>科学的方法で得られた知見は「客観的」知識であり、自然科学の探求は世界の“真の姿”の描写を目指している、といった、信仰に近い考え方がある。
そうですね。ありますね。
>科学者の間にも、また一般の人々の間にも、かなり根強く普及している神話である。>この“客観性信仰”は、科学者共同体が、自己正当化し、権威付けを行うのに都合のよい宣伝文句として利用されているが、実質の伴わない思い込みに過ぎない。
そうですね。自己正当化と権威付けには都合が良いのですが、実質は伴いませんね。
>実験的方法と数学的解析を結びつけた実証主義的方法論を核とし、機械論的自然観に根ざした近代科学は、17世紀のヨーロッパという歴史的・地域的制約条件のものと成立してきた。>人類に普遍的な思考様式などではない。
そうですね。人類に普遍的とは大きく出ましたね。考えは、人それぞれですから、
>近代西欧文明の価値観を反映し、また西欧文明のあり方に影響力を行使しつつ、自然科学は発展してきた。 >つまり、科学的認識方法は、世界の見方に対する「歴史的伝統」のひとつなのである。
そうですね。一種の世界観ですね。
>科学者は往々にして、このことに無理解である場合が多いのだが、それは科学的物の見方・考え方が当たり前と思い込むように、高校、大学、大学院の研究室で教育され、自明のものと受け取るようになっているからであろう(振り返ると私も大学時代にそのように教育された)。
暗記の助けとなる思い込みですね。しかし、科学的であると、それ相当な現実的な力を発揮しますからね。相手は、無視できません。
>一定の訓練を積まないと、仮説構築や実験プランを立てることは困難である。>その訓練の過程で、いわば“マインドコントロール”され、自身の思考様式が客観的・普遍的様式であると誤認するようになってしまうのではなかろうか。
そうですね。何しろ自分に都合の良いデータばかりを使って、話の筋をこらえるのですからね。現実の内容に取捨選択がかかる。都合の悪いデータを使って、自分の話を成り立たせた人を見たことがない。
>自然科学の諸分野では、分野ごとに、一定の約束事で世界を切り取っている。
そうですね。専門分野に分かれていますね。約束事を飲み込むと、わかりが早くなります。
>複雑で多様な世界を理解するために、理想的状態―真空中の運動、分子間力と大きさのない理想気体分子など―を仮定したり、物体の性質のうち数式化に馴染みやすい性質のみを考察の対象にしたりする。
そうですね。そうすれば、話が分かりやすいですね。
>これらは、科学者の共同体において、歴史的に形成されてきた必然性のある約束事である。 >ある時代の科学者集団は、その研究の生産性の観点などから、一定の自然像を暗黙のうちに選び取り、その自然像と親和的な枠組を構築して、その内部で研究が行われる。>そして科学教育も、その枠組の内部で行われ、科学者が再生産される。
そうですね。そうでなければ、話が容易に成り立ちませんからね。
>科学的世界観は、いわば“恣意的”に切り取られた約束事の上で成り立っている人為的な世界模型なのである。
そうですね。あくまでも人間本位の精神活動によるものですね。
>もちろん、“恣意的”だからといって、科学的認識が現実的な世界把握から無制限に隔たってしまうわけではないが、科学に内在する方法論の束縛のため、ある一定の制約を受けているのは確かであろう。
現実と ‘付かず離れず’ ですかね。
>ところで、用いる言語の違いによって、その言語で分節される世界像が異なってくることは、よく知られている。
それは、そうですね。経験哲学とインド哲学では、世界像が全く異なりますね。
>人は、言語を通して、世界を把握する。
そうですね。言語を使うところがアニマルと違うところですね。
(略)