聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

結婚式の説教

2015-10-10 16:21:12 | 説教

結婚式の説教

  「キリスト教は愛の宗教」
だと言われます。賛否はともかく、しかし、今日この結婚式においては、素直に、愛の神の祝福を願う気持ちになれます。神が愛の神であり、神に造られた人にとって、最も大切なのは互いに愛すること。神は愛を下さる方です。

 今、お二人は神の前で、また、ご両親の同意もいただいて、結婚の誓約をなさいました。これは、お二人が生涯の愛を誓った、教会の中で受け継がれてきた誓約の言葉です。

あなたは、自らを夫/妻としてささげ、健やかなる時も病める時も、富める時も貧しき時も、順境の日にも逆境の日にも、いのちの限り彼/彼女を愛し、真実と誠を尽くすことを神と証人の前に誓いますか。

 しかし、これは、二人が生涯、恋愛感情を持ち続けて、新婚気分でいなさいよ、という意味ではありません。ラブラブな関係でいられたら理想的だ、ということではありません。結婚して過ごすうちに、恋人同士でいる時には見えなかった、見せていなかった部分が見えます。ハネムーンが過ぎ、違いや思うままにならないとしても、それでも、相手を大切にし、助け合い、支え合うように、という誓約です。
 「喜びの日も悲しみの日も、健やかな時も病める時も、順境の日にも逆境の時も」。
 ロマンチックだから言っているだけなら、いざ結婚して、貧乏や苦労が続くと
 「こんなはずじゃなかった」
と言いたくなるかもしれません。でも、何があっても相手を自分の大切な人として連れ添う、と誓ったのです。誓約は、今の感情を見せつけて交わすパフォーマンスではなく、今の感情がこの先、薄れても、それでもお互いに愛し合い受け止め合う、と誓う事です。

 難しいことでもあります。けれども、これこそ、恋愛では味わえない、深い愛です。自分のボロを見せ、失敗をして、失望させることもあります。男女の違い、育った環境の違いというものは大きくて、何十年連れ添っても、ますます相手は理解を超えているものです。しかしだから背を向けられる、というのでなく、それでも相手が自分と夫婦でいてくれて、一緒に生きていこうとしてくれる。そういう生涯の関係は、恋愛にはないものです。何があってもともに生きてくれる。それは、なんと有り難い愛でしょうか。
 そのためにも、お互いに、正直であってください。隠し事や嘘をつかず、問題には二人で向き合ってください。お互いをきずつけたり、辛く当たったりするような事は決してしないでください。恋人である以上に、よき友人、パートナーとなってください。

 これは、神が私たちに下さる愛によらなければ出来ません。むしろ自分の愛の限界に気づいて、神の愛を乞い求め、愛することを助けて戴くことも、結婚の大切な一面です。イエス・キリストは、私たちを愛しておられます。私たちのありのままをすべて知った上で、私たちを尊び、生かしておられます。神は、私たちに、愛し合いなさいという先に、ご自身が私たちを愛され、励ましや赦しを与えてくださる方です。そして、私たちが愛することを選び続けていく先に、愛において成熟した私たちの将来を見ておられるお方です。その神の愛の現実を土台として、私たちは自分の愛のなさに何度もぶつかりながらも、絶望せずに愛することができるのです。キリストの愛こそ、私たちの愛の土台であり、模範であり、希望です。今日の誓約が、お二人の愛を守ってくれますように。

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問82「目標を目ざして一心に」

2015-10-10 16:13:17 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/10/04 ウェストミンスター小教理問答82「目標を目ざして一心に」ピリピ三12~14

 

 先週まで、神が下さった「十戒」を学んできました。「十戒」は、神が人間に求められる律法の中心です。「わたし以外に神があってはならない」「偶像を拝んではならない」「主の名をみだりに唱えてはならない」「安息日を覚えてこれを聖とせよ」「父と母を敬え」「殺してはならない」「姦淫をしてはならない」「盗んではならない」「偽証をしてはならない」「ほしがってはならない」。以上の十の戒めを一通り見た上で、

