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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

科学的方法

2019-03-27 18:09:18 | 哲学

>科学的方法で得られた知見は「客観的」知識であり、自然科学の探求は世界の“真の姿”の描写を目指している、といった、信仰に近い考え方がある。

そうですね。ありますね。

>科学者の間にも、また一般の人々の間にも、かなり根強く普及している神話である。>この“客観性信仰”は、科学者共同体が、自己正当化し、権威付けを行うのに都合のよい宣伝文句として利用されているが、実質の伴わない思い込みに過ぎない。

そうですね。自己正当化と権威付けには都合が良いのですが、実質は伴いませんね。

>実験的方法と数学的解析を結びつけた実証主義的方法論を核とし、機械論的自然観に根ざした近代科学は、17世紀のヨーロッパという歴史的・地域的制約条件のものと成立してきた。>人類に普遍的な思考様式などではない。

そうですね。人類に普遍的とは大きく出ましたね。考えは、人それぞれですから、

>近代西欧文明の価値観を反映し、また西欧文明のあり方に影響力を行使しつつ、自然科学は発展してきた。 >つまり、科学的認識方法は、世界の見方に対する「歴史的伝統」のひとつなのである。

そうですね。一種の世界観ですね。

>科学者は往々にして、このことに無理解である場合が多いのだが、それは科学的物の見方・考え方が当たり前と思い込むように、高校、大学、大学院の研究室で教育され、自明のものと受け取るようになっているからであろう(振り返ると私も大学時代にそのように教育された)。

暗記の助けとなる思い込みですね。しかし、科学的であると、それ相当な現実的な力を発揮しますからね。相手は、無視できません。

>一定の訓練を積まないと、仮説構築や実験プランを立てることは困難である。>その訓練の過程で、いわば“マインドコントロール”され、自身の思考様式が客観的・普遍的様式であると誤認するようになってしまうのではなかろうか。

そうですね。何しろ自分に都合の良いデータばかりを使って、話の筋をこらえるのですからね。現実の内容に取捨選択がかかる。都合の悪いデータを使って、自分の話を成り立たせた人を見たことがない。

>自然科学の諸分野では、分野ごとに、一定の約束事で世界を切り取っている。

そうですね。専門分野に分かれていますね。約束事を飲み込むと、わかりが早くなります。

>複雑で多様な世界を理解するために、理想的状態―真空中の運動、分子間力と大きさのない理想気体分子など―を仮定したり、物体の性質のうち数式化に馴染みやすい性質のみを考察の対象にしたりする。

そうですね。そうすれば、話が分かりやすいですね。

>これらは、科学者の共同体において、歴史的に形成されてきた必然性のある約束事である。 >ある時代の科学者集団は、その研究の生産性の観点などから、一定の自然像を暗黙のうちに選び取り、その自然像と親和的な枠組を構築して、その内部で研究が行われる。>そして科学教育も、その枠組の内部で行われ、科学者が再生産される。

そうですね。そうでなければ、話が容易に成り立ちませんからね。

>科学的世界観は、いわば“恣意的”に切り取られた約束事の上で成り立っている人為的な世界模型なのである。

そうですね。あくまでも人間本位の精神活動によるものですね。

>もちろん、“恣意的”だからといって、科学的認識が現実的な世界把握から無制限に隔たってしまうわけではないが、科学に内在する方法論の束縛のため、ある一定の制約を受けているのは確かであろう。

現実と ‘付かず離れず’ ですかね。

>ところで、用いる言語の違いによって、その言語で分節される世界像が異なってくることは、よく知られている。

それは、そうですね。経験哲学とインド哲学では、世界像が全く異なりますね。

>人は、言語を通して、世界を把握する。

そうですね。言語を使うところがアニマルと違うところですね。

(略)



