聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書二二章47~53節「絶妙な抵抗」

2015-08-09 14:37:48 | ルカ

2015/08/09 ルカの福音書二二章47~53節「絶妙な抵抗」

 

 何人かの方が、スクリーンがもっと色があると良い、と言われました。例えば、こんなカラフルなものにすることも出来ます。たくさんの色を映し出せるのはスゴいなぁと思います。ただし、絶対に出すことの出来ない色が一つあります。何だと思いますか。黒ですね。黒い光はありません。黒い部分は光が出ていないから黒くなるのです。暗やみは、光がないから暗やみであって、黒い光や「闇」があるから暗いのではありません。イエス様は仰います。

52そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように剣や棒を持ってやって来たのですか。

53あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」

 今まで、イエス様に手出しもせずにいた人々が、暗やみに乗じて、剣や棒を持って逮捕に押しかけました。日中は、イエス様の周りにいる群衆の反対を恐れて、手控えていましたのが、弟子の一人であったユダの手引きで、この場所に不意打ちをかけたのです。この夜、遂にイエスを憎んできたユダヤ当局は、悲願を果たしたのです。夜、暗い中、人目につかずに動けるとき、何をしようとするかに、その人の本当の姿が現れるとも言いますね。この夜は、ユダヤ当局の指導者たちが本性を現した夜でした。ユダもそうです。十二弟子のひとりのユダと呼ばれ、闇の中でもイエス様を見分け、口づけの挨拶をしても怪しまれないという自信を持つほど、近しい関係にありながら、ユダはイエス様を裏切っていました[1]。表向きの愛情やにこやかさに隠して、本心は暗やみの力、サタンの思い、裏切りも厭わない真っ暗な心になっていました。イエス様は、ユダのそのような生き方を、改めて厳しく問うておられます。

 けれども、決してイエス様は、まだユダに思い直してもらいたい、自分が十字架に掛けられて痛い思いをしないで済むようになればいい、と願っていたのではありません。イエスは、ご自分の死、十字架の苦難を、神のご計画の中にあるものと以前から語っておられました。イエスの十字架は、暗やみの力が強くなって、光を打ち負かして起きた出来事ではないのです。闇と光とが戦っても、決して光は負けません。この時、暗やみの力が欲しいままに振る舞うのは、神の敗北ではなく、神がそのような振る舞いをお許しになったからです。彼らにイエスを引き渡されたからです。今まで人目を憚(はばか)って表沙汰にしなかった憎しみや殺意を表す時となさったからです。闇の時とされて、神に対する人間の暴力を露わになさるのです。

 そして、その闇の力の中で、イエスの弟子たちの本心も露わになりますね。弟子たちは、

49…ことの成り行きを見て、「主よ。剣で撃ちましょうか」と言った。

50そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。

とあります。この闇夜で敵の右の耳を切り落とす、というのはよっぽどの剣の使い手か、まぐれか、でしょう。右の耳だけ切り落としてビビらせてやろう、なんて余裕はなかったはずです。恐怖や緊張の余り、イエス様の答を聞く前に、飛び出して剣を振り回して、敵の耳に当たっちゃったのだと思います。実際、弟子たちはこの後、いつのまにか蜘蛛の子を散らすよりも早く消え失せます。ただ独り、記されている一番弟子のペテロも、イエスなんて知らない、関係ないと、三度も否定してしまうのです。この闇で、弟子たちのイエスへの忠誠も勇気も、腰砕けになったことを暴露してしまいました。臆病で、愛もなく、卑怯者だと、明らかにしたのです。

 では、イエスはどうだったでしょうか。裏切り者のユダを呪い哀願したのでしょうか。ヤケクソに剣を振り回しただけの弟子たちに、それ見たことかと嘲ったり、ちょっとでもやり返してくれてよくやったと誉めたりしたでしょうか。ユダヤ当局の卑怯を責めたり、奇蹟の力で彼らを圧倒したりしたでしょうか。いいえ、イエス様は剣での解決をキッパリ止められました。

51するとイエスは、「やめなさい。それまで」と言われた。そして、耳にさわって彼をいやされた。[2]

 弟子を止めただけでなく、弟子が切り落とした敵の耳に触って、癒されたのです。切り落とされた耳を暗やみの中で捜して拾い上げたのか、傷に触れるだけで癒されたのか、それは分かりませんが、いずれにせよ、イエスの思いは、この敵の耳の癒やしに象徴されています。それは、イエス様が地上でなさった最後の奇蹟らしい奇蹟でした[3]。人の心の暗い闇にご自分が覆われるようなこの夜、主イエスが示されたのは、敵の耳を癒されるという小さな御配慮でした。

