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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

岩田健太郎氏 2/2  

2021-07-12 04:30:44 | 文化

 

>コロナ問題で「自称専門家」は増えたが、露骨な経歴詐称は誰かが看破する。 >自分では「専門家」とは自称しないが他人が「専門家」と呼んでも否定しないような輩だ。 >「嘘はついてないが記憶が消えた」も同様だ(ま、これは本当に嘘なんだけど)。 >これもまたインプリケーションの問題だ。 >形式を満たしていれば虚偽ではない、という形式主義が日本の「嘘つき」を常態化させる。

 

そうですね。日本は形式主義の国ですね。これは、日本人が無哲学・能天気だからでしょう。   

だから、日本人には、儀式 (作法) があって、教義 (教え) というものがない。作法ばかりにこだわって、これを励行しない者には罰を当てることが習慣となっている。子供の時には宮参り、結婚式にはキリスト教会、葬式には葬式仏教でやることになる。全ての行為は、気分・雰囲気の良さで決められている。意義を求めることはしない。    

 

>きちんとした議論を拒む構造的難問だ。

 

そうですね。日本語の構造が日本社会の構造になっていますね。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>岩田健太郎(神戸大学医学研究科感染治療学分野教授)[新型コロナウイルス感染症]    

 

 

 

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岩田健太郎氏 1/2  

2021-07-12 04:08:00 | 文化

>【識者の眼】「嘘をつかなければ良いのか」岩田健太郎  >No.5054 (20210306日発行) P.59

>岩田健太郎 (神戸大学医学研究科感染治療学分野教授) >登録日: 2021-02-22  >最終更新日: 2021-02-22

>コーナー: OPINION  医療界を読み解く[識者の眼]  >診療科: その他  意見・提言

>露骨なフェイク・ニュースがネットで拡散され、それを信じ込む人たちが騙される。 

 

悪質ジャーナリズムによる被害ですね。  

 

>もちろん、昔も「情報弱者」はいた。 >ツチノコだの口裂け女だの心霊写真だの。 >現代だけがフェイクに脆弱な社会なのだとは思わない。>ただ、今はそんな誤情報に構造的に騙されやすい「弱者」とそうでない人の格差がどんどん広がり、断絶・分断が深刻になっていき、このことが、例えば新型コロナ対策、を困難にしている。

 

残念なことですね。専門知識を装った人たちから誤情報を受け入れている人が大勢いますね。      

 

>問題なのは露骨なフェイクだけではない。>露骨なフェイクは真正面から否定すればいいだけの話だが、より深刻な問題は表面的には嘘ではないんだけど、嘘、というフェイクである。 

 

世間を騒がせるための業者の処世術 (損得勘定) から出て来るものでしょうね。   

 

>例えば、コロナのワクチンを接種した後に米国で1000人以上亡くなっている、というような報道だ。 >日本のメディアはこれが多い。 >そこに欠如しているのは「だから何? so what?」であり、インプリケーションである。 >結局、1000人という数字は多いのか、少ないのか。 >ワクチンが危険という意味なのか、安全という意味なのか。 >その「意味するところ」を語らずして、ただ数字だけ並べて報道しても、これはジャーナリズムの仕事ではない。   

 

そうですね。イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

>ジャーナリズムの使命は、我々医学者同様、真実は何なのかを追求するところにあるからだ。 

 

全ての人に真理の探究は必要ですね。    

 

>米国でコロナのワクチン接種後に何人死んだ、というのは、水を飲んで24時間以内にたくさんの人が死んでいる、というのと同じ話だ。>前後関係を並べてもそれは因果関係を導かない。>メディアは「これは米国の自然死から予測される死亡数を逸脱するものではなく、ワクチンの安全が脅かされているわけではない」と言うべきなのである。

 

そうですね。正しい結論が非必要ですね。     

 

>それこそがインプリケーションだ。

 

有意義である (significant) というべきでしょうね。   

 

>インプリケーションを言わないままに数字だけ並べる。>中立を装っているが、これはれっきとした「ワクチン反対論」であり、センセーショナルに視聴者や読者を怖がらせて喜んでいるのである。

 

未必の故意 (willful negligence) ですね。     

 

>メディアだけではない。 >医者にもこのような「嘘をついてないけど、嘘つき」は多い。

 

残念なことですね。   

 

 

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