「国民のための政治」「民意を問います」などと云って大多数の票を集めた結果、政権が交代した。果たしてどうだったか。民主主義って本当に幸せになれるのだろうかといった疑問が沸々と湧いてくる今日この頃だ。
正論1月号 哲学者・適菜 収「ニーチェが予言した現代日本の病巣」の論説から
http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0912/ronbun4-1.html
うかうかしているとそこに「民意」が捏造される恐れがあると警告している。
実際、人権擁護法案とか外国人地方参政権、地方分権等々、マニフェストにもなかった事案が「民意」かのように出てきているのは、あきらかに民主主義を騙っているのではないか。
TVウォッチャー・ブロガーのご意見を見ると「民主主義」の仮面をかぶり明らかに偏向と思われるキャスターが跋扈し人気を博しているようだ。低俗番組と相俟って、50年余り前評論家大宅壮一氏が予測した「一億総白痴化」がほぼ完成しているのではないか。 今年の参院選では、どんな政治キャンペーンが展開されるのかわからないが、昨年の二の舞になる恐れが充分にある。
「郵政改革!」、「政権交代!」とかのキャッチフレーズにのって踊らされることからもう卒業しなければいけない。
正論1月号 哲学者・適菜 収「ニーチェが予言した現代日本の病巣」の論説から
http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0912/ronbun4-1.html
~このままではポピユリズムに蝕まれ自壊する。今こそ民族の歌をうたえ~
【民主主義とい疾病】
・・・
怖いのは原因不明の病気である。どことなく体調が悪く、元気がでない。先行きが見えないどころか、足下さえおぼつかない。日本社会がこうした症状を呈しているのは、病気だからである。病気を治すためには、原因を特定し、適切な治療を行わなければならない。しかし、間違った処方箋によって病状をさらに悪化させ、迷走を深めているのが今の日本の姿ではないか?
中でも小沢一郎は、ことあるごとに民主主義について言及してきた。二〇〇九年一月十八日の民主党定期大会では、「私たち民主党の実現目標は、明確であります。第一に、『国民の、国民による、国民のための政治』を実現する。単純な言い方ではありますが、それが民主主義の原点であります。その当たり前のことが、日本では行われてきませんでした。それこそが、今日、政治、経済、社会の混迷を招いた最大の原因であります」と語っている。つまり、民主主義の原点である「民意」をないがしろにしたことが、現在の社会の混迷を招いたという判断だ。
しかし、私の処方箋はまるっきり逆である。政治家が「民意」を尊重し、「民主主義の原点」に戻ろうとしたことが、日本社会を破壊したのである。政治家がやるべきことは、「民意」から距離を置き、「民主主義の原点」から国家・社会・共同体を守ることである。こういう言い方が奇異に聞こえるとしたら、それは日本人の多くが「民主主義=善」という洗脳教育を受けているからだ。逆にソクラテスからニーチェにいたる哲学の伝統は次のように教える。すなわち「民意」を強調する政治家には警戒せよと。
【ソクラテスの冷笑】
民主主義の原点とされるのは、古代ギリシャのポリス(都市国家)の一部に見られた民主政である。特に有名なのはアテナイの民主政だろう。紀元前五九四年、ソロンにより大規模な国制改革が行われ、民衆に市民権が与えられた。こうして市民の政治参加が広がり、やがて貴族の特権は廃止されていく。
アテナイ民主政の最高議決機関は、有権者が全員直接参加する民会である。そこでは行政、立法、経済、外交が「民意」により決定された。また、民衆裁判所が設置され、くじで選出された陪審員が裁判を行うようになった。裁判が市民に「開かれた」わけである。この民主政の基本原理は、権力は少数の優れた者の手中ではなく、民衆全体の中にあるというものだ。
