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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

成毛眞氏 2/2  

2021-07-29 03:18:52 | 文化

 

>採用する側としては高学歴の学生を採用しておけば、“東大ならだめでもしかたがないね”と人事担当者も社内にいいわけができた。>TOEICの点数での足切りなどを採用基準に設けた企業もあったが、これも採用の手間とコストを軽くしようという学歴と同じ理屈だ」

 

我々は個人の意思に着目すべきですね。その目的のためには面接試験 (interview) が重要になりますね。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動の本人に説明責任はとれない。  

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

日本人には罪がない。意思の無い人には罪がない。意思の無い人には被害者意識はあっても、加害者意識がない。だから日本人は罪悪感に苛まれることがない。これはアニマルも同じです。だから、日本人には罪がない。

日本人に謝罪を勧めたらどうなるか。それは自虐行為の勧めと受け取られて恨みを買う事必定である。 日本人は贖罪を語らない神道・仏教の周辺に集まっている。とにかく、罪の匂いのするものは日本人は嫌いです。それは陰気のもとになる。 

罪の意識のない人には、魂の救済も必要でない。だから、贖罪の為の宗教 (キリスト教) も、わが国では力を持つに至らなかった。

戦後の占領軍のWGIP ( War Guilt Information Program: 戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画) も見事に失敗しました。日本人に対する罪悪感の宣伝はカエルの面に小便の状態になったのです。 

自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。’自由のはき違え’ となる。だから、昔からの ’不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。 

欧米人は哲学と意思により行動を説明する。日本人には、哲学と意思がないので、人の行為を ‘建前と本音’ を使って説明する。建前は (口実・言い訳・言い逃れ) である。本音は、(私意・我儘・身勝手) である。だから、現実の中に行為がうずもれて低俗な感じは避けられない。意思は未来時制の文章内容になるので意味があるが、恣意はバラバラの単語 (片言・小言・独り言) のままで存在するので意味がない。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

 

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> しかし、就職のために激しい受験戦争が繰り広げられていた時代から、日本は超高齢化社会へ突入。>本書が伝えるところによると、日本の総人口は2019年で126167000人(10月時点)と9年連続でマイナスとなり、2040年には11000万人程度に減少。>その内訳を見ると、3人にひとり以上が65歳以上の老人で、働ける人(生産年齢人口)の数も減少が加速。>2040年の日本は、慢性的な働き手不足になるといいます。>「少子化が進んだ今、若い人の人口が減り、売り手市場になった。>学歴が持つパワーは、就職戦線でかつてほどはなくなってきている。>これからはなおさらだろう。

 

真の学歴は頭脳不足を補うために用意されるべきものでしょうね。それを人手不足の補いに利用しようとする考え自体が間違っていますね。      

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。   

 

>2040年には、18歳の人口は今と比べて8割にまで縮む。>そもそも、企業側の、学歴に基づいて大量採用して、そこから優秀なヤツが育てばいいという旧来型の採用モデルは現在でも破綻しつつある。>学歴があればどうにかなる社会は、完全に過去のものになる」  

 

そうですね。無哲学・能天気の人々の住む学歴社会には意味がありませんね。ああ空しい。    

 

> 子どもたちが“就職のための学歴”の呪縛から解放される近未来の日本。 

 

日本人は階称の虜になっていますね。日本人が学歴以外の序列を見つけることもまた困難でしょうね。   

 

>喜ばしいことと思いながらも、“学歴”というわかりやすい物差しをひとつの羅針盤として育ってきた親たちは、いったいどのような道を子どもに示せばいいのでしょうか。 >著者は次のように語ります。 >「就職に学歴が関係なくなるのだから、これからは、親も子どもに、それぞれが好きなことを見つけて、好きな仕事や自分の人生を創造する後押しをしてあげるべきだ。  

 

そうですね。我々日本人には個人主義の理解が必要ですね。言語の役割をその機序 (mechanism) に従って説明するのが解決法に役立つでしょうね。    

特亜三国 (日本・中国・韓国) の民には、現実があって非現実がない。現実を内容とする文章はあるが、非現実を内容とする文章が存在しない。だから、技術 (実学) があって、哲学 (考え) がない。考えの内容は人様ざまであるので、個性的になる。だが、特亜三国においては、英米流の高等教育が成り立たない。現実の内容を現実の中で再現すれば、それは模倣をしたことになる。非現実の内容を現実の中で実現すれば、それは創造になる。特亜三国の民は、模倣が得意で創造が苦手である。だから、模倣の競争には参入者が多く、創造には少ない。模倣の競争は没個性の競争であり過酷なものになりがちである。アニマル風の競争である。個性を伸ばそう。創造力をつけよう。そして、ゆとりある人間らしい生活をしよう。   