問82 これらの神の戒めを、だれか完全に守ることができますか。

答 堕落以来、単なる人間はだれも、この世においてこれらの神の戒めを完全に守ることはできず、かえって、思いとことばと行いにおいて、日ごとにそれらを破っています。

 面白いですね。十戒を丁寧に解説した上で、「これらを完全に守ることは出来ますか。いいえ、思いと言葉と行いにおいて、日ごとにそれらを破っているのです」と言います。みんな、です。「一生懸命頑張っていないから破ってしまうのです」とか、「本当は救われていない人は破ってしまうのです」ではないのです。「単なる人間はだれも」です。

 ここに三つの言葉が添えられています。

「堕落以来」とあるのは、アダムとエバが、神との契約を破って、禁じられていた木の実を食べた時から、です。エデンの園で、アダムとエバが神との関係に背いた時、人は考えも間違って、自分中心の勝手な願いを愛するようにもなってしまいました。でも、それ以前のアダムとエバは、律法を守ることが出来たのです。もともと神は、人間にとって、無理な律法を押しつけたりせず、人間が守れて、自然で喜びである律法を下さっていたのです。律法は人間に守れるものでした。でも、堕落以来、人間は誰も律法を守れなくなりました。神とのシッカリした繋がりがなくなったので、心がさ迷ってしまうのです。神から離れたまま、正しく生きることは出来ません。

 もう一つ「単なる人間は」とあります。どうしてこんな言い方をするかと言えば、イエス様は完全な、聖い人間となってくださったからです。イエス様が人間となった時、自動的に、罪の性質も入ったのでしょうか。いいえ、イエス様は完全な人間となってくださいましたが、罪はなかったのです。でも、それ以外の普通の人たちはみな、罪があります。それで「単なる人間は」と言っています。

 イエスが人間となってくださったのは、私たち「単なる人間」が罪を犯さずにはおれないから、代わりに神の前に完全な生き方を歩んでくださり、また、人間の受けるべき罰を十字架の上で代わりに受けてくださるためでした。そのイエスが、ご自分を信じる者には、罪の赦しと完全な義とを与えてくださいます。ですから私たちは、十戒を守れなくても、もう罰せられて滅ぼされることはありません。神さまの御心を行えないから、そのうち神さまに怒られるんじゃないか、追い出されるんじゃないか、と心配はしなくてよいのです。三つ目に「この世においては」とあるように、

今は毎日罪を犯しながら生きているのです。けれども、やがて、イエス様がもう一度、世界においでになって、私たちに栄光を着せて下さり、すべてを新しくしてくださったら、私たちは罪から完全にきよくされます。もう罪を犯すことはないくらい、新しい心を戴きます。すべての人が一緒に喜ぶのです。その手前の今、この地上においては、罪を犯してしまうのです。

 こう言い切っていることは安心ではありませんか。十戒を破ってしまうからダメだ、と思わなくていい。今は、十戒を毎日破らずにはおれないのが、すべての人間なんだ。神さまも、そういう私たちの限界を今は許しておられます。「何度も言ったでしょう」とか「全くダメだなあ」とガッカリしてはおられません。そうです。天の父は、決して私たちにガッカリしたりはなさいません。だから、私たちも、どんな失敗をしても、自分が嫌いになって、自分を責めるのは止めましょう。そうではなく、失敗に気づいた時、誘惑に会った時、すぐに天の父のもとに行きましょう。そうして、赦しをいただくだけでなく、天の父なる神の恵みに立ち戻りましょう。たとえ、誘惑に負けたときにも、私たちは、神の赦しをいただくことが出来ます。いいえ、いただかなければなりません。

 ひょっとすると、こんな声も私たちの中から聞こえてくるかもしれません。「どうせ守れないなら、こんな律法をくれないほうがいいんじゃない?」 なぜ、神は私たちに守れない律法を下さるんでしょうか。また、どうせ守れないなら、守ろうともしなくていいのでしょうか。それは、今まで十戒を一つずつ丁寧にお話しして来た中で、確認してあることですね。

律法は、神が私たちに与えてくださった、いのちの道です。窮屈で、難しいのではなくて、私たちの目を覚まさせてくれるのです。自分が悪かった、間違っていた、そう思わせてもらうことで、ハッとさせられます。頭を冷まし、人と一緒に生きることが出来るようになるのです。律法が私たちを守ってくれるのです。