こうした動きを古代の賢人たちはどう見ていたのか? あのソクラテスもプラトンも、アリストパネスもクセノポンも、愚にもつかない制度として民主政を切り捨てたのである。諸学の父・アリストテレスは、大著『政治学』において、「民意」を最優先させた場合の民主政を、僭主政に近い最悪のものと規定した。
デモクラシーの語源は、古典ギリシャ語のデモス(民衆)とクラティア(支配)である。民衆が第一権力になれば、政治は必ず腐敗する。民衆は世論に動かされる。そこで活躍するのは、今も昔もデマゴーグである。アテナイの衆愚政治化は必然だった。
よって、古代の賢人たちは、次の結論を引き出す。政治に「民意」を直接反映させるのは危険であると。こうして「民主政」という人類の疾病は、当時の最高の知性により葬られたのだった。
【キリスト教の亡霊】
時を隔てて十八世紀、突如「民主主義」が脚光を浴びる。注意しなければならないのは、古代ギリシャの「民主政」が単なる政治制度だったのに対し、「民主主義」の本質はカルト宗教である点だ。ここでは仮に「民主教」と呼んでおく。教祖の一人ジャン=ジャック・ルソーは、当時登場してきた「自然権(人間が生まれつき持つ普遍的権利)」なる概念をもとに「人民主権」を唱えた。そして、古代ギリシャの「民主政」を利用して、「一般意志」なる教義を捏造したのである。これは、国家全体の中に、(公的な)総体としての意志があり、それにより国家は運営されるべきだという発想だ。そこでは「一般意志」こそが、法を支える根拠になる。もっともらしく聞こえるかもしれないが、ここで攻撃されているのは、歴史に裏打ちされた民族の法概念である。
「民主教」信者の最大の目的は、現行の法体制・社会制度を「民意」を利用して転覆させることだった。実際、彼らの教義はアメリカ独立革命、フランス革命、ロシア革命などに引き継がれていく。
この点を病理学的に解明したのが、十九世紀の哲学者フリードリッヒ・ニーチェである。
ニーチェは民主主義の本質についてこう述べる。
「このわれわれにとっては、民主主義の運動は、たんに政治的機構の一つの頽落形態と思われるだけでなく、人間そのものの頽落形態、すなわち人間そのものの卑小化の形態、人間の凡庸化と価値低落の現象と思われる」(『善悪の彼岸』)
続き↓
http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0912/ronbun4-1.html
【民主主義とい疾病】
・・・
怖いのは原因不明の病気である。どことなく体調が悪く、元気がでない。先行きが見えないどころか、足下さえおぼつかない。日本社会がこうした症状を呈しているのは、病気だからである。病気を治すためには、原因を特定し、適切な治療を行わなければならない。しかし、間違った処方箋によって病状をさらに悪化させ、迷走を深めているのが今の日本の姿ではないか?
中でも小沢一郎は、ことあるごとに民主主義について言及してきた。二〇〇九年一月十八日の民主党定期大会では、「私たち民主党の実現目標は、明確であります。第一に、『国民の、国民による、国民のための政治』を実現する。単純な言い方ではありますが、それが民主主義の原点であります。その当たり前のことが、日本では行われてきませんでした。それこそが、今日、政治、経済、社会の混迷を招いた最大の原因であります」と語っている。つまり、民主主義の原点である「民意」をないがしろにしたことが、現在の社会の混迷を招いたという判断だ。
しかし、私の処方箋はまるっきり逆である。政治家が「民意」を尊重し、「民主主義の原点」に戻ろうとしたことが、日本社会を破壊したのである。政治家がやるべきことは、「民意」から距離を置き、「民主主義の原点」から国家・社会・共同体を守ることである。こういう言い方が奇異に聞こえるとしたら、それは日本人の多くが「民主主義=善」という洗脳教育を受けているからだ。逆にソクラテスからニーチェにいたる哲学の伝統は次のように教える。すなわち「民意」を強調する政治家には警戒せよと。
