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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

新しい認識  

2021-07-13 11:22:37 | 文化

>日本人らしさを方向づけた母系家族の由来と様相 | メイン | >20210708

>西洋と東洋(又は日本)、単に比較だけでは前に進まない。 

 

そうですね。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

>対立ではなく共に認める事実を提示することが本物の可能性になる。  

 

そうですね。それは良い提案ですね。      

 

>今回も実現塾からの新しい認識をお伝えします。 >このブログの今後の追求の方向性にも通じる重要なメッセージです。 

 

過ちては改むるに憚ることなかれですね。

 

>―――――――――――――――――――――――――――――――

>長らく本源性を有してきた日本人(縄文人)の価値観と戦争を発祥し、私権社会を作り上げてきた西洋人の価値観は180度違っている。  

 

東は東、西は西ですね。   

 

>西洋人の過去5000年で作り上げた体質やその帰結としての社会の総括は今後100年は続くだろう。>私権社会やその帰結としての個人主義や偏った西洋科学、環境破壊から学校教育を通じた左脳偏重の心の破壊はやがて明るみに出て、その総括が議論されていく。  

 

日本には個人主義がない。だから、日本人社会は個人の優れた考えに期待していませんね。これは大変な損失です。      

 

> しかし、今やるべきことは東洋と西洋の違いを上げて東洋優位、西洋下位を示すことだろうか?

 

上と見るか・下と見るかは、日本人の得意な判断ですね。有益な判断でしょうかね。     

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。    

 

>その方法でこれまで考えてきたが、そのやり方は正しくなかったのかもしれない。 > にほんブログ村 歴史ブログへ

>例えば子どもが真っ当に育つ為にはまず十分なスキンシップと仲間との外遊びが大事。>この事実を西洋はNOと言うだろうか。>東洋も西洋も関係なくそうだと納得するのではないか?   

 

そうでしょうね。    

 

>いや、むしろ西洋の方がその事実に目を向け子どもには進んで外遊びをさせるような動きが出ている。>また、これだけ環境破壊が明白になった現代、自然との共生、田舎暮らしの必要性、自然から学ぶ教育を打ち立てて反対する西洋人が居るだろうか?  

 

日本人は現実直視が苦手ですね。だから、手つかずの自然を楽しむよりも、整えられた自然を好む。日本人はキャンプ・探検よりも日本庭園・岩風呂の方に注意を向ける。後者の方が高級感があるのかな。   

 

>むしろ西欧の一部からその必要性がいち早く国家方針に取り入れられ、進んで実践しようとしていないか。

 

SDGs (Sustainable Development Goals: 持続可能な開発目標) ですね。   

 

>さらに行き詰まっている西洋科学、まったく解明できていない人体の謎、脳科学、さらに心の世界、さらに活力論まで、可能性を探っているのは日本より西洋の方が進んでいるきらいもある。  

 

科学は哲学である。すなわち人間の考えである。自然は変わらない。変わるのは人間の考えの内容である。 だから、科学は限りなく進歩する。   

 

> 実現塾で提起されたのはこういう考え方だ。>現代社会全体が行き詰まっている現状、自然の摂理や生命原理に基づいた事実は、もはや誰も反論しない。>むしろ西洋、東洋にこだわらず”事実は誰もが認める”という方向に舵を切り替えたほうがよいのではないか?  

 

大和風の忖度 (推察)・歌詠みでは話にならないですね。 

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実と非現実 (考え) は区別して語らなければならない。そうでなければ、現実の内容は白昼夢と区別できない。これはキチガイ沙汰に違いない。だから、日本人は自分の持つ非現実 (考え) を語らない。これは子供と同じ状態である。日本人の考えの内容は哲学にはならずして、空想・妄想の類になる。だからわが国では英米式の高等教育が成り立たない。お陰様で、わが国は '漫画・アニメ' の大国になった。  

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。 ‘なれ合い’ とか‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることである。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので話にならない。かくして、日本人の対話は不可能になる。   

 

>対立はダメ、対立は本物ではないということだ。

 

正・反・合とゆくのでしょうかね。   

 

>事実は誰もがすっと受け入れ、実践していく中にある。 >日本人だけでなく西洋人含めて本来の自然の摂理に依拠した社会に戻していく。 >そういう考え方が実現の思考ではないか。

 

非現実の内容を現実の世界で実現出来れば、それは人間が創造力を発揮したことになりますね。   

 

 

 

 

 


学と考  

2021-07-13 03:27:36 | 文化

 

>368613        「学び」と「考える」の両方がなければならない  >匿名希望       21/07/12 PM08

>リンクより引用

>コンサルティング業界は一般的に優秀な人材が集まる場として認識されている。  

 

