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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

知識・見識・胆識 3/3  

2021-07-07 22:58:48 | 文化

 

>■この教えをどのように活用するべきか  >こういった教えも知っただけではまさに「知識」止まりです。 >これをどう胆識まで持っていくのかを考えて、そしてそのためのアクションを行うことこそが大事であって、それこそが知行合一の考え方です。   

 

自主的な行動が必要ですね。日本人には自己の意思の獲得が必要ですね。現在は思考停止の状態にあります。         

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)   

 

>そういう一連の活動が哲学なのです。  

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>具体的方法論は自分自身で見つけ血肉としなければなりませんが、ステップは以下のような感じでしょうか。

>1.まず知識・見識・胆識の違いを理解する >2.学習時にはその知識をどのように活用するのか、つまり見識を見越した上で知識を身につけるようにする >3.常日頃から自分のスタンスを明確化する。 >意志決定するポジションにいなくとも「自分であればどう判断するか」を考え、そして自分の意見を述べる >4.決断力と実行力の両面を持ち備えている人を探しロールモデルとする。 >どのように周囲を動かしているのかを学び取る >5.試行錯誤しながら自分なりのスタイルを身につけていく >たぶん3と5が難易度高めですね。 >1と2は考えの領域ですが、それをステップ3で自分のスタンスを明確化し「意見を述べる」というアクションに変換する。

 

そうですね。何よりも自発性が必要ですね。  

 

>この小さな一歩が肝要です。 >あとは手本を見つけて、それを現実化するための手段を身につけていくというプロセスではないでしょうか。  

 

上手くゆくと良いですね。英米人の言動が手本になるのかな。   

 

>(リンクより引用)   

 

 

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知識・見識・胆識 2/3  

2021-07-07 22:35:47 | 文化

 

>知識と見識とはこのように違うものです。>知識をもとに物事を判断できる、意思決定できるようになると、見識があると言えるようになるということ。>自分の一方的な意見を言うだけの人や、当事者意識なく外野から意見するだけの人は、いくら知識が秀でていても見識があるとは言えない、知識は活用されて初めて価値がある、ということですね。    

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)      

 

>■断固たる実行力がともなって胆識となる   >身の回りを思い浮かべてみると、見識のある人ですら限られると思うのですが、しかし安岡正篤先生は見識だけではまだ足りないと説きます。 >ところが、見識というものはそういう意味で難しいものですけども、この見識だけではまだ駄目で、反対がどうしてもあります。 >つまり見識が高ければ高いほど、低俗な人間は反対するでしょう。 >見識だけだと、実行面がおぼつかない。 >反対勢力や足を引っ張ろうとする人に邪魔されてしまう可能性があります。(略)

 

そうですね。義を見てせざるは勇なきなりですね。      

 

>従って、見識をさらに胆識まで昇華させる必要があります。>そこでこれを実行するためには、いろいろの反対、妨害等を断々乎として排し実行する知識・見識を胆識と申します。>つまり決断力・実行力を持った知識あるいは見識が胆識であります。>これがないと、せっかくの良い見識を持っておっても優柔不断に終わります。

 

そうですね。ところが日本人には意思はない。けれども恣意 (私意・我儘・身勝手) があります。   

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動の本人は説明責任をとることができない。  

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、危険極まりない。日本人の責任者は説明責任が取れないし、未来は一寸先が闇である。危険が一杯であるからお変わりのないことが何よりなことである。

 

>最後までやりきる力、やりぬく力が胆識です。>より一般的な用語で言えば胆力。

 

意地・根性・大和魂ですかね。    

 

>これ、実は胆識だけその前の2つと大きく違うことに皆さん気づかれましたか? >知識見識は考えること、頭の中だけのこと。 >決断や意思決定にしてもそうですよね。 >対して、胆識とは行動が伴います。 

 

行動計画を実行するのですね。武芸の稽古を通して修行を積むのですね。      

 

>考えたことを行動に起こすこと。 >陽明学では「知行合一」と言います。 >「知っていて行動に移さなければ、それは "知っている" ことにはならない」という意味です。

 

そうですね。 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)     

日本人には意思がない。受動ばかりの言動で能動がない。言動なくしては、事は始まりませんね。

 

>私たちは空想の世界ではなく現実世界を生きているわけですから、主体的に世の中を動かしていこうと思ったら、ここまで自らを高めなければならないという、とても貴重かつ実践的な教えです。  

 

そうですね。わが国では、真面目な哲学はものになりませんね。それで、日本人の考えは空想・妄想になる。お陰様で、わが国は漫画・アニメの大国になりました。   

 

 

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知識・見識・胆識 1/3  

2021-07-07 21:30:24 | 文化

 

>試験制度と暗記脳  >368411         行動、実行を伴う「胆識」を身につけよう!  >志葉楽           21/07/04 PM08 【印刷用へ】

>■物事を判断するためには見識が伴わなければならない  >知識と見識は似ておるようですが、これは全く違います。 >知識なんてものは、そのもの自体では力になりません。 >知識というものは、薄っぺらな大脳皮質の作用だけで得られます。 >学校へ入って講義を聞いておるだけでも、あるいは参考書を読むだけでも得ることができます。>しかし、これは人間の信念とか行動力にはなりません。   

 

そうですね。知識は他人事のようなものですね。  

 

>知識というものにもっと根本的なもの、もっと権威のあるのが加わりませんと、知識というものは役に立ちません。>それは何かと言えば見識です。(略)   

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

 

 

>ある一つの問題についても、いろいろ知識の持った人が解答いたします。>しかし、それはあくまでも知識であります。>しかし事に当たってこれを解決しようという時に、こうしよう、こうでなければならぬという判断は、人格、体験、あるいはそこから得た悟り等が内容となって出て参ります。>これが見識であります。  

 

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)