芥川賞を受賞した又吉直樹さんの『火花』。駆け出しの漫才師徳永と、徳永が師匠と慕う芸人神谷の、数年間にわたる奇妙な師弟関係を主軸にした作品です。
二人は(というか二人でいる時は)舞台上だけでなく日常生活に置いても“面白い”を追求しているので、メールのやり取りも用件を書いただけでは終わりません。毎回必ず文末に自由律俳句のような短文を添えます。
・“夥しい数の桃”
・“カノン進行のお経”
・“エジソンが発明したのは闇”
メール本文とは関係ない文末のこれらの短文が、本作のとても大きな魅力になっているように思いました。意味はない、法則もない、マシマロは関係ない、本文とは関係ない…って途中から歌詞になってしまいましたが、「意味が無いからこそ意味を纏う」という逆説が、二人が手に入れられそうで入れられない“笑い”というものを象徴しているかのようでした。
又吉さんは自由律俳句の本も出されていると思いますが、僕も一時期、自由律、特に短律に興味を持った事があり、山頭火の評伝を借りて読んだりしました。今から考えると、それは片手袋に魅かれたのと同じような理由があったように思います。
・咳をしても一人
・まつすぐな道でさみしい
といった有名な句は、ただでさえ字数に限りがある五七五という定型から比べてもまだ少ない訳です。しかし、描いているもの、想像させるものも限りがあるかと言えば、そうではない。むしろ少ない事によって、受け取る側の想像は無限に刺激され広がりを見せます。
足りないからこそ、豊かである。これはまさに片手袋を見て様々な事を想像してしまう、という事と同じです。二つで一揃いの筈の手袋が片方になった事で、我々はその背後にある物語を想像してしまうのです。
このように、「自由律俳句と片手袋は似ているな~」などと考えていた僕ですが、半年ほど前に驚く事がありました。
今年の一月、TBSラジオ『OLERA』に出演させて頂きましたが、MCの緋田康人さんは自由律俳句の愛好家だそうで、番組内でもコーナーがあるようでした。
番組中で「自由律俳句と片手袋の親和性について触れられるかな?」と思っていたのですが、素人が生放送の時間読みを出来る筈もなく、僕の出演コーナーはあっという間に終わってしまいました。
CMに入り挨拶をしてブースを出ようとした時、アナウンサーの堀井美香さんが「片手袋を詠んだ自由律俳句もあるんですよ」と、尾崎放哉の句集を見せて下さいました。そこに書かれていたのが…
手袋片ッポだけ拾った
という“親和性がある”どころじゃない、ど真ん中の片手袋俳句だったのです!しかも放哉、放置型でなくいきなり介入型かいっ!
いや~、あの時は本当に驚きました。と同時に、僕みたいな訳の分からないゲストでさえ、事前のリサーチを怠らない堀井美香さんを尊敬しました。実は放送中、堀井さんが本番前に片手袋を探しにTBS周辺を一時間くらい歩いて下さったことが判明したのに、僕は緊張していてお礼すら言えなかったのです…。今でも悔いが残ってるんですよね。
まあとにかく。片手袋に関する妄想が現実になる瞬間の驚き、ワクワク。これがあるからやめられないのです。それらはどこに潜んでいるか分かりません。これからもあらゆるジャンルに目を光らせていこうと思っております。