 

>学校や塾も行きたくなければ行かなければよい。>代替案としてオンライン教育が整備されるのは間違いないのだから」

 

そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

>2040年を待たずして、子どもたちの教育環境はもちろん、親たちの働く環境も劇的なスピードで変化を遂げているコロナ禍。

 

われわれ日本人は遠い未来の行き着く先を示すべきですね。その実現に努力する。そして世界をリードする。       

 

>20年先を見通すための知識、そして体に染みついた固定観念をアップデートするためのヒントが、本書には詰まっています。

 

興味がありますね。   

 

>著者プロフィール   

>成毛 眞(なるけ・まこと)さん:1955年北海道生まれ。

>元日本マイクロソフト代表取締役社長。

>1986年マイクロソフト株式会社に入社。

>1991年、同社代表取締役社長に就任。

>2000年に退社後、投資コンサルティング会社「インスパイア」設立。

>現在は、書評サイト「HONZ」代表も務める。

>amazon 世界最先端の戦略がわかる』(ダイヤモンド社)、『アフターコロナの生存戦略 不安定な情勢でも自由に遊び存分に稼ぐための新コンセプト』(KADOKAWA)、『バズる書き方 書く力が人もお金も引き寄せる』(SB新書)など著書多数。

>構成/金澤英恵   

 

 

 

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成毛眞氏 1/2  

2021-07-29 02:55:52 | 文化

 

>2040年に“学歴社会”は終わる...子どもの未来に絶対必要なものは?   >7/21() 7:16配信

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>20年前、今の世の中がどうなっているか想像できていた人はどのくらいいるでしょうか? > iPhoneが発売されたのは今から13年前。>それからあれよあれよという間にスマートフォンが主流となり、インターネット環境が整備され、日本人の生活も様変わりしました。>薄型テレビの登場には「『ドラえもん』の“壁掛けテレビ”キターー!」と驚嘆していた筆者 [金澤英恵] ですが、それもありし日の思い出。>「もう、時代のスピードについていけない……」と呟いたところで、確実に未来はやってきます。

 

未来は我々が作るものですね。そうでなければ希望もない。      

 

>“未来の世界”に一抹の不安を抱える筆者のような方にぜひ参考にしていただきたいのが、元日本マイクロソフト代表取締役社長の成毛眞さんが執筆した『2040年の未来予測』。 >本書は、「今」のデータや状況を分析することで、20年後の世界、そして日本がどうなっているかを教えてくれる一冊です。>今回はその中から、成毛さんが考える“日本の学歴の未来”についてご紹介します。

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>日本では学歴の意味がなくなる   >著者は本書の中で、「日本では、これから2040年に向けて、学歴の価値は下がっていく」と明言。>衝撃的な一言のようにも思えますが、日本の大学進学率を見るとすでにその傾向が表れていると言います。 

 

もともと我が国には意味のない学歴が存在するからでしょうね。  

 

>「そもそも世界的に見ると、日本はもはや学歴社会ではない。>受験制度も私が学生の頃と大きな枠組みは変わっていないし、国際比較すると日本の教育水準は大幅に低下していることがわかる。>OECD加盟36か国の大学進学率の平均は58%だ。対して、日本は49%にとどまり、下から11番目だ(※)。>別に大学に進学しようがしまいが個人の勝手だが、バブル崩壊の処理に追われている間に、世界から日本が取り残された現実は覚えておいた方がいいだろう」

>※国立大学協会「2019年国立大学法人基礎資料集」より。>カナダ、アメリカはデータが提出されていない  

 

もともとわが国には英米流の学問はない。 それが元の木阿弥に返ったのでしょうね。    

 

> 1990年代に起こったバブル崩壊による日本経済の急激な後退。>その「失われた20年」の間に、日本の教育は世界に水をあけられてしまったというわけです。

 

経済 (脳の外) の影響ばかりではなく、脳髄 (脳の中) の問題にも関係しているでしょうね。   

 

>さらに、大学生の学習傾向とその理由についても次のように言及します。>「大学生が勉強しないのも同じだ。>大学生の平均学習時間は小学生よりも短いという統計調査もある。   

 

() しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)       

 