【ソクラテスの冷笑】
民主主義の原点とされるのは、古代ギリシャのポリス(都市国家)の一部に見られた民主政である。特に有名なのはアテナイの民主政だろう。紀元前五九四年、ソロンにより大規模な国制改革が行われ、民衆に市民権が与えられた。こうして市民の政治参加が広がり、やがて貴族の特権は廃止されていく。
アテナイ民主政の最高議決機関は、有権者が全員直接参加する民会である。そこでは行政、立法、経済、外交が「民意」により決定された。また、民衆裁判所が設置され、くじで選出された陪審員が裁判を行うようになった。裁判が市民に「開かれた」わけである。この民主政の基本原理は、権力は少数の優れた者の手中ではなく、民衆全体の中にあるというものだ。
こうした動きを古代の賢人たちはどう見ていたのか? あのソクラテスもプラトンも、アリストパネスもクセノポンも、愚にもつかない制度として民主政を切り捨てたのである。諸学の父・アリストテレスは、大著『政治学』において、「民意」を最優先させた場合の民主政を、僭主政に近い最悪のものと規定した。
デモクラシーの語源は、古典ギリシャ語のデモス(民衆)とクラティア(支配)である。民衆が第一権力になれば、政治は必ず腐敗する。民衆は世論に動かされる。そこで活躍するのは、今も昔もデマゴーグである。アテナイの衆愚政治化は必然だった。
よって、古代の賢人たちは、次の結論を引き出す。政治に「民意」を直接反映させるのは危険であると。こうして「民主政」という人類の疾病は、当時の最高の知性により葬られたのだった。
【キリスト教の亡霊】
時を隔てて十八世紀、突如「民主主義」が脚光を浴びる。注意しなければならないのは、古代ギリシャの「民主政」が単なる政治制度だったのに対し、「民主主義」の本質はカルト宗教である点だ。ここでは仮に「民主教」と呼んでおく。教祖の一人ジャン=ジャック・ルソーは、当時登場してきた「自然権(人間が生まれつき持つ普遍的権利)」なる概念をもとに「人民主権」を唱えた。そして、古代ギリシャの「民主政」を利用して、「一般意志」なる教義を捏造したのである。これは、国家全体の中に、(公的な)総体としての意志があり、それにより国家は運営されるべきだという発想だ。そこでは「一般意志」こそが、法を支える根拠になる。もっともらしく聞こえるかもしれないが、ここで攻撃されているのは、歴史に裏打ちされた民族の法概念である。
「民主教」信者の最大の目的は、現行の法体制・社会制度を「民意」を利用して転覆させることだった。実際、彼らの教義はアメリカ独立革命、フランス革命、ロシア革命などに引き継がれていく。
この点を病理学的に解明したのが、十九世紀の哲学者フリードリッヒ・ニーチェである。
ニーチェは民主主義の本質についてこう述べる。
「このわれわれにとっては、民主主義の運動は、たんに政治的機構の一つの頽落形態と思われるだけでなく、人間そのものの頽落形態、すなわち人間そのものの卑小化の形態、人間の凡庸化と価値低落の現象と思われる」(『善悪の彼岸』)
続き↓
http://www.sankei.co.jp/seiron/wnews/0912/ronbun4-1.html
うかうかしているとそこに「民意」が捏造される恐れがあると警告している。
実際、人権擁護法案とか外国人地方参政権、地方分権等々、マニフェストにもなかった事案が「民意」かのように出てきているのは、あきらかに民主主義を騙っているのではないか。
TVウォッチャー・ブロガーのご意見を見ると「民主主義」の仮面をかぶり明らかに偏向と思われるキャスターが跋扈し人気を博しているようだ。低俗番組と相俟って、50年余り前評論家大宅壮一氏が予測した「一億総白痴化」がほぼ完成しているのではないか。 今年の参院選では、どんな政治キャンペーンが展開されるのかわからないが、昨年の二の舞になる恐れが充分にある。
「郵政改革!」、「政権交代!」とかのキャッチフレーズにのって踊らされることからもう卒業しなければいけない。