 「行いと言葉と思いとで、毎日罪を犯しています。」

 それはやっぱり、私たちにとって、誇らしいことではありませんね。律法がなかったら、私たちは思い上がったまま、自分の中で人を裁いたり、振り回したり、腹を立てたりし続けるでしょう。律法があることで、私たちはそういう勘違いに気づけるのです。私はジョギングをしますが、顎を軽く引き、腕を肩甲骨から前後に回すように振り、お腹は引っ込めながら、膝をやや高く上げながら走る、という理想のフォームがあります。息は口から吐いて、鼻から吸うんです。でも、すぐにそのフォームを忘れます。でも、完全にそんなフォームでは走れませんが、それを意識することで、安定して走れるし、もっと上達したいと思えます。

 神が下さった律法は、私たちの将来を語っています。心から神を喜び、他のものにちっとも心を寄せることなく、互いにも愛し合い、違いを受け入れ合う将来がやがて来ます。そこまで、私たちはまだまだ不安定です。傷つけ合ってしまいます。そして、悪いのは相手で、自分ではない、などと思いたくなります。律法は、そういう私たちの暗い心に差し始めた光です。素直に、謙って自分の限界を認め、でも、その罪ある自分が、今、受け入れられ、愛されていて、神が私にやがての完成を約束してくださっていると気づかせてくれます。不完全だからこそ、その目標へ、一心に走っていきましょう。

詩篇一一九24まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。

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申命記十三章1~11節「本当に愛するか」

2015-10-10 16:09:40 | ウェストミンスター小教理問答

2015/10/04 申命記十三章1~11節「本当に愛するか」

 

 午後に結婚式を控えていますが、今日の説教題は、結婚式で問う誓約の言葉のようです。

「本当に愛しますか。幸いの日も禍の日も、豊かな時も貧しい時も、健康の時も病の時も、順境の時も逆境の時も、この相手を妻として/夫として、生きている限り愛し、真実と誠実を尽くすことを誓いますか」

と約束するのです。良いことばかりのバラ色の人生を夢見てスタートするのではありません。山あり谷ありの人生で、お互いに興醒めするような面が見えてくるとしても、それでも夫婦として互いを大切にし、真実に誠実に生きる。そう誓うのです。それは「安全な愛」の誓約です。自分を無条件に相手に捧げ合うことが、人間から見た結婚なのです。

 それと同じ事が、今日の所で、私たちと神との関係にも言われています。前回十二章で、イスラエルの民がこれから約束の地に入り、新しい生活をしていくに当たって、他の神々を礼拝してはならないことが繰り返されていました。世界を作られた唯一の神である主、私たちの神となってくださった主だけを拝み、主を礼拝し、主の祭りを祝って、主の惜しみない恵みに感謝する生活を命じられました。今日の十三章はその続きです[1]。主のみを礼拝せよ、たとえ、

あなたがたのうちに預言者または夢見る者が現れ、あなたに何かのしるしや不思議を示し、

あなたに告げたそのしるしと不思議が実現して、「さあ、あなたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう」と言っても、

その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。

 更に6節以下で、自分の家族や親友が「さあ、ほかの神々に仕えよう」と言ってきたとしても、それに耳を貸してはならない。また、12節以下では、イスラエルの中にあるどこかの町が一つ、町ぐるみで、邪(よこしま)な者に騙されて迷わされたのだとしたら、よく調べて、それを放っておいてはならない、と非常に厳しく言われているのです[2]

 この厳しさに抵抗を感じるのは当然です。今から三千五百年前のイスラエルで起きた基準をそのまま現代の日本の感覚で理解しようとしても難しいことは事実です。国家としてのイスラエルが目指したことは、当然、重罪に対しては厳罰をもって処するのが普通の感覚でした。それでも、ここではよく調べ、十分に調査することを命じています。噂話や感情的に誰かが処分されることはあってはなりませんでした。
 また、時代が下って、新約聖書の時代には、イエスは

