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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

学歴エリート 2/2  

2021-07-10 11:12:56 | 文化

 

>これは、権力の自家中毒であるが、恐ろしいことにその病癖は麻薬中毒よりももっと酷い結果をもたらすことになる。  

 

昔からわが国は権力の自家中毒でしたね。権力者に責任感というものがない。

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動の本人に説明責任はとれない。  

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 (腹) の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。 

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

 

>何れも、社会統合という最重要課題が分業体制(専門家体制)によって担われてきたが故に生じた問題であるが、金貸しの特権階級(幹部)に対する買収と脅迫の横行にせよ、支配の快感に溺れてゆく特権階級の自家中毒にせよ、専門家体制が末期症状を呈していることだけは間違いがない。

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

 

 

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学歴エリート 1/2  

2021-07-10 10:45:49 | 文化

 

>2021-07-05 >【エリート=詐欺師】学歴エリートの自家中毒  >『るいネット』「学歴エリートの自家中毒」から転載。  

 

我が国のエリートが詐欺師と呼ばれるのは残念なことですね。  

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官) 

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。  

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の手段でもありますから、思考の歪みに気づいたら日本語の構造を調べてみる必要がありますね。そうすれば、原因療法が見つかるかもしれませんね。 

 

>マスコミ、政治家、官僚など、現在(団塊世代以降)の特権階級は、大半が貧困=本当の私権圧力を知らず、従って本当の目的意識を持ち合わせていない。  

 

そうですね。昔から日本人は無哲学・能天気ですからね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。

 

>彼らは、単なる試験制度発の「合格」という無機的な目的意識(もちろん、それは肉体的欠乏に根ざした本気の目的ではない)を植え付けられて、ひたすら試験勉強に励み、「特権」を手に入れた連中である。

 

そうですね。彼らは序列社会の勝者ですね。彼らの特権は意思を行使するための手段であって、恣意 (私意・我儘・身勝手) を行使するための手段ではないはずである。      

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

 

>又、彼らの大半は、試験制度という与えられた枠組みの中でひたすら「合格」を目指してきただけで、その前提を成す枠組みそのものを疑うという発想が極めて貧弱である。

 

そうですね。彼らは日本語の枠組みを疑うことはできませんね。彼らは序列社会に取り入れられた試験制度をただ利用しただけですね。    

 

>従って、彼らは社会に出てからも、ひたすら既存の制度の枠組みの中で走り続けることになるが、もはやそこでは、既存制度によって与えれた特権の維持と行使という目的以外の目的意識など生まれようがない。  

 

そうですね。処世術 (損得勘定) が彼らの出発点ですから、次の世界への展望はありませんね。   

 

>かくして、団塊世代がトップor幹部に就いた’00年以降、彼ら特権階級は、ひたすら与えられた特権を行使し、次第に「社会を動かし」「世論を動かし」ているという支配の快感に溺れてゆくようになって終った。 

 

無哲学・能天気の人間の満足感ですね。昔からある天下人の気持ちですね。あくまでも気分・雰囲気の追及ですね。      

 

 

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ブレない人 3/3  

2021-07-10 03:38:17 | 文化

 

>みんながそういうならやってみる、とか。みんなが反対するからやらない、とか。自分自身の意思が無い、もしくは信念が無いので軸が固まっていかないのです。いってみれば、隣の芝生が青く見えれば、隣の芝生に寄っていく、タイプです。

>たとえば、どこのライバルもブログをやっているからブログをやる、ニュースレターがいいと聞けば続きもしないニュースレターをする、SNSくらいやっておかないと!と周りにいわれ慌ててインスタ、facebookやツイッターを始めてみる。>なんてのも同じことです。>まわりの意見や動きが気になり、合わせるのです。

 

見たもの乞食ですね。人の振り見て我がふり直せですね。      

 

>そのようなタイプの人は、商売・ビジネスでは大成できません。

 

そうでしょうね。   

 

>まわりの意見や行動に合わせるだけですから、思考力も発想力も養われないし、大事な決断も自身で出来ないのですから、当然のことです。>「家族、友人、親戚、知人、誰1人応援してくれる人はいないけどみんなが認めてくれるまでやり遂げます」というような人でないと商売・ビジネスの世界で生き残っていくことなど出来ません。>たとえば、社内の企画会議で自分の企画が多数決で却下になったとします。>ですが、この企画をさらにブラッシュアップして、違う形で提案してみる。

 

手を替え品を替えの努力ですね。    

 

>「採用されるようにするにはどの部分をどうブラッシュアップする必要があるのか?」などと考え実際に何度もプレゼンする人が生き残れるのです。>まわりが反対するから自分も反対する。>まわりが賛成するから自分も賛成する。>まわりがやらないから自分もやらない。>まわりがやるから自分もやる。>自分はそういうタイプだと思っていれば要注意です。  

 

そうですね。それは付和雷同型の人ですね。    

 

>まわりに決して流されず自分軸を持って仕事をしていくにはどんな工夫や取り組みができるでしょうか?

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

>また、何を学ぶことが必要でしょうか?   

 

哲学でしょうね。これは大人になる為の勉強ですね。      

 

>■今日のまとめ  >「周りに流されるようでは成功どころか失敗すらできない」>まわりの意見や動きに敏感になりすぎていないか? 

