聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問86「信仰もプレゼント」エペソ2章8節

2015-10-25 20:47:36 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/10/25 ウェストミンスター小教理問答86「信仰もプレゼント」エペソ28

 

 今週は、世界のプロテスタント教会にとって、特別な週です。そして、今日の礼拝を、多くの教会が特別な礼拝の日としています。それは、今週土曜日の1031日が、マルチン・ルターの「宗教改革」が始まった日、宗教改革記念日だからです。今日の礼拝を特に「宗教改革記念礼拝」と呼んでいる教会は数え切れないほどあります。

 今から五百年ほど前、それまでの教会の教えや方向が間違っていることに気づいて、ルターや何人もの人たちが、教会に対する抵抗を始めました。そこで大切にされたのは、私たちは、ただ神の恵みによって救われるのであって、私たちに求められているのは、それを信じる信仰だけだ、という聖書的な告白でした。献金をするとか、教会の教えに従うとか、奉仕や善行や償いの苦行をするとか、そういうことを私たちが付け足さなければ救われないとしたら、おかしい。キリストが百パーセント(五〇パーセントでも九〇パーセントでも九九パーセントでもなく、百パーセント)の救いを果たしてくださった。だから、私たちは、それを信じて、受け入れるだけだ。そういう聖書の教えに帰ったのです。これを「信仰のみ」とか「信仰義認」と言います。とても大切な、私たちの原点です。

 今日の、ウェストミンスター小教理問答問87は、ちょうど信仰を語ります。

87 イエス・キリストに対する信仰とは、何ですか。

答 イエス・キリストに対する信仰とは、それによって私たちが、救いのために、福音において私たちに提供されているままに、キリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼む、そのような、救いに導く神の恵みの賜物です。

 先週お話ししたように、私たちが、罪の報いから逃れるために求められていることは、信仰と悔い改めです。では、その信仰とは何かを、今日の問答では教えています。

 まず信仰とは、それ自体が、「神の恵みの賜物」だと言われていることを覚えましょう。勿論、私たちが信じるのですよ。でも、その信仰さえも、神が恵みによって下さるプレゼントなのです。今読んだエペソ書2章の御言葉にもこうありました。

エペソ二8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 神が信仰も下さったのです。そうでなければ、福音を信じること自体、人間は出来ないのですね。

だから、私たちは、人に福音を伝える時も、何とかして信じる気にさせようとか、自分が下手だから信じてもらえないとか、そんなふうに考えなくてもよいのです。どんなに分かりやすくちゃんと伝えても、その人が心から救いを願って福音を受け入れるかどうかは、神さまがお決めになることです。言葉巧みに信じる気に持っていったとしても、そんな誘導尋問は、後から崩れるだけです。救いは、神さまにかかっています。では、私たちは何もしなくてよいかというとそうではありません。私たちは、福音をちゃんと理解して、正しく伝えることによって、私達自身が成長し、恵まれ、神さまとの絆を強くされていきます。信じるかどうかは、神さまとその人との問題です。私たちは、福音を福音として伝えたらよいのです。

 これを二つ目にしましょう。「救いのために、福音において私たちに提供されているままに、キリストのみを受け入れ、」とありました。イエス・キリストを信じると言っても、肝心のイエス・キリストがどんなお方なのか、全く分かっていないけど、取りあえず信じておこう、というのでは意味がありませんよ。

昔の偉い人ではなく、神の御子であり、人としてこの世にお生まれになり、十字架に掛かって死なれ、三日目によみがえられた方、私たちに「わたしを信じなさい」と招かれるお方なんだ。そういう、肝心なことを信じるんですよ、というのですね。面白いなぁと思うのは、信仰はとても大切なのですけれど、その信仰が何か、というのを問八六になってやっと扱うのですね。そして、ここまで、まず私たちが信じるその中身の福音がどんなものなのかを、丁寧に丁寧に語ってきました。そこに、私たちが信じることが「福音において私たちに提供されている…キリスト」であることが具体的に描き出されて来たのです。こっちが疎かになって、「何」を信じるか、より、信じる「私」が大事になってしまったらおかしくなります。救いを果たしてくださったイエス様より、私がイエス様を信じる信仰に力があって、強い信仰でイエス様から救いや恵みを引き出せると考える大間違いがよくあります。それは、本当に酷い間違いです。大事なのは、私たちの信仰ではなくて、イエス様の恵みが素晴らしいから、それを私たちはただ信じるだけなのです。