 神が暗やみの力を許された時、人間は自分たちの本性を現しました。弟子たちもその闇の中で、自分たちの弱さ、脆さ、身勝手さに気づかざるを得ません。そして、そのような闇の中でも、イエス様の慈しみは変わりませんでした。剣どころか嵐や雷で敵を討つことも出来たのにそうはなさいませんでした。人の裏切りと敵意しかない、深い孤独の闇の中で、主イエスは、それを怒って罰するのではなく、むしろ、その人間の身勝手な争いが作り上げた傷をお癒やしになりました。手を触れなくても癒せたのに、このしもべの耳に手を触れて癒されました。

 決してイエス様は、彼らの行為を大目に見られたのではありません。剣を取ることも黙認なさらず、むしろ厳しく止めさせなさいました。無抵抗であれば分かってくれる、だなんて世間知らずな平和主義を語られたのでもありません。主イエスは彼らの行動の問題を明らかにされるだけです。そして、憎しみや怒りに流されず、癒やしの御業をなさるのです。悪をもって悪に報いず、却って善をもって悪に打ち勝つ、というイエス様のお姿が、ここに輝いています[4]

使徒の働き二六18…目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、主を信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるため…[5]

 それが福音です。そして、光よりも闇が強い、ということは決してありません。主イエスは、私たちの闇をご存じです。闇にあって見せる狡さや恐れ、傷や本心を、十分知っておられます。そこでこそ、私たちが変えられ、剣や力を棄て、主の御手に触れられて癒されることをなさるのです。遠回りのように見えます。無力なように思えます。しかし、これがイエスの方法です。私たちの心やこの世界を、闇が覆うような時、その時こそ、私たちは主イエスが深く深く働いてくださることを願わずにはおれません。私たち自身が、主の憐れみによって変えられる必要に、初めて気づかされるのではないでしょうか。そして、今は闇だとしても、それもまた、主の大きな時の中にあることで、主は闇にも光を照らされて、そこに絶妙な恵みの御業を現してくださる。必ず、主イエスは、闇よりも強い。力尽くではないけれど絶妙な抵抗で、闇に打ち勝たれる。だから私たちも、闇に流されずに善を行うよう励まされています。無駄なようでも小さなことを大切に出来るのです。主は今も、闇の中にこそ働いておられると信じるからです。

 

「主が私たちの闇をも深く知っておられることを感謝します。主が闇を通してさえ、私たちに問いかけておられ、本当の平和や回心を与えてくださることは、恐れ多い慰めです。どうぞ、私たちの歩みの隅々まで、あなた様が照らして、私たちを主の平和の器として深く整えてください。闇の中で、主イエスが示されたこの姿を、私たちの歩みの中で思い起こさせてください」



[1] マタイ二六章48節では「イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。49それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。50イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手を掛けてとらえた」とあります(マルコ十四44~46もほぼ同様)。しかし、ルカは、これが合図だった、という点よりも、イエスの言葉を通して、口づけの親しさを装いつつ、実は裏切っているという偽装を問題にしています。

[2] 51節「やめなさい、それまで」は英訳「したいようにさせておけ」。榊原『聖書講解 ルカの福音書』p.422「これこそ、「聖書のことばが実現するためです」(マルコ一四・四九後半)のルカ版です。主は傷害罪・公務執行妨害罪などいかなる罪名も帰せられぬ罪なき小羊として、捕らえられねばなりません。…「したいようにさせておけ」と言われるほど恐ろしい皮肉な神の審判はないのです。」

[3] イエスがこの後、裁判、鞭打ち、十字架を背負っての行進、そして、十字架の死に至るまで、ピラトに語り掛けたことも、クレネ人シモンや隣で十字架にかけられた強盗や百人隊長の心に働きかけられたことも、ヨハネと母マリヤを母子として結びつけられたことも、赦しを祈られたこと、十字架に留まられたこと、大声で叫んで息を引き取られたこと、すべてが、人知を超えた奇蹟であります。しかし、いわゆる、癒やしや自然法則ではないことを指す「奇蹟」としては、このあと死まで奇蹟はありません。ですから「奇蹟らしい奇蹟としてはこれが最後」なのです。ちなみに、ヨハネ十八10では、「シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。」とあります。ここには、斬りかかったのが、あのペテロであったことと、耳を切られたしもべが、ヨハネの福音書が宛てられた読者たちにとっては、「マルコス」として思い当たる人物であり、キリスト者となっていた可能性も排除できないことが示唆されています。マルコスにとっては、耳を斬られたが元通りに直された、という以上の体験であったのでしょう。

[4] ローマ十二17「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」、20「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。21悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

[5] 使徒二六17わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。18それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。

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