「わたしの国はこの世のものではありません」

と仰いました[3]。地上の国家の政治と神の民の政治が同一を目指すことの限界を明言されました。教会は、偶像崇拝を厳しく退けますが、偶像崇拝者を殺したりリンチにかけたりはしません。教会は信仰告白共同体ですから、その信仰を異にするなら最終的には除籍する形を取ります[4]。ここを根拠にして、暴力や中世の魔女裁判のような恐怖政治を正当化する事は、乱暴すぎる読み方です[5]

 それ以上に、聖書は、世界の神がお一人であり、その方が本当に愛に満ち、イスラエルの民を起こされたことを明言しています。その末に、イエス・キリストが神の御子でありながら、この世においでになり、私たちのためにご自身を十字架の死にまで捧げてくださいました。そして、そこに証しされた通り、今も私たち一人一人に深く関わり、ともにいて、祝福し、罪を赦し、暗やみから救い出し、恵みによる生き方を与えてくださいます。私たちを神の民、神の子どもとして、限りなく愛し、育ててくださっています。
 この時は、申命記でここまで確認されてきた通り、エジプトの奴隷生活から救い出され、力強い神の証しをたくさん味わい、目にし、神の憐れみを十分すぎるほどに体験してきていました。
 神は、イスラエルの民にとって、ひとつの宗教ではなく、力強い現実であり、そこにおられることがハッキリしている存在でした。これは、他の宗教や人間が考え出した神々とは決定的に違う信仰です。それを聖書は教えています。
 それを知りもしない人に「キリスト教以外の宗教に誘われて行ってしまったら、石打になる」などと言うなら、肝心な点が見失われます。神の素晴らしさに心を打たれるよりも、神への恐怖心が先立ってしまいます。神は、ただ私たちを拘束し、脅して縛り付けたい方ではありません。
 むしろ、神は自由を下さいます。色々な宗教や救済に縋るほど、自分の価値や幸せ、頼りになるものを追い求める苦しい生き方から解放してくださいます。「お金がなかったら幸せになれない、健康を失ったら惨めだ、人並み以下の生活をしたら恥ずかしくて生きていたくない、昔の失敗や家族の不名誉を何とかバレないようにしないと」-そんな不安な生き方から、神は救い出されたのが神の民です。だから、他の神への誘惑はとんでもないのです。

 この厳しさの裏を返せば、神は私たちとの関係が特別な絆であって、結婚や親子以上に強いことを望まれている神の愛が見えます。夫婦の間に割り込んで裏切りを唆す人は、軽蔑されます。そういう行為は「どこまで許されるか」ではなくダメなのです。まして、神は唯一無二の栄光に富んだ神です。その神が私たちを恵み深く導いておられるのに、他の神や宗教にも救いがあるとか、お金や名誉や楽しみを神と引き比べてしまうことは悪い惑わしに他なりません。

 けれども、この十三章が教えているもう一つのことは、私たちがどれほどこうした誘惑に弱いか、という事実です。目の前で奇蹟や不思議を見せられたら「こっちがホンモノかも知れない」と思ったり、近しい人に誘われたり、色々な手で神を裏切らせる事があるのです[6]
 なんといっても、聖書の最初に書かれているのは、エデンの園での蛇の唆しです。神の恵みを豊かに現したエデンの園の真っ只中で、「神はケチなお方だからこの木の実を禁じられたのですよ。食べても死にはしませんよ」と蛇に言われて、エバとアダムは神に背を向けてしまいました。それ以来、人間は目の前にちょっと良さそうなものがぶら下がると、神に背を向けて、飛びついてしまうのです[7]。そして、人を裏切り、関係を傷つけ、手遅れになってから後悔する、という繰り返しです。

 そんな私たちにさえ言われています。本当に神を愛しなさい。神が私たちを愛されているように、私たちにもその神の愛に留まりなさい、と仰います。調子が良い時だけ賛美して、何かあるとよそ見をし出すなんてのは、本当に愛するとは言えません。神は私たちに、ご自身に対しても、またお互いの夫婦関係や親子、教会や職場の人間関係においても、脅して縛り付けたいのではなくて、本当の絆を持たせたいのです[8]。それはまず神ご自身が私たちを、今までも、今も、これからも愛してくださっている、という事実があるからです。