 同時に、その「信じる」とは、「キリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼む」、そのような信仰です。キリストを信じるとは、「キリストがおられた事実を信じる」とか「キリスト教の教えがいいものだと信じる」というだけではありません。良い教えだと思っているだけで、実際にはそう生きようともしていないなら、それは本当に信じているとは言えませんね。

英語では、believe in Christと言いますが、聖書でも「キリストの中へと信じる・任せる・従う」というニュアンスがあります。キリストを信じるなら、キリストの言葉をも信じて、お従いするのです。それぐらい、信じることは、私たちの生き方を変えることなのです。

 でも、もう一度言いますが、誤解しないでください。信仰は、神の恵みのプレゼントです。

私たちがイエスを信じて、従っていくことも、恵みなのですし、神がそのようにさせてくださるのです。神の御心は本当に素晴らしく、信じて、その中に飛び込むに値するものです。三位一体の神が、この世界を造られ、尊いご計画をもっておられます。人間は、神に背いて、心が罪で暗くなり、我が儘なのに孤独で苦しんでいますが、その私たちを取り戻すために、イエス・キリストがご自身を捧げて、十字架の贖いを果たしてくださいました。それを知らない人は、何を信じているのでしょうか。いつか、幸せになれるとか、どうせ頑張ってもダメだから、好き勝手に生きた方がいい、とか、そんな当てにならない言葉を信じて従っているのかもしれません。そういう私たちの所に来て、キリストは本当に信頼に値する方として、ご自身を私たちに与えてくださいました。私達自身を新しく生きる生き方に導き、そのための信仰も与えてくださるのです。

 宗教改革記念日を前に、私たちがいつも、この信仰の恵みに立ち帰ることの大切さを今日確認しましょう。主の救いを百パーセント信頼して、従わせていただきましょう。

使徒の働き23742

 

 神が人間に明らかに示してくださった御心は、聖書の中の「十戒」(十のことば)に明言されています。夕拝では、その十戒を一つ一つ丁寧にお話しして来ました。けれども、その十戒を、私達が守ることが出来るのか、というと、そうではない、と続いたのですね。私達は、十戒を守るどころか、毎日破り続けている。そして、神の律法に対する違反は、どんな小さなものであっても、神の怒りと呪いに値する、と言われるものでした。私達は、神の怒りと呪いを受けるような違反をせずには生きられないのです。そして、今日の問85ではこう続きます。■

85 罪のゆえに私たちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神は私たちに何を求めておられますか。

 さあ、この後にどんな言葉が続くでしょうか。神は、私達が罪の報いを免れるために、何をお求めになるのでしょうか。■神の怒りに釣り合うようなこととして、私達は、どんなことを思いつくでしょうか。一生懸命自分の償いになるようなことをして埋め合わせようと思う人もいるでしょう。神さまを喜ばせるように頑張んなきゃ、と考える人もいるでしょう。自分の罪を認めて、謙虚に、いつも項垂(うなだ)れて、罪責感を抱えて生きていかなければ怒られる、と考えてしまう人もいるでしょう。「自分には神さまに合わす顔などないのだと私も思ってしまいやすい一人です。けれども、それは、キリスト教の教えではないのですよ、とこの85の答はあっさり言うのです。■

答 罪のゆえに私たちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神は私たちに、イエス・キリストに対する信仰と、命に至る悔い改めを、贖いに伴う様々な益をキリストが私たちに分かち与えるのにお用いになる、すべての外的手段の熱心な使用とともに、求めておられます。

 つまり■ここに言われているのは三つです。「イエス・キリストに対する信仰」と「命に至る悔い改め」と、「外的手段の熱心な使用」です。この一つ一つを、次の問86から見ていきます。特に、外的手段は、問88以下でずっと扱われて、御言葉、聖礼典、そして、祈りの三つの外的手段について学びながら、このウェストミンスター小教理問答は結びにします。ですから、一つ一つの内容については、この後に詳しく見ることにします。今日覚えて欲しいことはこれです。人間が頑張って善いことをして神さまを喜ばせるとか、神の怒りにビクビクしていないといけないとか、そういうことは言われていないのです。また、神を怒らせた後始末を少しでもしなければ、神に近づくことは出来るわけがない、とも言いません。神の怒りと呪いを免れるためにこそ、イエス・キリストに対する信仰を、神は私達にお求めになる。これは、何と不思議なことでしょうか。そして、何と素晴らしいことでしょうか。イエス様がよみがえって天に昇られた後、お弟子達が初めて公に伝道をした時、正にこのことをペテロは言いました。