思考停止人間

2019-03-27 13:32:49 | 言語


>技術が進む現代で、”使う人”自身の力(意志)がなければ、うまく機能しない。

そうですね。日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には、時制 (will) というものがない。だから、日本語脳には未来時制はなく、日本人には意思 (will) がない。
日本人は、意思がないが、恣意 (self-will) がある。これは、言語を使わないアニマルにおいても同様である。意思は、文章になるが、恣意 (私意・我儘・身勝手) は文章にはならない。バラバラな単語 (小言・片言・独り言) のままで存在する。恣意には、意味も無い。
全ての考えは、文章になる。文章には意味がある。文章にならないものは、考えではない。文章にならないものには意味も無い。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 日本人に意思がない。仕方がないから、無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。そこで、精神を鍛えなおす必要性を認める人も多かろう。
精神を鍛えるためには、武芸の稽古をする。この鍛錬により、動作は機敏になる。が、リーズン (理性・理由・適当) のある人間はならない。だから、精神主義には弱点がある。
意思のある人間は、責任者としての資格がある。意思の容認されない社会においては、個人の意思にも個人の恣意にもに権力を付託できず、責任者が見当たらないので社会問題の解決が難しくなる。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎>の中の <とらえどころのない国家> で、次の段落のように述べています。
国会両院以外に、国家の中核として権力を持っているらしく見える組織は、官僚と大企業である。だが、この両者のどちらにも、究極的な権力はない。ボスはたくさんいるが、ボス中のボスといえる存在はないし、他を統率するだけの支配力のあるボス集団があるわけでもない。首都が国の経済、文化の中心だという意味では、日本は高度に中央集中型の国と言える。東京は、パリやロンドンに負けず劣らず、”すべてのものがある”大都市である。大企業は、中央官庁の役人から離れないよう、本社あるいは重要な支社を東京に構える。主要教育機関も、ここに集中している。予算陳情のためには、地方自治体も国の中央官僚に取り入らなければならない。東京以外には、重要な出版産業も娯楽産業もほとんど存在しない。ところが、この地理的中心地には、政治の中核がないのである。どの国についても、国家の実態をとらえるのは容易ではないが、日本の場合はとくに、バケツの中のウナギを素手でつかまえる、ということわざのたとえそのものである。指令の流れる経路、責任の中心、見え隠れする政策決定上の実際の動きなどが、すべて気が変になるほど、とらえどころがない。(引用終り)

>つまり、劣化していくばかりで、思考停止人間となってしまう。

日本人は、思考を停止している。
現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。見ることができない。ただの話である。納得するためには、その文章の理解が必要である。
見ることのできる内容は本当のことである。見ることのできないことは、嘘である。誰も、見て来たような嘘をつく人間にはなりたくない。だから、自分だけの考え (非現実) は、語ることがない。これが、思考停止の状態である。何年もこのような状態でいれば、頭の中には、自分だけの考えはなくなる。そして、受け売り専門の人になる。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のような見解を述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
わが国の論客は、’ああでもなければ・こうでもない’ と言っている。’あれではいけない・これではだめだ’ と力説している。だが、自分はどうであるかを言わない。自分には、考えというものがないからである。
山本七平は、自著 <ある異常体験者の偏見> の中で、反省の押し売りに関する疑問を、下の段落のように述べています。
、、、、、私が常に不思議に思うことは、戦前の「恥を知れ、反省しろ」であれ、新井宝雄氏の「反省が見られない」であれ、本多勝一氏の「恥としなければならない」であれ、軍隊の「キサマラ、反省がタリン」であれ、「恥を知れ、処決せよ」であれ、たえずこの言葉を口にするこの人たち自身が「自らを律しそれを基準にして生きている主義」は、一体全体、何という主義だったのだろうかという疑問である。(引用終り) 


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企業の革新

2019-03-23 14:58:45 | 文化

>日本企業が革新されない理由
>数日前、日本の超の付く名門企業が、自分たちの経営について語っているのを読んだ。>改革への要請に対する企業側の見解である。

名門企業は、改革要請に対する抵抗勢力ですか。

>その時に思ったのは、「さすが東大卒が固める企業や」と。>要請や批判に対して、自分たちの対応とその正当性をそつなく述べる。>秀才である。>日本企業が1990年頃を境に、世界的な地位を低下させているのは、この東大卒の秀才のせいではないのだろうか。

そうかもしれませんね。

>もちろん、東大卒を責めるつもりはなく、秀才の代表として東大を引き合いに出しただけにすぎない。>要するに秀才は要領がいい。>弁が立つ。

‘ああいえば、こういう’ と言うことですね。要するに哲学がない。無哲学・能天気の国民の代表である。つかみどころのない人は、信頼されませんね。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

>過去にあった事例を頭に詰め込み、それを上手に引き合いに出す。

要するに暗記力で問題を処理するのですね。

>日本の高度成長期を支えたのも、この秀才である。

高度成長期は、没個性でやって行けたのでしょうね。

>日本の官僚組織が東大卒で固められていたのは周知の事実であり、その官僚が欧米の事例、つまり過去の経験を手本に、日本経済の羅針盤の役を果たした。>その秀才だが、残念ながら過去に事例のない未来を語れない。

