聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問85「これを生かさぬ手はない」使徒の働き2章37~42節

2015-10-23 22:16:54 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/10/18 ウェストミンスター小教理問答85「これを生かさぬ手はない」使徒の働き2章37~42節

 

 神が人間に明らかに示してくださった御心は、聖書の中の「十戒」(十のことば)に明言されています。夕拝では、その十戒を一つ一つ丁寧にお話しして来ました。けれども、その十戒を、私達が守ることが出来るのか、というと、そうではない、と続いたのですね。私達は、十戒を守るどころか、毎日破り続けている。そして、神の律法に対する違反は、どんな小さなものであっても、神の怒りと呪いに値する、と言われるものでした。私達は、神の怒りと呪いを受けるような違反をせずには生きられないのです。そして、今日の問85ではこう続きます。

問85 罪のゆえに私たちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神は私たちに何を求めておられますか。

 さあ、この後にどんな言葉が続くでしょうか。神は、私達が罪の報いを免れるために、何をお求めになるのでしょうか。神の怒りに釣り合うようなこととして、私達は、どんなことを思いつくでしょうか。
 一生懸命自分の償いになるようなことをして埋め合わせようと思う人もいるでしょう。
 神さまを喜ばせるように頑張んなきゃ、と考える人もいるでしょう。
 自分の罪を認めて、謙虚に、いつも項垂(うなだ)れて、罪責感を抱えて生きていかなければ怒られる、と考えてしまう人もいるでしょう。
 「自分には神さまに合わす顔などないのだ」と私も思ってしまいやすい一人です。

 けれども、それは、キリスト教の教えではないのですよ、とこの85の答はあっさり言うのです。

答 罪のゆえに私たちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神は私たちに、イエス・キリストに対する信仰と、命に至る悔い改めを、贖いに伴う様々な益をキリストが私たちに分かち与えるのにお用いになる、すべての外的手段の熱心な使用とともに、求めておられます。

 つまり、ここに言われているのは三つです。
 「イエス・キリストに対する信仰」と「命に至る悔い改め」と、「外的手段の熱心な使用」です。
 この一つ一つを、次の問86から見ていきます。
 特に、外的手段は、問88以下でずっと扱われて、御言葉、聖礼典、そして、祈りの三つの外的手段について学びながら、このウェストミンスター小教理問答は結びにします。ですから、一つ一つの内容については、この後に詳しく見ることにします。今日覚えて欲しいことはこれです。人間が頑張って善いことをして神さまを喜ばせるとか、神の怒りにビクビクしていないといけないとか、そういうことは言われていないのです。また、神を怒らせた後始末を少しでもしなければ、神に近づくことは出来るわけがない、とも言いません。神の怒りと呪いを免れるためにこそ、イエス・キリストに対する信仰を、神は私達にお求めになる。これは、何と不思議なことでしょうか。そして、何と素晴らしいことでしょうか。イエス様がよみがえって天に昇られた後、お弟子達が初めて公に伝道をした時、正にこのことをペテロは言いました。

使徒の働き二37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。…」

 ペテロが命じたのは、悔い改めて、イエスを信じ、バプテスマを受けること、でした。神の怒りを免れるために、何かをしよう、怒りを宥めてもらうような何か埋め合わせをしてから、神に顔向けが出来るとか、それが出来そうにないから、もう神から逃げていよう、というのではダメなのです。そうではなく、反対に、神の怒りを免れる唯一の方法は、神に向いて、イエス・キリストへの信仰と、罪から神に向き直ることなのです。神が差し出して下さる、イエス・キリストの救いを受け取ることなのです。

 私達人間は、自分の力で、罪に対する神の正しい当然の怒りを少しでも宥めることは出来ません。人間は小さく、神は宇宙よりも大きく、聖なる無限のお方です。いくら背伸びをしても、神を動かせはしません。それが出来るなどと考えるなら、「烏滸(おこ)がましいにも程がある」と言うべき、甚だしい勘違いです。ただ只管、神が人間を憐れんで、怒りの元である人間の罪を解決し、受け入れてくださるのです。神がイエス・キリストを遣わして、私達のすべての罪をご自身に引き受けてくださいました。そのイエス・キリストという、神の一方的な救いの提供を、私達はいただく。それだけなのです。

 決して、私達の信仰や、私達の悔い改めが神の怒りを宥めるのではありません。イエス・キリストが神の怒りをなだめてくださったことを、信じるのであり、それに相応しく、私達としては罪を認めてゴメンナサイと言いつつ、神に向いて生き始めるのです。そして、恵みの外的な手段も同じです。聖書を読んだり、洗礼を受けたり、聖晩餐に与り、祈ることで神のご機嫌を宥めるのではありません。聖書を読むことで、神の愛や自分の悔い改めやイエスの救いをより深く味わうのです。洗礼や聖晩餐によって、イエスの福音を、水やパンや杯で、肌で感じ取り、舌で味わって、本当に私は神の子とされたのだ、と確証して戴くのです。祈りを通して、神との生きた交わりをいただいて、ますます神の救いの恵みに豊かに与るのです。私達はただ、イエスをいただくだけです。

 神は、ここまで私達のために、配慮してくださっています。神の怒りをビクビク恐れたり、考えないように逃げたりするのではなくて、神の赦しをいただいて、赦し以上の和解と神の子とされた祝福をいただけるのです。神は、それを私達に与えたいのです。私達が神の怒りからの救いを願うよりも遥かにずっと、神の方が、私達の救いと祝福を強く願い、永遠の喜びを用意しておられるのです。ひとり子イエス様をさえ、与えてくださいました。そしてそれを、私達が、信仰と悔い改めによっていただける、と言われています。更に、それを補強するために、御言葉や聖礼典や祈りという手立てまで下さいました。それを用いることによって、私達が、もう神の怒りを恐れず、救いの道を喜んで歩めるようにと、ご配慮くださってのことです。これは、何と至れり尽くせりのお心遣いでしょうか。信仰と悔い改めを求めてくださっています。私達の手に届く手段を用いるようにと求めてくださっています。人生に、これを生かさない手はありません。

 

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