 使徒の働き二37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。…」

 ペテロが命じたのは、悔い改めて、イエスを信じ、バプテスマを受けること、でした。神の怒りを免れるために、何かをしよう、怒りを宥めてもらうような何か埋め合わせをしてから、神に顔向けが出来るとか、それが出来そうにないから、もう神から逃げていよう、というのではダメなのです。そうではなく、反対に、神の怒りを免れる唯一の方法は、神に向いて、イエス・キリストへの信仰と、罪から神に向き直ることなのです。■神が差し出して下さる、イエス・キリストの救いを受け取ることなのです。

 私達人間は、自分の力で、罪に対する神の正しい当然の怒りを少しでも宥めることは出来ません。人間は小さく、神は宇宙よりも大きく、聖なる無限のお方です。いくら背伸びをしても、神を動かせはしません。それが出来るなどと考えるなら、「烏滸(おこ)がましいにも程がある」と言うべき、甚だしい勘違いです。ただ只管、神が人間を憐れんで、怒りの元である人間の罪を解決し、受け入れてくださるのです。神がイエス・キリストを遣わして、私達のすべての罪をご自身に引き受けてくださいました。そのイエス・キリストという、神の一方的な救いの提供を、私達はいただく。それだけなのです。

 決して、私達の信仰や、私達の悔い改めが神の怒りを宥めるのではありません。イエス・キリストが神の怒りをなだめてくださったことを、信じるのであり、それに相応しく、私達としては罪を認めてゴメンナサイと言いつつ、神に向いて生き始めるのです。そして、恵みの外的な手段も同じです。聖書を読んだり、洗礼を受けたり、聖晩餐に与り、祈ることで神のご機嫌を宥めるのではありません。聖書を読むことで、神の愛や自分の悔い改めやイエスの救いをより深く味わうのです。洗礼や聖晩餐によって、イエスの福音を、水やパンや杯で、肌で感じ取り、舌で味わって、本当に私は神の子とされたのだ、と確証して戴くのです。祈りを通して、神との生きた交わりをいただいて、ますます神の救いの恵みに豊かに与るのです。私達はただ、イエスをいただくだけです。

 神は、ここまで私達のために、配慮してくださっています。神の怒りをビクビク恐れたり、考えないように逃げたりするのではなくて、神の赦しをいただいて、赦し以上の和解と神の子とされた祝福をいただけるのです。神は、それを私達に与えたいのです。私達が神の怒りからの救いを願うよりも遥かにずっと、神の方が、私達の救いと祝福を強く願い、永遠の喜びを用意しておられるのです。ひとり子イエス様をさえ、与えてくださいました。そしてそれを、私達が、信仰と悔い改めによっていただける、と言われています。更に、それを補強するために、御言葉や聖礼典や祈りという手立てまで下さいました。それを用いることによって、私達が、もう神の怒りを恐れず、救いの道を喜んで歩めるようにと、ご配慮くださってのことです。これは、何と至れり尽くせりのお心遣いでしょうか。信仰と悔い改めを求めてくださっています。私達の手に届く手段を用いるようにと求めてくださっています。人生に、これを生かさない手はありません。

イエスへの信仰である以上、恵みの手段は、それによって救いを得るというような手段ではなく、イエスへの信仰を強める手段。

「福音を自分自身に告げ続ける」ことが必要なのです。

 

39なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

40ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。

41そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

42そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

 

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ルカ二三章26~31節「希望のある覚悟」宗教改革記念礼拝

2015-10-25 20:44:37 | ルカ

2015/10/25 ルカ二三章26~31節「希望のある覚悟」宗教改革記念礼拝

 