日本人に未来を語らせることは難しいですね。日本語の文法には、時制 (tense) というものがない。だから、未来の内容を文章にして語ることはできない。ということは、未来の内容は思考停止になっている。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。未来時制の文章内容は日本語の文章にないから、未来の内容は日本人の考えになっていない。想定外になっている。

>育ってきた環境とはまったく違う場所において、拠り所を失うのである。

そうですね。未来の内容は、どう考えたらよいのかわかりませんね。

>日本の超の付く名門企業も同じだろう。>その企業では東大卒が羽振りを利かせている。

その特徴は、序列の絆と没個性でしょうね。これは、江戸時代と同じですね。

>彼らが拠り所にするのは、やはり過去である。

有職 (物知り) の存在ですね。

>つまり、既得権益であり、規制である。

既得権益は、序列順位に従って配分されているのでしょう。これが、掟となっている。

>これらを要領良く守り、時代の要請に応じて少しずつ改変しながら生きている。

安定した手法ですね。お変わりのないことが何よりのことです。何しろ、一寸先は闇ですから。

>官僚組織もまた東大卒中心であるので、そことの連絡網も名門企業にとって有利に働いている。

恣意疎通 (阿吽の呼吸・つうかあの仲) ですね。恣意 (私意・我儘・身勝手) を撲滅しないといけませんね。

>言い換えれば、秀才がやれることは過去の事例の踏襲であり、既得権益や規制を長生きさせ、そこからできるだけ多くの利益を長く獲得することである。

暗記力の活用ですね。

>たとえば、何故、日本企業がiPhoneに行き着かなかったのか。>ペン先に時計まで組み込んだ日本企業が、計算機に電話を組み込もうと考えるのは当然の流れだったはずなのに。

そうですね。でも、世の中には、番狂わせというものもありますからね。

>多分、電話回線が独占されていた社会環境のせいだろう。>通信機器を作っていた企業の主要取引先がNTTだったため、それに遠慮したのだろうか。>試作しようとしてNTTに持ち込んだが、やんわりと断られたのだろうか。

想像をたくましくすれば、話は果てしがないようですね。’それでどうした’ の問いには、答えが出ないでしょう。

>考えてみればNTTも東大卒の組織である。>秀才は無から有を生み出さない。

そうですね。創造力の展開は、暗記力では無理ですね。

>無から有を生み出すのは、天才か異常者かどちらかである。>天才も異常者も同根なのだが。>そこまで極端でないとしても、既存のものからの延長線上に革新はない。

その通りですね。反覆慣用には革新の期待がもてませんね。

>日本の企業を観察し、どこが伸びるのかを推察する上で、マイナスのスクリーニング方法として、東大卒が役員の何割を占めているのかを数えるのがいいかもしれない。

全ての罪を東大卒に着せようとしているみたいですね。これでは、真の原因は捕まらないでしょうね。

>それが多ければ、革新度が小さい。

それは、そうですね。でも、それは現象であって、真の原因ではないでしょうね。

>その代わりに安定度が高いかもしれないが。

序列人間の絆による安定度ですね。安定しながら沈むのでしょうね。

>学生が就職先を選ぶ場合も、この視点が参考になりえる。

それは、処世術の観点ですね。何事もお変わりなしで、歴史は繰り返すのですね。
非現実の内容を現実の世界で実現すれば、それは人間だけが持つ創造力を発揮したことになります。ですから、非現実の内容を発想することが我々日本人にとって大切だと思いますね。
非現実の文章内容を作るのには、文法に時制 (tense) というものが必要ですね。日本語の文法には時制がない。だから、我々には、非現実の内容は想定外になっています。いくら秀才でも、これには歯が立たない。この辺に問題の根幹があるように思います。
英語には時制がありますから、我々日本人は日本語と英語を両方を学んで、非現実 (考え) の内容を表明する能力を得ると良いですね。さすれば、自分自身の考えを自由に語ることができるはずです。自分自身の考えにもっと自信を持てば、処世術を駆使して就職先を選ぶ必要もなくなるでしょう。

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日本人の文化

2019-03-22 17:41:03 | 言語

(略)
>日本と日本人の文化
> 1、クリエイティブな発相―1
> 日本人が持つ自由な発想、これが世界で注目されています。 > 世界の人々からすると、日本人は「世界で最もクリエイティブな人々」なのです。 