 神が世界を作り、キリスト・イエスを世に送って、すべての罪をその身に負ってくださいました。私たちにその救いを届け、毎日のパンもいのちも、すべてを最善にするとの約束も、私たち自身の成長も、すべての善い物を下さっています。この神の愛に根差して生きることは、私たちの特権です。そして、その神の愛に支えられて、神を(神だけを)礼拝し、互いにも真実を尽くしていくようにさせてくださいと、ともに祝福を祈り、いただきたいものです。

 

「主よ、あなたのような神は他にはいません。私たちを愛し、どんな時にも恵みによって導いてくださいます。そして、私たちの愛をもホンモノとしてくださるあなたです。試みの中で篩われ、山や谷を越えながらの人生も、いつも主がともにいてくださいます。どんな関係よりも確かで深く豊かな、キリストとの交わりに生かされて、世の光として輝かせてください」



[1] ヘブル語の聖書では、直前の、「十二32あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行わなければならない。これに付け加えてはならない。減らしてはならない」から十三章が始まって、1節ずつずれていくのですが、それぐらい、十二章からの流れは大事です。

[2] 「試み」申命記八2、16では、荒野の四十年の厳しい生活が「試み」であったと告げられていました。ここでも、これまでの荒野での「試み」とこれからの約束の地での「試み」の性格の違いが示されています。しかし、いずれにせよ、いつどこにおいても、何があっても、致命的なことは、「あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならない。主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがらなければならない」(4節、18節も)なのです。

[3] ヨハネ十八36。

[4] またここで言われている「誘惑者」は「預言者」や「あなたの兄弟」など、「あなたがたのうちに」ある者であって、神の民以外の異邦人を殺せということではありませんでした。既に主の民とされ、主の栄光を味わい、土台としていながら、そういう事を言い出すとしたら、それは大いに罰せられるべき罪であることは明らかです。しかし、そういうこともあり得るのだ、と見据えられています。なぜなら、私たちは不誠実であり、目の前にぶら下がった力(幸せ、得、楽)に飛びついてしまうものだからです。

[5] ここでの律法の実際の適用例は、皮肉なことに、エレミヤ書十一19、三七13で、神に立ち返ることをラディカルに説いたエレミヤに、この嫌疑がかけられて、エレミヤは処刑されかけるのです。

[6] しるしや不思議が成就することは起こりうる。ノストラダムスの預言が当たったり、奇跡的な業や癒やしや変化がなされたりすることは、異教であってもあり得るのです。しかし、それはそのような教えがキリスト教以上に真理だとか、主に並び立つくらい本当だ、ということでは決してないのです。

[7] この事は、イスラエルがカナンの地に入ってまもなく現実となり、士師記において深刻な状況となりました。しかし主は彼らを直ぐに滅ぼしはされませんでした。その結果、どんなに自分たちが苦しむかを経験しつつ、主に立ち帰ってくることを心から学ばせていったのです。「士師記二20それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、21わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。22彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」」このパターンは、聖書で繰り返されていますが、そこに見られるのは、神の忍耐と深い悲しみです。

[8] 私たちは、人の愛を試してはいけません。相手の愛がホンモノか、わざと誘惑に遭わせたり、つれない素振りをしたりして、辛く当たることはしてはなりません。自分がそうされたら、苦しいし、傷つきます。そして、その結果、もしその試験にパスをしたら、次にはもっとハードルを上げた試験をすることになるか、試験にパスしなかったら、相手の愛を採点して不合格にする、というようなことになったら、それだけで、愛の関係ではないのです。しかし、主はそのような意味で「試みる」のではありません。主はすでに、一方的に私たちを愛されています。そして、私たちにもそのような愛をもって愛することを求められます。表面的な愛や、順調なときだけの愛ではなく、私たちがどんな時も主の愛を信じ、私たちも主を喜び、主に従うことを求められます。それが露わになるのは、誘惑や試練にあったときです。だから、主は、私たちが苦しみに遭うことも、敢えて良しとされます。

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