 土曜日、10月31日は、教会のカレンダーでは「宗教改革記念日」ですが、「ハロウィーン」だと答える人も多いでしょう。ハロウィーンのラッピングをした商品もやたらと目立つようになりました。翌11月1日が「諸聖人の日(万聖節(ハロウマス))」というカトリック教会の記念日で、聖人(ホーリー)たちを記念する前夜祭(イブ)から、なまってハロウィーンとなったそうです。昔からの迷信ともごちゃ混ぜになって、死者の魂が帰って来る日だと信じられ、日本のお盆のようでした。一五一七年、当時の大司教がこの日に当て込んで、免罪符を大々的に売りだそうと聞きつけたマルチン・ルターが、それに抗議をして「九十五カ条の提題」を公開したのです。キリストの尊い十字架の御業を差し置いて、罪を嘆く悔い改めも神に従う信仰もなしに、お金で救いを買い取れるような当時の宗教的な教えに対する、根本的な抵抗(プロテスト)がプロテスタントの始まりでした。

 今日の箇所、イエスがいよいよ十字架にかけられるために、十字架を背負ってカルヴァリへ行かれる道で、そのイエスの後についていった二種類の人々が出て来ます。ここには、宗教改革が「宗教と信仰との違い」を問いかけたのにも似た二つのあり方が見て取れます。一つは、26節の

「クレネ人シモン」

です。聖書に出て来る人物でも、最も「運が悪かった」人の一人かも知れません。北アフリカのクレネからエルサレムまで、祭りのために出て来て、そこにいたのでしょう。弱り切ったイエスの代わりに、十字架を担がされます。重くて苦しく、屈辱で、血で服も宗教的にも汚れて、この後の祭りの行事への参加も諦めざるを得ない出来事でした。せっかくの巡礼がぶち壊しになった。偶々(たまたま)そこに居合わせただけなのに、「なんで俺がこんな目に遭わなければならないのだ」と怒りや疑問や後悔が心中に渦巻いたことでしょう[1]

 しかし、ルカはこの出来事を不幸ではなく、ここに記すに値する出来事としました。抑(そもそ)も、彼の名前やクレネ人という出自や「いなかから出て来た」事情を知っていたのは、彼がいつからか教会に加わり、名前が知られていたからでしょう。マルコ十五21[2]やローマ十六13[3]などを合わせて、シモン家族が信徒となったと想像されています[4]。この時シモンは、最悪だと思ったでしょう。けれど、そのことを通して、主イエスに出会いました。なんで十字架など自分が、と思ったでしょう。しかし、今この十字架を担いでいたナザレのイエスこそ、最も十字架など負う必要のない方でした。十字架を担って歩けないほど憔悴しきっておられるのに、なお主は呪ったり呟いたりせず、嘲笑い敵対する民衆を見つめ、憐れみ、向き合っておられました。そのお姿について十字架を担ぎながら、シモンはどうにかして信仰を持つようになったのです。

 反対に、27節以下に出て来る「女たち」には逆のことが言われます。この女性達は、イエスに向かって胸を叩き、嘆きを現していました。しかし、イエスを十字架に着けよと叫んだ民衆に混じっていた訳ですから、それは本当にイエスを愛していたからというよりも、大袈裟なパフォーマンスだったのでしょう。いずれにしても、イエスは言われました。

28…「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。

29なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』という日が来るのですから。

 これは直接には、この後、四〇年ほどでエルサレムをローマ兵が陥落して、多くのユダヤ人が命を落とす出来事を指しているのでしょう。それは本当に大変な混乱と苦難の時です。この母としての深い嘆きは、小さい子を連れて逃げるのが大変だ、という以上に、大きくなった子どもも戦争に行き、殺されたと知った時の嘆きでしょう。子に先立たれる親の辛さの方が沢山あったはずです。山に向かって「崩れてきてくれ」と願うのは、もう生きていたくない、わが子達が死に、もう希望を持つことも出来ない、心が絶望してしまった叫びです。

 本来、子どもを持つことは、当然祝福です。今もそれは変わりません[5]。しかし人間が、自分達の人生の土台や幸せの基準を子どもでも何でも具体的な祝福そのものに置いてしまうと、それは、いつかは破綻する間違った生き方になります。
 でも私たちは、なかなかそうは思いません。幸せと禍とを光と影のように考えて、
 「自分達は幸せの側にいるから不幸は来ない」
とか
 「禍にあってしまったから、もう死んでしまったほうがましだ」
と考えてやすいのではないでしょうか。この女たちは、イエスのために嘆きつつ、自分に禍が降りかかるとは思っていません。イエスは、嘆きの日が来ることを思い起こさせなさったのです[6]。いいえ、ここだけでなく、主イエスも聖書全体も言います。神を蔑ろにして「いつまでも自分達の好きにやって平気だ、大丈夫だ、神も守ってくださる」と嘯(うそぶ)く人々に言うのです。