そのことは、初めて聞きましたね。猿真似ばかりが得意だと聞かされていましたからね。

>これは、2012年アドビ・システム社が行った調査「最もクリエイティブな国は?」というアンケート結果によく現れています。 >そこでは、「最もクリエイティブな国は日本」「最もクリエイティブな都市は東京」という結果が出ているのです。

日本人には、嬉しい判定ばかりですね。

>このアンケートの詳細はここでは省略しますが、世界で注目される「創造力の豊かさ」は、私たちの何気ない日常の中にも多く見ることができます。 > 例えば100円ショップで、僅か100円出せば買える「便利グッズ」の数々、高性能な保温グッズ(ホッカイロ、特殊な素材の毛布など)、また最も外国人が驚くのが「高性能トイレ」です。 >これは、何も日本が寒がりゆえに無理やり生み出した、ということだけが理由ではないようです。 >寒いのなら厚着をして布団を沢山かぶって寝る、というだけでは私たちは満足せず、もっと「効率」を重視する国民性があるのです。

なるほど、日本人には良いことばかりですね。

> 日本人は元からきれい好きで、整然とした美しさを好みます。 >無駄なものを排除するミニマリズムの精神が、「布団を沢山かぶる」のではなく、「起毛素材の温かい1枚の毛布」という発想に結びつくのだと思います。 

そうですね。日本人は、整理整頓を好みますね。

>禅の精神に基づく私たちの思考する習慣は、実は効率の良さを追求し、様々なアイデアを生み出すことに繋がっているのです。

禅僧の発明品が特に多いと言うわけでもないようですね。

>クリエイティブな発想 -2
>日本人がいかに創造性に溢れているか、それを考えるときに、日本人に「宗教に縛られない自由」があることを忘れてはなりません。

縛られない宗教のすばらしさですね。禅の精神に縛られることはないのでしょうね。目先・手先に関した思い付きのようなものが多いですね。

>私たちの歴史の中で、宗教紛争が起こったことはなく、日本に数多くある仏教寺院やキリスト教教会、或いはイスラム教徒のモスクは、全て共存の道を選んでいます。

なるほど。坊主の丸焼きは、喜ばれていませんね。わが国は一国一民族ですから、民族浄化の考えも成り立たないですね。

>これは、「和の心」を重んじた結果であると思われます。

つまらないこと (宗教) で命を落とすのは、本当につまらないことですからね。

>よく私たちは「日本人には宗教意識が足りない」といいますが、逆に言えば、そのことが異なる宗教の共存を可能にし、私たちの寛容さを示しているのです。

布教や折伏はやりませんね。中国でも、人々は特定な宗教に拘りを見せませんね。回教徒とチベットの仏教徒は例外ですかね。

>白無垢で結婚式を挙げたあとのホテルでのパーティーでウェディングドレスを着るという、神道とキリスト教式婚礼儀式をごちゃ混ぜにする光景は、日本人からすると、まさに「いい加減」に見えるのかも知れません。>しかし、これが「斬新」にも見えるのです。

まさに良いとこ取りですね。日本人は、何でもできますね。

>宗教に縛られていたら、恐らくこのような自由な結婚スタイルは実現できないでしょう。

自由な宗教の時代が到来しましたね。

>私たちは、縦社会に則って、ある意味では個人を主張できず、抑圧された中で生活しています。

日本人は無哲学・能天気ですから、個人の主張はできませんね。最初から、諦めていますね。’不自由を常と思えば不足なし’ ですか。

>しかし一方で、宗教観念に囚われずに自由でいられ、オリジナリティ溢れるものを生み出しています。

日本人の考えには、前世・現世・来世の非現実 (考え) の三世界もありませんね。自分自身の来世の内容を現実において実現すれば、それは個人のオリジナリティになるのですがね。
世界観のない着想は、とかく小さなものになりがちですね。目先・手先の事柄、細工物の仕上がり具合など、話の内容が小さなものばかりになりがちです。もちろん、些細なことも重要なのですが、その励みが原因となって大きな内容を見逃しているのはもったいないことです。世界観は、考え (非現実) の内容です。考えの内容を理解するには、文章の内容を理解する必要があります。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。ですから、正解は、唯一つではありません。幾らでもあります。考えは、人さまざまです。矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えになります。ですから、人との対話は矛盾を指摘してもらうことと、その解消に役立ちます。そうでなければ、独りよがりはなくなりません。