 

思考停止をしている人は不安ですから、まわりの意見や動きに敏感にならざるを得ませんね。思考停止の社会には受け売りの専門家が跋扈していますね。   

我が国には人手不足はあっても、頭脳不足の話はありませんね。きっと精神労働としてなすべき仕事を肉体労働に替えて労働不足を補っているのでしょう。そして、その無理が祟ってわが国の進歩が鈍るのでしょうね。   

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

>いつも自分の意思を持って判断し行動できているか?確認する 

 

それは日本人には難しいですね。日本人には意思がないからです。     

 

>自分の意志を持って行動していくために必要なことを列挙する  

 

日本人には何よりも英語の勉強が必要ですね。できれば英米流の高等教育を受けると人生の役に立ちますね。我々日本人は優柔不断・意志薄弱ではいられません。        

 

>上記2点を踏まえ、実践する

 

それができると良いですね。  

 

 

 

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ブレない人 2/3  

2021-07-10 03:14:38 | 文化

 

>「みんながこういってるから、そうしよう」という場合に、その中に自分の意思があって、同調する場合なら問題はありません。 >ですが、そうでない場合は、他人の意見に合わせればいいだけなので、考えることをしなくて済むし、決断するという責任も背負わなくて済むし、ぶっちゃけ楽なのです。 >楽な分、どんどん思考力や発想力、決断力というものが鈍っていきます。

 

そうですね。民主主義は衆愚政治に変質しますね。   

 

>ビジネス・商売の現場で最も大切な3つの力を養うことすら出来ないのですから、成長、成功なんてできるはずもありません。  

 

最も3つの力とは 思考・発想・決断 の事ですね。   

 

>これまでに自ら事業を興して失敗してきた人も成功してきた人もたくさん見てきましたが、大成している経営者を見てみると、みなさん、とにかくブレずに進んでいます。 >起業当初は資金が無いのでトコトン考え工夫しながらブレずに行動する、それを繰り返す…。 >周りに起業することを反対されたけど、どうしてもやり抜きたい一心でぶれることなくここまでやってきた、とか。 >決して裕福で潤沢な資金が無い、精神的支えとなるべく応援してくれる人すらいないという環境の中で、ブレずに進んで思考・発想・決断という力を研ぎ澄ませてきているのです。  

 

大成するにはブレないことが大切ですね。   

 

>「周りが反対するなら、その倍を見返すくらいになるにはどうすればいいだろう?」 >「お金が無いなら無いなりに工夫はできるはずだ、実際どんな工夫をしようか?」 >そんなことを徹底してきているのです。 >周りがどうこうなんて入り込む余地もないくらいに徹底して発想を膨らませ思考・決断し行動に移す。 >そんな中で取り組んできているからこそ、まわりが反対しようが、まわりがこうしているから、とかに一切関係の無いところで、軸がドンドン固まり、やがて太い幹となり成果が現れるのです。  

 

我が道を行くということですね。   

 

>一方、問題なのは、先ほどの飲食店の店長のように「まわりの声」に敏感になりすぎていることです。

 

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)      

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)       

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。個人の価値判断が抜け落ちている。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、日本人は個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。 

 

 

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ブレない人 1/3  

2021-07-10 02:54:15 | 文化

 

>368513        周りの声を「聞きすぎる」人は、いつまで経っても成長などしない

>土偶 ( 26 会社員 ) 21/07/09 AM10

>ブレない人が生き残る あなたは大丈夫? >「周りのみんなが反対するから、自分も」「業界ではこれが常識だから、この方が無難だ」とか、「ライバル店もやってるから、うちでもやってみるか」などと自分の意思を持たずに判断や決断をしたり、周りの意見や声が気になって仕方がないという人のほとんどが「ブレる」人です。>こういう人のビジネススキルや成長は難しいものがあります。>こういう経営者の会社は伸びませんし、そこで働く人も育ちません。>まわりが反対するから、止めておこう >まわりがこんなことをやってるから、うちでもやることにしよう >みんながそういうなら、そうしよう >そんな判断基準しかないということは、言い換えれば、自分で決断することから逃げている状態。>責任感が希薄しているか、あるいは全く無いので、いつまで経っても楽な方へ逃げたがります。  

 

そうですね。思考停止の状態にある人は楽ちんですね。   

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

日本人には意思がない。だから意思決定はできない。意思決定が必要な時は、恣意決定に頼ることになる。つまり、事の次第・自然の成り行きで決着をはかる。このやり方は、アニマルも同じである。

恣意 (私意・我儘・身勝手) はバラバラな単語のままで存在するから文章にならない。だから、意味はない。行為・言動の本人に説明責任はとれない。  

日本人には、恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) があって、意思疎通 (相互理解) がない。恣意 () の探り合い (談合) があって、意見の交換 (議論・対話) がない。恣意決定 (盲目の判断) があって、意思決定 (理性判断) がない。だから、日本人の責任者は説明責任が取れない。未来は一寸先が闇である。危険が一杯である。お変わりのないことが何よりなことである。

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。

 

>コンサルタントの現場でも過去にそういったことがありました。 >ある専門飲食店の業績が悪化していたのでメニューを拝見すると、○○が専門なのに、もう何屋さんか分からないくらいのメニューになっていたので、「メニューにある、これと、これとこれ、を止めてください」と提言すると、「えっ、そんなに?それじゃ90%は要らないってことじゃないですか」「そうですよ、だって、これじゃ何屋さんか分からないじゃないですか」「…分かりました。料理長と話し合います」。

>結局、返ってきた返事は、厨房スタッフみんなに反対されて現状のメニューを減らすことはしないということでした。>その数ヵ月後、このお店は静かに閉店しました。 

 

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)     

 

 

 

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