「神に背いたまま、自分の幸せ、人生、生き甲斐だと思っているもの。それは全ていつか必ず失われる。自分のために生きるのを止めて、神を神として崇め、神に従い、互いに愛し合う確かな人生に帰りなさい」

と。

 イエスは、この時確実に迫っていた厳しい現実への覚悟を突きつけます。でも、それ自体、主イエスの彼らに対する愛からでした。嫌みや強情さからではありません。ご自分が歩くのもやっとの極限状態で、しかも今正に十字架に釘付けにされるという恐ろしい苦しみを前にして、なおご自分のことよりも、あなたがた自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい、と言われるのです。厳しさの根っこには、愛があります。人生の現実への覚悟をさせたいのは、その先にある希望を、キリストに従う道にある確かな希望を持たせたかったからです。

 クレネ人シモンは、まさにそのイエスを間近に見たのでした。そのお姿を後ろから見ながら、イエスについて行きました。十字架を押しつけられ、失ったことは多くあったでしょう。しかしそれによって初めて、主イエスのお姿を間近に見ました。自分が十字架に掛けられる苦しみよりも、人々の苦しみや不幸、滅びを嘆かれるお方でした。

 そして、シモンの助けを必要となさる方でした。ご自分に代わって十字架につくことを求められたのではありませんが、シモンにもその十字架を担う助けを求められたのです。

 イエスが私たちを招かれる道は、自分の安全や幸せを追い求める道ではありませんし、人の役に立つことを証明する生き方でもありません。私たちを愛して十字架に掛かられた主に従うことは、私たちも痛みや恥や悲しみから逃げずに、愛をもって生きることを第一とすることです。禍や不幸や不運な出来事が降りかかっても、そこで嘆いて絶望して終わるのではなく、その中でなお私たちが助けたり助けられたり、ともかくともに歩んでゆくのが、神が招かれている人生の旅です。自分の幸せを第一に求める広い道から、主イエスに従う旅路へと導かるのです。幸せな将来を追い求め、傷や恥や損や苦しみを遠ざける生き方から回れ右をして、キリストの測り知れない愛を既にいただいている者として、自分を差し出していくのです。自分が出来る事も、自分が助けを必要としている弱さも含めて、自分を差し出す生き方を、イエスご自身が示しておられます。この主イエスを仰ぎ続けるから、私たちは最悪の出来事を通してさえ、私たちを招かれる主の導きを信じることが出来るのです。

 

「主よ。生きるからには覚悟が要ります。あなた様は、それを希望とともに与えてくださいます。どうぞ私たちを、この群れを、自分のためでなく、あなたのため、仕えるために存在させてください。あなたがすべてを私たちのために捧げられたように、あなたに従う事ですべてを失うとしても、そこでも私たちを担い、愛し続ける主の永遠の愛がありますから感謝します」

 



[1] 北アフリカから来たシモンは恐らく黒人ですが、群衆の中から彼を選んだことには、ユダヤ人やローマ兵にとっては、人種差別的な理由もあったのかもしれません。

[2] 「アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が」。

[3] 「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく」

[4] 実際、「26…この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。」という書き方は、以前イエス様が言われた言葉をそのまま使っています。「九23…「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」「十四27自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」

[5] 現代の少子化には「子どもを産んでも将来は暗くなるだろう。子どもも大変だし、自分達も育てる自信がない」という発想があります。それは、間違いです。キリスト者は、どんな時代の暗さにあっても、福音による希望を与えられてきました。今こそは、子どものいのちを、幸いとして確信する信仰が求められています。諦めや絶望は、決して今日の箇所から引いてくるべきメッセージではありません。

[6] この時のここでだけ、将来の禍(わざわい)を予告されたのではありません。同じ言葉は二一23でも仰っていましたし、エルサレム崩壊も二一章で予告されていたのです。また、30節の「山に向かって」は、旧約聖書のホセア書十8の引用です。

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