>なぜ勉強しないかというと理由は簡単で、勉強しようがしまいが、大半が入社する企業での処遇がほとんど変わらないからだ。   

 

そうですね。無哲学・能天気で暮らすのであれば、企業の処遇は勉強の量には関係がないですね。   

現実の内容は頭の外にある。それは見ることができる。見ればわかる。アニマルでもわかる。考える必要がない。だから楽ちんである。   

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。それは見ることができない。その内容はただの話である。

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。

文章の内容は文法に従ってその単語を逐一理解しなくてはならない。これは骨の折れる仕事である。だから、通常日本人は文章の理解をしない。馴れ合いで済ませている。   

馴れ合い・‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることである。

() しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)     

 

>アメリカでは大卒と博士課程修了者は初任給が約5割違うが、日本の場合、よくて2割程度だ。  

 

日本ではインテリが企業の役に立っていないということでしょうね。    

 

>学生にしてみれば金も時間もかけようと思わないだろう。>むしろ、理系ですら博士まで進学すると給与があがるどころか就職口も減るのが現実なので、誰も進学しようとしない」 >知識と専門性を深めることができる大学という学びの場。>しかし、どれだけ大学で勉学に打ち込んだとしても、就職すれば環境も報酬も「新卒」と十把一絡げにしか扱われない日本。

 

それは日本人社会が学問を軽視している動かぬ証拠ですね。   

我が国には人手不足は生じても、頭脳不足の生じた話はない。きっと、頭脳不足を人手により間に合わせる習慣があるからでしょうね。   

 

>学びへの情熱はいつしか、「○○大卒」と履歴書に書ければいいや、という気持ちにすり替わっても無理はないかもしれません。

 

そうですね。日本人は名を見て実を見ていない。    

 

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> 「結局、多くの人が大学に行こうとし、熾烈な受験戦争まで起きたのは、大学に行くことが就職するためには必要だったからだ。 >日本は戦後長い間、右あがりの成長を続けた。 >“いい会社”に入ることができれば安泰だったのだ。

 

熾烈な受験戦争はわが国の学問の発展には関係がありませんね。学歴重視は嘘も方便のようなものですね。   

いい会社いいは、序列順位のことですね。ただ漠然と下のものほど割が悪いという言い伝えから来ているのでしょうね。身分格式の感覚に囚われていて個人の幸福とは直接関係ありませんね。我々は個人の幸福を重要視すべきですね。自分の好きなことに励んでいる人は、疲れを知りませんね。

 

>もちろん、大学に行かなくても就職口はあったが、安定して高い給料がもらえる“いい会社”は競争率が高かった。>そして、なぜそこで競争が起きたかというと、大企業の席が少なかったからだ。 

 

寄らば大樹の陰ですね。個人主義の抜け落ちている社会の格言でしょうね。      

 

>つまり、人口が増え続けたから、“いい会社”の採用枠に対して応募する学生が圧倒的に多かった。>大勢の中から少数を採用するため、企業は採用基準を設ける必要があった。>それが学歴だった」   

 

序列順位を使った選別法は、わが国の序列社会における人間のごく一般的な選別法ですね。在り来たりであり没個性ですね。       

 

> ポスト団塊ジュニア世代であり、就職氷河期世代、失われた世代と言われた筆者 [金澤英恵] も、この「大学に行くことが就職するためには必要だった」という時代の空気はひしひしと感じていました。 

 

これは物事を深く考えない人たちの起こす社会現象でしょうね。    

 'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

だから、’自明の理 (self-evident) である’ といった内容の強調の仕方を日本人はしない。  

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)

周囲の気分・雰囲気を敏感に感じ取る態度が日本人に高く評価されている。

‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

日本人は自己の思考を停止しており万事受け身で対処するが基本姿勢となっている。 

 

>大企業への就職は、もはやそれだけで揺るぎのない未来を手に入れた“勝ち組”のようなもの。

 

没個性の人からなる勝ち組はさぞかし人生が空しいでしょうね。   

 

>「正社員になりたいなら学歴がないとお話にならない」――この最低条件は“いい会社”に限らず、多くの企業にとって同じだったように思います。>「もちろん、必ずしも“高学歴=仕事ができる”わけではないのはみなさんもご存じだろうが、手間やコストをかけずに採用するには、学歴が最もわかりやすい指標となった。  

 

そうですね。日本人には最も分かりやすい上下の指標が常に必要ですね。上下の証拠を見せれば文句が出ない。   

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

 

 

 

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