我が国には人手不足はあっても、頭脳不足の話しは聞いたことがありませんね。きっと頭脳を人手で間に合わせているのでしょうね。天下の秀才ばかりではどうにもなりませんからね。     

 

>実際その通りだとは思うし、いわゆる「つかえないおじさん」的な社員はいない(そもそも40代以上はぐっと減り、役員でもない限り50代はいない業界ということもあるが)。

 

知力よりも体力ですかね。   

 

>が、しかし「過去の経験だけで食っているな」「特定のソリューション知識をただ単に切り売りしているだけだな」と感じる人もいるし、また「もっともらしいことを言っているけど論理的な裏付けがないな」と思ってしまう人も、少なからずいる。  

大抵の日本人は思考を停止している。だから、話をしようとすれば他人の内容を受け売りするしかありませんね。   

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

>ただそれでもクライアント企業に対して「売れて」いるわけであるし、人材の質、より正確に言えばランクに対する人材の質のバラつきはチーム編成でカバーしているように見えるし、それが「組織力」なのかなとも考える。  

 

そうでしょうね。力を合わせてやっているのでしょうね。   

 

>さてそのように一定以上の能力があれば、組織である以上は会社としての「使いよう」、本人としての「生きよう」があるべきだが、そのような人にはなりたくないと思うのは当然のことだろう。  

 

個人主義の覚醒ですね。男は大志を抱けですね。   

 

>そうならないために、私には常々気を付けている言葉がある。 >子曰、学而不思則罔、思而不学則殆。 >学んで思わざれば則ち罔し(くらし)。思うて学ばざれば則ち殆し(あやうし) 

 

論語・為政に見える孔子の言葉ですね。   

 

>非常に単純明快な言葉であるが、「学んでも自分の頭で考えなければ分かったとは言えない。一方で、自分勝手に考えるだけで学ぼうとしないのは危険なことだ」という意味である。>これはまさにその通りだ。>知識は活用するためにあるのであり、ただインプットを増やすだけでは本質的な意味はない。  

 

記憶装置だけでは知識は活用できませんね。意思決定 (理性判断) のできる人間が必要ですね。      

 

>また、流れの早い現代においては、新しく学んだ最新知識も数年したら陳腐化してしまうわけで、学んだ知識にどう意味があるのかであったり、それがその他の知識とどう関係しているのか、つまり体系的な整理がされなければ、ただの一過性の知識として終わってしまう。  

 

そうですね。経営哲学が必要ですね。日本人は無哲学・能天気であるから困りますね。   

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)   

 

 

 

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>さて一方で、自分の頭で考えるだけ、つまり学びによる裏付けのない決め打ちは、、、危ない。 

 

そうですね。恣意決定 (盲目の判断) は危険ですね。   

 

>あまり政治的な話をするのは好きではないのだが、右派にせよ左派にせよ、ここ数年の発言の「目立っている」人の意見を聞いてみると、どうもただの思い込みや、ある一面だけから物事を語っているのではないか、と思うことが非常に多い。  

 

それは残念なことですね。  

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので話にならない。かくして、日本人の対話は不可能になる。 

 

>コンサルティングの現場ではクライアント企業に対して提言を行うのが仕事であるが、それもやはり「ただのアイディア」「単なる思い付き」では意味がないというか、クライアント企業支払っている高いフィーを正当化することができない。

 

そうですね。提言という精神労働の対価ですからね。   

 

>そのため、いわゆる経営のセオリーや、業界内外の最新の動向、クライアント企業内部のFactを集め、それをフレームワークを用いて説得力のある形で説明するのである。  

 

日本人は自分の話に説得力を持たせるのが下手なようですね。自分自身に話の内容 (哲学) がないからでしょうね。      

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)   

 

>自身の提言がクライアント企業の意思決定を左右するわけであるから、このプロセスが必要不可欠なのである。

>がしかし、このプロセスをどこまで突き詰めるかはどうしても個人差が出てしまうし、また時間的制約もあるので、ベターの中のベターの表現になってしまう面もあるのだが、またそれは別の話・・・

 

考えの内容は人によりけりですからね。矛盾を含まない文章は全て正しい考えを表している。だから正解は幾らでもある。自分自身の個性を生かしましょう。   

 

>なお自分にとっては、このブログもまた罔く(くらく)ならないための、そして殆く(あやうく)ならないための手段である。>文字に表すのは、学んだものを自分の中に定着させるためにも、また考えたことを整理するためにも、最適な方法だと思う。

 

そうですね。全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。  

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。  

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 

 

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