の前に、ティベッツ准将(退役)に紹介された。小柄な老人で、最前列に座っていた。

 日本国民は原爆投下を赦し、アメリカを恨んでいない

 私は日本が1945年6月から、スウェーデンとソ連政府に和平の仲介を求めており、ワシントンも日本が降伏しようとしていることを、知っていた。原爆投下がなくても降伏したから、原爆投下は無用だったと説明した。
 私は原爆投下は国際法に反し、人道にもとる残虐行為だったが、戦争の狂気に駆られて行われたことだったから、日本国民は原爆投下を赦(ゆる)しており、アメリカを恨むことはまったくないと、結んだ。

 講演をはじめから10分もすると、100人、150人と、家族とともにつぎつぎに席を立って、廊下へ出ていった。
 そして、抗議するために、廊下に集まって愛国歌を合唱しはじめた。私が話を終えた時には、会場は空席ばかりになって、40人あまりしか残っていなかった。
 そのなかに、ティベッツ准将もいた。私が感動したのは、私が演壇から離れると、ティベッツ准将はすぐに廊下へ出ていったが、30人あまりが列をつくって、私に握手を求めて「よい話だった」とか、「日本の見方がよく分かった」といった。
 そのあいだも、廊下から愛国歌を合唱する声が、流れてきた。

 原爆投下によって…

 旧隊員たちは、広島と長崎に原爆を投下したことによって、日本が降伏して、日本本土への侵攻戦を戦うことがなかったために、数百万人の日米両国の人命が救われたと信じて、大きな誇りとして生きてきたのだった。
 私を講師として招いたのも、原爆の投下によって日本が救われたと感謝するのを、期待していたのだった。
 最後まで会場に残った旧隊員の1人が、「もし、ジェネラル・ティベッツが廊下に出たとしたら、全員が従った。そうしたら、あなたは1人だけになったはずだ」と、いった。

 その夜、ホテルで晩餐会(ディナー)が行われて、私も招かれていた。ところが、その前に「隊員のなかに、私を『殴り殺す』といきまいているのがいるから、今晩は部屋から出ないで、ルームサービスをとってほしい」といわれた。
 前日だったが、旧隊員の1人が「戦後、ティベッツ准将は軍人として不遇だった。原爆投下部隊の指揮官として選ばれた俊材だったのに、ヒロシマに核攻撃を加えたことを、称えることができなかったから、少将まで昇進できなかった。気の毒な人だ」と、打ち明けてくれた。

   アメリカにおいても、原爆投下を強く非難する声がある。
ルーズベルト大統領の前任者だったハーバート・フーバー大統領が回想録のなかで、「トルーマン大統領が人道に反して、日本に原爆を投下するように命じたことは、アメリカの政治家の質を疑わせるものである。アメリカの歴史において、未曾有の残虐行為だった。アメリカ国民の良心を、永遠に責むものである」と、述べている。(『日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず』藤井厳喜など著〈勉誠出版、2016年〉を読まれたい。)

 アメリカにおいて原爆投下を非難する声

   私は1945年8月に、広島に原爆を投下することを決定した、ホワイトハウスの会議に参画した、ジョン・マクロイ陸軍次官と夕食をとったことがある。
 1980年にニューヨークを訪れたところ、『ニューヨーク・タイムズ』社の女社主だったイフジーン・サルツバーガー夫人が、私たち夫婦のために、郊外のスタンフォードにある私邸で晩餐会を催してくれた。私は夫人と親しくしていた。
 マクロイ氏は、夫人の古い友人だった。タイムズ紙の大記者と呼ばれた、ジェームズ・レストン記者も招かれていた。

私はマクロイ氏に、広島、長崎に対する原爆投下を話題にして、「もし、あの時に日本が原子爆弾を1発でも持っていて、アメリカのどこかに落とすことができたとしたら、日本に核攻撃を加えたでしようか」と、質問した。
 すると、レストン氏が驚いて、「なぜ、そんな当たり前のことを、質問するのか。きかなくても、答が分かっているだろう」と、口をはさんだ。私は「これまで原爆投下の決定に参画した人に、会ったことがないので、確かめてみたかった」と、答えた。
 すると、マクロイ氏が「もちろん、あなたも答を知っているはずだ。もし、日本があの時に原爆を1発でも持っていたとしたら、日本に対して使用することは、ありえなかった」と、いった。

 広島の慰霊碑の言葉の重さ

 私はそれ以来、広島の平和記念公園の慰霊碑に刻まれている、「過ちは二度と繰り返しません 安らかにお休み下さい」という碑文を、核兵器を持たないために、再び悲惨な核攻撃を招くような過ちを繰り返してはならない、という誓いの言葉として、読まなければならないと思ってきた。

 日本は被爆国家として世界に何を話すべきか

 私は核武装の是非は別にして、日本は世界唯一つの核被爆国家として、世界のどの国よりも、核武装する権利があると信じている。
 それに、日本が第三国から核攻撃を蒙ることがあった場合に、アメリカがニューヨークや、ロスアンジェルスを犠牲にしてまで、日本に代ってその国に核報復攻撃を加えることは、まったく期待できないと思う。
 オバマ大統領が広島の原爆慰霊碑に詣でたことによって、日本が将来、核兵器を必要にする場合に、核兵器を保有することが、難しくなったのではないだろうか。
 私はオバマ大統領が黙祷する姿を、テレビで見ながら、複雑な思いにとらわれた。
 はたして日本が核兵器を持たないでいることが、71年前に悲惨な核攻撃の犠牲になった、同胞の願いなのだろうかと思う。