>また、日本人は伝統的な考えに囚われつつも、世界でも無類の「新しい物好き」です。

考え (非現実) の新しさは拒否しますが、物 (現実) の新しさは好みますね。物だけに執着することは、もったいないことです。
わが国は、資源小国であります。物にこだわらず、考えに価値を見出す努力も必要です。考えの新しさをも追及すれば、GAFA (Google, Amazon, Facebook, Apple) のような発展も可能になります。

>古くからあるものの中に新しいものや最新技術を取り入れ、それを自国の新しい文化に作り変えてしまう、そんな創造性にも溢れているのです。

そうですね。我々は、物の文化に拘りがありますね。考えの文化にも親しむ努力をいたしましょう。
現実は、頭の外にある。写生画のようなもので、見ればわかる。
非現実・考えは、頭の中にある。 ただの話であるから、見ることができない。納得する為には、文章の理解が必要である。
見ることのできる内容は、本当のことである。見ることができないものは、嘘である。これが、日本語流の判断であります。誰も ‘見て来たような嘘’ をつきたくはない。だから、自ら考えたこと (非現実) を語らない。これが、思考停止の状態であります。だから、わが国には、受け売りの専門家ばかりが増えている。受け売りの専門家には、創造力がない。天下の秀才ばかりで、どうしようもない。
非現実 (考え) の内容を文章にするのには、文法に時制 (tense) というものが必要です。時制は、英語あって、日本語にはない。
我々日本人も、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解して自己の考えを文章にしよう。さすれば、物にこだわることのない考えの内容に関しても創造力を発揮できます。自国の新しい文化の発展にもなります。


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養老孟司氏

2019-03-21 14:54:37 | 哲学
>(途中略)
>■「同じ」私の細胞でも 7年たったら全部替わる >皆さんは、私は私、どれだけ時間がたっても一貫して「同じ」私と思っていませんか? 

思っていますね。

>とんでもないですよ。>現代医学では、7年たったら分子は全部入れ替わっています。>同じ細胞をつくっている分子が全部入れ替わるんです。>7年に1回、100%替わる。

科学技術の進歩による知識ですね。

>私なんか、もう11回全とっかえしているんですよ(笑)。>7年に1回、部品を全部取り換えて11回たった車と同じなんですよ。

そうですね。部品を定期的に取り換えている航空機の整備と似たところがありますね。

>「方丈記」の作者、鴨長明はこれを言っていましたね。>「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。>そこまではいい。

そうですね。万物は流転する。誰も同じ川に二度入ることはできない。(Herakleitos 540 B.C. (?) – 480 B.C. (?)) 

>そのあと何と言っているか。>「世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」。>人も町も鴨川と同じ。>あっという間に変わる鴨川の水と人間が同じだと言っています。>物質とか知らないのに言っている。>わかる人はわかっていたんだなと思います。

物質は知らなくても、はかなさはわかるのでしょう。歌詠みは、大勢いましたからね。

>意識の世界にいたら「同じ」自分なんですよ。>意識って「同じ」を作る働きですから。

そうですね。同じ自分、同じ正しさですね。わが身一つは、もとの身にして。

>だけどもとの自分ではない。

そうですね。同位元素を使って調べればわかります。

>ピンとこないと思いますけれど、暇な時にじっくり考えてみてください。

分子と意識は同じにはならないですね。

>■「違い」を認め合えば 人生がラクになる >人間と違い、感覚で生きている動物は、概念でくくって物事を「同じ」と見ることができません。

そうですね。できませんね。

>例えば犬をここに連れてきたら、おじけづいて逃げ出します。 >全く違う生き物が何百もいたら怖い。>当然です。

そうですね。動物の本能によるものですね。

>人間だけが感覚で入ってきたものを無視して、言葉にして「同じ」を作り出せる。

そうですね。人間は、概念を使っていますからね。

>だからこそ人は相手の立場に立って物事を考え、共感できる一方で、「違い」を素直に認め合えず、排除したり苦悩したりする。>私たちはもともと違うんです。

そうですね。それ相当の苦しみを味わっていますね。

>うちの猫だってそんなことは知っています。

何事も、用心するに越したことはない。命あってのものだねです。

>そう思ったら人生、ラクになりませんか。

そうですね。おかげさまで楽になりました。一億一心で総玉砕させられては、たまりませんからね。

>(引用終り)


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